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Short story_甘い涙 苦い雨

Un bios vanilleアンボアバニール_

SEAGE LUTENS composed by Cristopher Sheldrake

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香りを想起させる物語。物語を想起させる香り。

貴方はこの物語にどんな香りを感じますか?

香りの印象をshort storyで表現する試み

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「え、なにこれ。子供のお菓子みたい。エナ、こんなロリータな香水の趣味があったの?」
サナがそう言って私の手に返したのは、手のひらに収まる薄さの香水瓶。
昨日立ち寄ったSHISEIDOで何となく試し、他には似ない香りが印象的で、自分が纏うということは想定せずに、買ってみたもの。
「やっぱり、ちょっと甘いかな。うん、甘いね。」
皇居を望む有楽町ビルヂィング。
灰色のキャンバスにデッサンされたような東京。
日曜日、ビルのオフィスにはサナと私しかいない。
鼻をくすぐる、安らぐような温かい甘さはその風景には合わない。そして、この状況にも。

そう言うサキは柑橘系の香水を好んで使う。
今日はthe different company のベルガモットを纏っている。白いカットソーにネイビーのタイトパンツの彼女と柑橘の香り、それはこの場に良く似合っている。
私たちは中規模の法律事務所に勤める同期の同僚同士。
彼女は秘書室勤務の秘書で、私は司法書士。けれど、この関係でいられるのもこれで最後。
私は明日から20日間の休暇を取る。

社会に出て勤め始めてから、20日間も休むなんて始めてだ。そして、おそらく、最後になる。

退職を前にした年休消化。

オフィスとロッカーに残っていた私物の荷物を誰も来ない日曜日に纏めに来た。サナだけがこっそり手伝いに出てきてくれた。
「後のことは決まっているの?」
「ううん。多分、そのうちに都内で小さな事務所を探すわ。」
「そっか。これからも都内に住むなら、また時々ごはんしようね。」
「そうだね。サナ、今日は休日なのに手伝ってくれてありがとう。」
そうして、まるでいつもと変わらないおしゃべりをして、私たちはいつも通り手を振って別れた。明日から始まる週から、もう会うことがないのかもしれない、そんな予感を互いに見せないように。

***
「え、嘘でしょっ!」
先輩の鋭い声が事務所に響いた。
「なんてこと!何てことしてくれるの。」
それはすぐに怒号に変わった。
私が先輩と担当していた顧問になっている大手ゼネコン系建築会社の訴訟案件。
事務所にとっても先輩にとっても大きな仕事のひとつだった。
私は先輩につく形でその仕事のアシスタントを任され、書類の用意や土地価格の調査をしていた。


先方に提出した資料の中に、全く関係の無い別の訴訟案件の書類が含まれていた。
オフィスにあるべきその書類が指定のファイルにないことに気付いたアルバイトの学生が、自分がファイリングを間違った、建築会社に提出されたファイルに入れてしまったと言ってきた。メールでのやり取りなどの親書も含まれる。
彼が自分のファイルが見当たらないことに気づいたのは2週間以上も前、それが誤って建築会社へのファイルに紛れて提出されたのは2日前。なぜ、もっとはやくファイルが見当たらないことを言わなかったのか。そうすれば探しだして、ファイルの間違いを見付けられたかもしれないのに。
しかし、建築会社に提出する最終段階のチェックでそれを見つけられなかった私の責任だ。
「事務所の信用に関わる問題なのよ!」
先輩の顔は赤から青に変わり、その足で所長室のドアの向こうへと消えた。

オフィスにいたスタッフは皆凍り付き、あらゆる話声や物音が消えていた。
そこに居た全ての人間の視線は例外なく私を射ている。
「あーあ、やっちゃった。」
「自分じゃなくてよかった。」
「どうするのだろう。まずいよね。」
「きゃーかわいそう。バイトの失敗なのにね。」
聞こえない声が痛いほど届く。
普段はみな親切で、その雰囲気のよいオフィスの中の私は一員だった、けれど、私に繋がった糸の全てが一瞬で断ち切られた。
所長室から出た所長と先輩は私の方を見ることなく、その足でクライアントの会社に謝罪に向かった。
皆が帰宅で去って行く中、事務所に残された私は、帰ることもできず、どうすることもできず、貧血を起こしたようにデスクでただ座っているので精いっぱいだった。

「今直面していることが全てなのに、過去の過ちを悔いたり、怒ったり、恨んだり、嘆いたりしても、そんなこと、しても、しなくても、何も変わらないだろう。」
まさかこんな私に声をかけてくる人がいると思わなかったので驚いたが、それに対して何も反応ができなかった。
「今を善処するために、想像力を働かせよう。そのためには、焦ったり、過去を掘り下げても駄目だよ。どうしようか、って想像するんだ。どうしたら、ここからいいことがあるかって、想像して。」
そこに居たのは別のチームの弁護士の先輩だった。日置護、と言った。少し神経質そうで静かな人だから、普段はあまり話したことがない。
「もう照明を消すよ。ここにいても仕方がないから、ほら、支度して。」
彼は静かにそう言って私の帰宅を促した。

どうやって帰宅で来たのか分からない程に放心していた。それでも、日置のことばを思い出していた。どうすればいいのか。これから。これから。
私は文箱から白い便箋を取り出し、辞表の文面体裁を検索して、そのとおりに辞表をしたためた。明日、もし明日があるのなら、私はこれを所長に出しに行く。

その日、窓越しに透明な青い空が見える日だった。
誰からも声を掛けられることも無く、私も誰にも声をかけることなく、ただ出口で頭を下げて「お世話になりました」と呟き、私は、6年務めた職場を辞めた。
建物のエントランスまで降りると、駆け寄ってきたのはサナだ。
彼女だけが、私と繫がったままでいてくれた。
「エナ、ちょっと待って。急だよ。いくらなんでも急すぎ。」
「でも、日を延ばしても、仕方がないから。」
「まだ、処分とかが下ったわけでもないし。失敗なんか誰でもすることじゃない。人事の事とか、有給の残りとか、総務の手続きとかちゃんとした?」
首を横に振った。
「だめだめ、だめよ。せめてちゃんと有給使おう。残ってるんでしょう。」
「サナ有難う。ほんと今まで、ありがとう。」
「こんな形でエナが辞めちゃうなんて。」
サナは涙ぐんでいる。
「仕方ないよ。でも、これを自分の意思で選択できた。それだけでもよかったと思える。」
「そっか。」

サナが人事にかけ合って確保してくれた、最後の有給休暇。
これまで数日の休暇しかなく、旅行に行くといっても、温泉に1泊か2泊行くくらいだった。
初めて10日間の旅に出る。
行先は、タイにした。初めての国。


エアコンが効き過ぎた空港を出る。
タクシーを待つ間、ジンジャーリリーやプルメリアの慣れない香りが重い湿度とともに鼻腔に届く。
私は、仕事で失敗して、職を辞めて、無職で、ひとりで、何もないのに、今、この南国の地に立ち、勤めていた時には叶わなかった旅をしている。

ビーチと熱帯雨林に挟まれたホテル。
甲高い鳥の声と、海に沈もうとしている夕陽、色が移ろう空。
リゾートホテルは全室スイートで、こんなところに一人で泊まる日本人女性なんて、きっと奇妙に思われるだろう、
仕事はどうしよう、
あの過ちは結局処理できたのだろうか、
色んな事が頭に浮かんでくる。
それでも、この土地は、東京ではない。夢の中なのか。
いや、東京で起きたことすべてが、まるで夢みたい。
_「今を善処するために、想像力を働かせよう。どうしたら、ここからいいことがあるかって、想像して。」_
日置の言葉を思い浮かべていた。
もう、過ぎたこと。東京での出来事。

翌日、ホテルで紹介されたシュノーケリングのアクティビティを申し込んだ。
ラッシュガードを着て、初めて海に浸かる。
苦みのある塩水を味わう。
経験がないと言う私にはインストラクターが付いた。
「お客さんは日本人ですか。」
「はい。」
「私はアランです。」
日に焼けた若い男性だ。日本語は流暢で、タイと日本人のハーフだという。
「ウニには触れないで。今は波に流れがある時間だから、こっちにきて。付いてきて。」
2時間近く海水に顔を付けコバルトブルーや黄色の魚や白い海底が輝くのを見ていた。
フィンを着けても波に流されがちな私の手をアランが引いて足の届かない場所まで泳いで向かう。アランは水底へと潜り、エサで多くの魚を呼び寄せた。
ブルーの世界に輝く光。竜宮城を見た気がする。
まるで映画、いや映画よりももっと、幻想的で、現実のこととも思われなくて。

現実を感じたのは、さすがに身体が冷えてきたときだった。
「水から上がりましょう。」
砂浜に立つと重力を感じてよろけて、思わずアランにぶつかってしまった。
「しっかり。」
アランに腕を支えられる。
なんと無様な、運動不足の身体。
一人淋しくリゾート地に来る日本人をアランはどう思っているのだろう。

夜、食事に行く支度をするためにドレッサーに向かった。
昨晩は疲れていてルームサービスで済ませてしまったが、今夜はガーデンで食事をしたい。
唯一持っていたリゾートワンピースは数年前のエトロのもので、初めて着ている。
メイクポーチの中にある、香水瓶を取り出した。
アンボアバニール。
反射的に腕の内側にスプレーしてみた。
甘い香りを想像していたから、この南国の気楽さには合うかもしれない、と。
「違う」
思わず口をついて出た。
その香りは、東京で嗅いだ子供っぽい甘いバニラとは全く違っていた。
南国の夜。それは重く、切なく、子供の手の届かない遠い大人の世界。
自分にも到底たどり着けない、崇高な何か、それは祈りであったり、祈りの先にある神を知るような、突然の経験だった。
もう一度香りを吸い込む。
心が解かれていく。

香りと土地が同調した。

ガーデンテーブルに並んだキャンドルの下の美しい料理。
波の音がする。
「お飲み物は何になさいますか。メニューにないカクテルもお作りします。」
白いタイのシャツを着ていたから、初め分からなかったけれど、髪を整えたアランだった。夜は、ガーデンレストランで勤めているという。
「日中はどうも有難うございました。初めてあんなにきれいな魚を見ました。」
「それは良かったです。明日は雨のようなので、今日海に入れたお客様は幸運でした。」
「そうなのね。カクテルは、お任せします。何か、フルーツのベースでお願いします。」
「それでは、ジャックフルーツとマンゴスチンを使ったカクテルはいかがでしょうか。」
「全く想像できないけれど、それをお願いします。」

プルメリアの木の傍のテーブル。
どれだけでも星を眺めていられる。
けれど明日は雨なの?
「カクテルはいかがでしたか。お飲み物のお代わりは。」
「とても美味しかったです。アランはとてもきれいな日本語を話しますね。」
「私は日本に留学していました。そして半年間このホテルと同じ系列のリッツカールトン京都で勤めていました。」
「そうだったのですね。」

翌朝、アランが言った通りに雨音で目が覚める。けれども風はなく、それは静かな調べだった。
ホテルの中にある、明かりを落とした、まるでお城の一室のようなライブラリーに入る。
誰もいないそこで一日本を読んで過ごした。建築の本は写真を眺めているだけでも面白かった。
雨のビーチに目をやると、ちいさく黒い人影が見える。
アランだ。
ライブラリーのテラスに出る。
雨の中、アランがひとりでビーチの整備をしている。
きっと私よりずっと若く彼の目の前には未来だけが広がっている。
私は彼の一回り以上も年上で、痛んだ女。ああ、なんて自虐的な言い方。

独りで過ごす時間以外に、アクティビティに参加する際には、
アランが日本語が堪能であったこともあり、私一人でもグループでもアランがガイドとして付くようになっていた。
ウミガメの孵化を見るツアーはアランの案内でドイツ人夫婦と私だけが参加していた。
木陰に隠れて息をひそめて数十分待つと、まるで砂浜が動いているように見えたが、目を凝らすと小さなウミガメが一斉に海に向かって移動している。
「わあ、小さい。」
「お客様、前園エナさん。」
「はい。」
「やっと、笑いましたね。」
「え、」
「エナさんは今までずっと笑っていなかった。楽しい楽しいと言って、けれど笑顔はなかった。今、笑いましたね。笑顔を見ました。」
「え、そんな。」
「よかった。」
「そんなこと、気がつかなかった。」
「笑顔になってもらうことが、私の仕事です。責任です。」
と、突然土砂降りのスコールが降り出した。
慌ただしくビーチを離れ、皆、車に乗り込んだ。

雨の夕暮れ、すべてがブルーに染まって部屋には小さなスタンドライトだけが点る。
アンボアバニールの香りを深く吸い込みベッドに横たわる。
私、こんなゴージャスなリゾート地にいながら、笑顔ではなかったんだ。
アランの言葉にはショックを受けていた。
彼は何も知らないはずなのに、全てを見通されているような気すらしていた。
ああ、考えてはだめ。
今は考えないほうがいい。
もし、考えこんだら、私は、戻れなくなる。
こんな時に、誰かに心に触れられたら、良くないことになる。分かっている。

香水瓶を取り、一吹きした。
もっと、成熟した自信のある女性になりたい。
大きな木のような優しさを湛えた、強く、笑顔のある人。
そんな香りに包まれていれば、嘘でもそうなれるような気がした。

自分で自分を幸せにすることは難しく、誰もが誰かに引かれるに任せて、それについて行ってしまおうとする。
手綱を誰かに握らせておいて、それについていくのは楽だ。そしてそのくせ、安心できない、などと不満や愚痴を続けて、ついて行くばかり。
自らの首輪を外し、自分の感覚と足だけで進むのは勇気がいるけれど、勇気だけがあればよい。ひとりの自由はそんなに楽ではないけれど、苦しいわけでもない。
何故か、アランと東京のカフェのテーブルにいた。
アランの姿が、時折、日置の姿にも変化する。不思議だけれど、違和感がない。
いつの間にか、しなやかな香りが導く夢を見ていた。

数日前の自分とは、まるでOSのバージョンが変わったかのようだった。
いつまでお利口さんの女学生の延長でいる気だったのだろう。
私はもう、私自身の意志とこの足で、生きていく時だ。
もう何にも怯える必要はない。

チェックアウトを済ませ、ロータリーでタクシーを待つ。一台が止まり、ベルボーイが荷物をトランクに収める。その時、アランが駆けてきた。
「またいつでも来て下さい。今は貴方の目が輝いている。ここはあなたのガスステーションのようなものです。」
「アラン、どうもありがとう。貴方のおかげよ。」
私たちは握手をした。
「あなたの香水、それはとてもあなたに似合っている。」
タクシーが出る別れ際に、彼はそう言った。

棚からボトルを取り出し、時々、香りを味わう。
目を閉じて、いつでもあの場所の自分に戻ることができる。

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