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Column_住宅の匂い 

夏休みに訪ねる遠くの祖父母の古い木造の家
微かな線香の香り
早朝、炊きたてのご飯を仏間へと運び、備える.
朝日が射す食卓に並んだ青い花の描かれた茶碗をみて、時間がタイムバックした.
小さな畑で手折ったトマトの青臭さ、土を洗い落とした人参や大根の匂いとともに、40年ほども前のあの日のあの匂いが蘇る.

住宅街を縫うように通り抜け、友人の小さなアパートの階段を上る.
玄関を開けると、変わらない空気.
冷蔵庫のものを何もかも出して鍋に放り込んだカレー.
友人の暮らしの温かい匂いに包まれて、心休まる時間を過ごす。

誰かの住宅を訪ねると、その家特有の匂いが存在することは、
おおよそ誰もが経験し知っている.
友人の家、親戚の家、緊張する人の家.
住宅の匂いは、店舗や職場の匂いとは違う。
暮らしのすべてが匂いで、その家の匂いが、主の暮らし.

新たしい街で、住み始めたばかりの頃に感じた、建材の匂いや、湿気を帯びた環境の匂いは瞬く間に薄れて、
暮らしとともに、他の家とは異なる匂いが満ちる.
住宅ひとつひとつで違う匂い.
その暮らしの匂いは、その家を印象付ける.

けれど、主だけはその匂いを知ることが出来ない.
その人の暮らしそのものだから、匂いは感じられない.

たとえ、長い留守があっても、帰ってくる主のある家は、暮らしの匂いが留まる限り、朽ちることなく主を待つ.

しかし、住宅が主を失うと、それは死と等しく、朽ちていくのを止められない.
暮らしから切り離された住宅は、無換気による埃や湿気からの黴臭さだけではない.
家具もなく、クリーニングもされて何一つ汚れもない家.
その使われない水回りは、とても乾燥しているのに、清潔さは感じられない.
主のない住宅は、冷たい遺跡.

茶道の稽古場を兼ねた住宅は、幾たびかの引越しがあった.
その稽古場としての用途を満たすため、築年数を重ねた、古く大きな住宅が毎度、移転先に選ばれる.
例によって、新たな稽古場は築年数を重ねた和風建築に決まった.
何年も空き屋となっていたそこは、薄暗く、転居後の段ボールが積み上がり、
以前の明るく清潔だった、社中が集った稽古場とは程遠く感じられた.

それでもまた、志ある人達は稽古場としてそこに多く出入りし、以前の稽古場の住宅と同じように、喋り声や笑い声、多くの感情がその家を行き交い、数週間、数か月が経ち、引越しの片付けも完全に済んだ頃、
その住宅は、明るく清潔で、何か不安があればそこに駆け込みたくなるような安住の家になっていた.

庭先の蚊取り線香の香りや、金木犀の香り、雨に濡れた庭の匂いが人を迎える.
廊下に流れる微風が、街や移動で纏わり付いた身体の穢れを祓ってくれる.

主を得た住宅はふたたび生物になる.
さもなくば、すべての非生物がそうであるよう、ただ朽ち果てる.
主の暮らしの匂いは住宅を生物にする.
そこでは新陳代謝があり、家は主と生き続ける.


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