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東京残香_渋谷

LUCIANO SOPRANI SOLO

(ルチアーノソプラルチアーノソプラーニSolo)

東京残香******************************

掻き消され失われていく、土地の香りを短編物語に残す試み。

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ビル陰を割って、アスファルトに細く伸びる朝陽。
光と影のモザイクの上を誰もが早足に踏み越えていく。
朝10時を回ったばかりの渋谷。
これから始まる一日を見上げ、コンクリートに囲まれた重みで胸が圧される。
酸素が薄くなった池で水面に口を寄せる魚のように
無意識に浅くなっていく呼吸を、空の端に向かって一息に継ぐ。
ビルの隙間から覗く空は、今日は珍しく青い。

谷を上り、西武B館地階の一角。
休日には多くの人が集い、通り抜けるのも難しいほど混雑するA館との地上連絡通路も、平日のこの時間、ガラスの扉に映る姿は私ひとりだ。

その姿が数年前にもここにいた自分と重なる。
アンテプリマのリザードの6㎝ヒールサンダル。
アンクルストラップが付いているおかげで渋谷の坂道を歩く足も軽い。
美しさ、それはあの頃手に入れなければならない絶対的な理由だった。
街中を歩いて美しいものを探し、手に入れ、所有し、身に付けて歩くこと。
それこそが幸福な時間を生きていると感じさせてくれた。
そんな頃の、私の影を見た気がする。

けれど、今はもう裸足だって構わない。
どんな姿であろうと私は今、生きている。
気軽に入れるカウンターカフェ。
ラージサイズのアールグレー、焼き立てのパニーニ、季節のフルーツが嵩高く盛られたタルト。店内に流れるいつものボサノヴァを聞きながら、荷を運ぶ運送スタッフや、スーツ姿の群れの流れを眺めている、通りからのガラス越しに過去の自分と目が合う。
これはただの懐かしさか、それとも過去からの警告?

公園通りの坂を上り切る。
子供の頃からロボットビルと呼ぶ放送局の建物と銀杏並木。
ここまでくると、谷とは吹く風が違っている。
これから茂ろうとするイチョウや欅の葉。鬱蒼とした神宮の森は、この国が温暖湿潤の気候であることを思い出させてくれる。
尊いように思えて、それでいて安っぽい。そんな時間をいくらでも過ごしてきたこの街。

それは尽きることを知らないような気がして、スケジュール帳が2つ必要なほど一日にいくつもの予定が入っていた。

けれどももう今は何の約束も、待ち合わせ場所も、決まった時間もない。
私にあるのは、この身体と心だけ。

そして歩き出す。
向かいたい方向へ。
行きたい場所へ。

全てが決まっていて、規則通り約束通りに動かなければルール違反のゲームオーバーのこの街。
東の海の方に向かって空の色は失われていく。
皆が分刻みの時間を気にしている。
そして、まだない明日、過ぎてしまった昨日を憂いている。

私は、ここに存在する自分だけになった。
そして、今初めて自分で呼吸をしている気がする。
全てを失った。
そうすることで、やっと私は満たされていた。

26歳で結婚した私の5年半の結婚生活は突如に終わった。
夫の急死。
大静脈瘤解離だった。
職場で倒れ、そのまま病院へ運ばれた。
医師は、痛みに苦しむ間もなかっただろうと言った。
慰めにも何にもならない。

夫の遺したものが多すぎるあの家では、もう暮らせなかった。
まるで今に夫が帰ってきそうで、私はそれをただ待つばかり。
私の中の記憶は全てを抱えるには重くなり過ぎていた。
夫の死の直後、私は身体を動かすことができなくなり、食事も摂れずにいたところを友人に発見され病院に運ばれそのまま入院した。
そのような経緯もあり、夫の急死の後に山積したものごと全て、処理は夫の実家に任せたままになった。
そして、それっきりに。
幾分体調が戻ると少しの荷物だけを持って、私は家を出た。
勤めていた病院の仕事も辞めた。
まるで結婚生活を無かったかのように、一人で新たな道を歩き出す私を、突然に伴侶を失う悲しみは如何程か、と無言に同情を込める人や、無責任だ、薄情だ、と言う親族もいた。

夫との生活に、不満は何も無かった。
購入したマンションからは目黒川を伝えば渋谷まで徒歩で通うことも出来た。
そして不満がない事と同じように、二人の生活の中には、幸福というものも見当たらず、それはいつかどこかに現れる幻想のようなものなのだと思っていた。
不満を不満だと感じられる程の余裕すらなかったというのが真実だった。
土日も返上することが多い製薬会社のMRの夫と、都内の病院で検査技師をしていた私は、2人で日々を回していくことだけで精いっぱいだった。
決まった時間に朝が来て、決まった時間に風呂に入り、明かりを消す。
そこには不幸も幸福も、入る余地が無かった。
ただ、同じ屋根のもとで一緒に暮らしていた人。
毎日顔を合わせる人、それが良くても良くなくても、日々は積み重ねられていった。
子供?そんなことは二人の間で話題にも上がらなかった。
何故?分からない。
ふたりとも、結局自分たちのことしか頭になかったのかもしれない。

独りになった。
そして、ようやく自分が疲れ果てているという事を知った。
夕陽の射しこむ部屋のカーテンが茜色に染まること。
窓の外の街路樹は、もう影ができる程に茂っていること。
そんなことに、少し驚く。

足が赴くままに歩を進めた。

気が付けば外苑西通りの端、キラー通りに辿り着いている。
昔、この辺には小さな素敵なインテリアのお店があったはず。
けれども、何度も行ったり来たりしてみたけれど、もうどこにも見当たらない。
私に少しでも馴染みを感じさせてくれるのは、何処にあっても同じコンビニエンスストアだけ。

外苑前の駅を過ぎ、根津美術館へ下っていく途中の路地。
奥にあったライブハウスは時間極駐車場になっていた。

私がかつて、学生時代によく通っていたこの街は、本当に実在したのだろうか。
全て私の頭の中でいつの間にか創りだした幻想なのでは。

「なんて顔をしているんだ。こんなところで。」
そう聞こえた気がした。
周りを見回すが、細い路地の角、此処には他に誰もいない。
亡き夫の声の幻聴でも聞いたのだろうか。
「よくこの次元に移って来れたな。」
また同じ声が言う。夫の声ではない。これは夫の口調ではない。
「誰?」
思わず口を開いた。
「自分の足で歩ける人間は、この街ではもう異物だよ。自分の生命の時間を生きているお前はもう、この街のシステムの一部に戻れない。」
「誰なの。何処にいるの。」
「ここだよ。目の前にいるじゃないか。」
目の前に居るのは駐車場の縁石の上に座っているキジトラの猫一匹。

「そうだよ。」
その猫が言った。
「お前は最近までこの街に受け入れられていたし、おまえも立派に歯車の一部として機能していた。満員電車の朝の通勤。22時過ぎの地下鉄の窓に映る顔。それでも、求めたものすべてはこの街で手に入れただろう?欲しかったものはなんでも。望んだ通りじゃないか。そのままでいればよかったのに。空騒ぎの中にいれば、それでよかったじゃないか。」
「そうね。そうかもね。」
「さあ、目が覚めてしまったんならば、悪いことは言わない。この街からは出ていくことだ。」
猫はそう言って立ち上がり、足下に近づいてきた。

ふと、猫が視界から消えると、横に立っているのは見覚えのある若い男性。
誰だろう。
とてもよく知っている人なのに、この人が誰なのかを思い出せない。
ただとても心を動かされる。
柔らかい黒い髪。シャープなフェイスライン。ストライプのシャツにジーンズ。誰?
ああ、この香り。

この香りとこの街に生きていたあの頃。
全てが輝いていて、楽しくて。
胸が躍っていた、ただただ笑っていた。
チープで構わない。
先の事なんか考えなかった。
仕事も生活も、何一つ見通しなどなかった。
空騒ぎ。
いつかは弾ける、7色に輝くシャボン玉を飛ばして、笑っていた。
その横に、この人がいた。

でも、私はもう思い出せない。この人が誰なのか。
ただただ、この香りが懐かしくて。
けれどこの香りに包まれていた自分は、この香りを好きだった自分は、もうどこにもいない。


神泉の駅から徒歩13分、暗いアパートのドアを開けると、部屋にはよそよそしい建材の臭いが籠っている。
灯りを点すと、家具もまだ無い部屋で、整理しかけていた過去の郵便物がシンクの横に積まれたままだ。
何年も前の年号が印刷された年賀状。
届け先不明のスタンプが押され戻ってきている。
写真付きハガキの写真に見たのは、自分の結婚式の写真。横にいるのは夫。
先日亡くなった人と同じ人物とは、もう思えなくなっていた。

あの香りが蘇る。
夫が当時、デートの時によく使っていた香水だ。
渋谷でCDを探して、恵比寿で食事をして。

いつしか、香りを愉しみ、香りで歓びを表現することを忘れた。
汗と脂の匂いすらも気にすることなくスーツを着て始発電車に間に合うように家を出ていく。お互いの顔を見るには、まだ暗い時間だった。
ウエストのサイズが変わり、頬はたるんでいく。
これを、生活というの?これが人も羨む安定なの?

この香りが生活の中から消えた時、街に呑まれてしまったのだろう。
この香り、今、何処から薫っているのだろう。
香りの強さを辿り、小さなトランクの中に見覚えのない香水瓶が紛れ込んでいるのを見付けた。
既に使用の形跡があり中身は半分以上減っている。
これは彼が何年も前に着けていた香り。けれどももう、何年も着けていなかった香り。まだあったんだ、このボトル。

もう、戻らない。
けれどせめて、覚えていて、と、あの頃の街がこの香りを私に残した。
窓の外を猫の影が横切った。

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