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Short story_ Mykonos

penhaligon's MALABAH


新たな感情やイメージに繋がる複雑な香水は、物語を沸き立たせる。
香りから沸き立つイメージよりも先に、香料原料や成分名、何の香りであるか、が思い浮かぶようなフレグランスでは調香の意味がない。
希少で上質な天然香料を敢えて混ぜ合わせる調香では、失敗すると「何も香らなくなる」。このとき、香りどうしが打ち消し合い、香り立ちはゼロになる。一方、香り立ちの強さや扱いやすさを目的に用意された合成香料や単調原料での調香を失敗すると「奇妙な匂い」が生まれる。そのような香りは感覚とイメージの間の繋がりを歪ませる。

単一香料を用いたフレグランスを謳うEscentric Molecules(by Geza Schoen)は、もはや調香香水と言わない。経験したことのない嗅覚感覚を味わいたいという酔狂以上の何ものでもない。
ペンハリガンのマラバーはShort storyで紹介するフレグランスの中では比較的入手しやすいものだが、その複雑なイメージは、その香り同様に複雑な情景を生む。

*************************
舞台袖の闇から、ステージを包む光に目を細める。
この世を縛る時間や空間の限界を超えた幻夢のような音のパフォーマンス。
割れんばかりの歓声が音圧となって会場に満ちる。
鳴りやまぬ拍手を背にアンコール演奏を終えたメンバーたちがステージから舞台袖へと戻ってくる。熱と汗を湛えた男たちは私の目の前を足早に過ぎていく。
バックステージスタッフからの拍手が彼等を迎える。
最後に袖に戻ってきたMyconosメンバーの3名。
一瞬、私の傍で足を止め、そして過ぎ去って行った彼。
彼を包んでいた香水の香りだけが残された。
いつしか親しみに変わっていた、その香り。
奥の通路から聞こえる明るい笑い声が遠ざかっていく。
楽屋通路へと向かうエレベーターが、3人とサポートミュージシャン出演者たちの声を連れ去った。
時の流れは容赦なく彼らとの時間を私から引き千切る。
それでも、永遠を刻んだその刹那の香りの記憶を抱えて、私はこれからも生きていける。

「無理です。」
30代の間は、仕事のオファーは何であれ一切断ってはいけない、新人時代に先輩からそうアドバイスを受け、忠実にその言葉を守ってきた。声がかかったプロジェクトは好むと好まざると全て引き受け、様々な役職を兼任する多忙な日々を送っていた。いつしか、経験は積み重なり、仕事の結果にも手応えを感じ始めていた。
しかしその日、私はその禁を破り、依頼を固辞していた。
「あなた以外では、無理なのよ。ノーと言う選択肢はこの件についてはもう無いの。とにかくやって。」
社長室に呼ばれ、直属の部長もいる前で社長から直々のオファーだった。
しかし、この仕事はありえない。まったく畑違いな仕事内容だから。
海外から招くミュージシャンのコンサート企画、舞台監督と、その舞台のドキュメンタリーフィルムのプロデュースを任されていた私は、その役を直ちに同僚に譲り、日本の人気ロックミュージシャンのコンサートツアーのプロデュースをするように言い渡された。やりかけている仕事を他の人に渡すことも許せないし、アイドルともいえるロックミュージシャンの扱いなんてとんでもない。
そもそも、そのコンサートツアー企画はうちの会社が請け負った仕事ではない。
他社が企画元となり大規模な全国ツアーを企画した。しかし、その会社に所属する担当プロデューサーが退任し、後任が不在になっているという。しかも、今回はふたり目の退任だとか。この経緯を聞くだけでも、かなり面倒な状態にある仕事なのは明白だ。
Myconos(ミコノス)は男性ミュージシャン3名のロックバンドで、人気知名度共に既に国民的と呼べるだろう。ここ数年、ドラマや映画、CMとのタイアップ曲は全てヒットチャート上位に上がっている。
ライブハウスからの下積みと人気を経て、中堅レコード会社からデビューして今年で13年になる。オリジナル曲のメロディはユニークでありながら、売れる曲としてもデザインができている、演奏も歌唱も確かな技術を持った実力派だ。しかし、皮肉なことに彼らの人気はその音楽性よりも、その洗練されたスタイル、ビジュアルによる若い女性からの人気とアイドル性に強く支えられていた。コンサートツアーを組むならその会計規模は軽くビリオンを越える。後援に名乗りを上げているスポンサーの数も少なくない。
CM曲を提供している航空会社からのタイアップも付き、もはや一旦動き出した全国ツアーの企画はその巨大な歯車を止めることができない状態だ。
しかし、前任のプロデューサーは次々に何らかの理由でアーティストとの折り合いが悪くなり、事実上アーティスト側から追放を受けた。アーティストがツアーの無期延期まで示唆する事態に至ったため、その後のアーティストとの間の関係修復に苦慮していた企画会社は時間との戦いにとうとう音を上げ、うちの会社の社長が泣きつかれた、というのが経緯だ。

情が厚く、パワーウーマンの社長は、大手芸能会社のマネージャーから独立してこの会社を興した。いわゆる芸能界での人望も厚く、解決不能に陥ったトラブルシュートの切り札、最後の頼みの綱になることは少なくない。とはいえ、うちの会社は、純粋な音楽ファンのために外国から著名な演奏家を招く中規模のコンサート企画を専門にしている。狂信的なファンをもつアイドルミュージシャンの全国ツアーなど到底、取り扱い内容の範疇外だ。資金も人も、其処に注がれる時間もエネルギ―も全てにおいて扱う物事の規模が全く違うのだから。

私は延々と固辞の理由を並べたが、社長の方が何枚も上手だった。有無を言わさずに私を車に乗せ(駐車場での光景を傍で見ていた人には拉致事件かなにかのように見えただろう。)、企画会社社長やマネージャー、アーティストが既に列席しているレコード会社の会議室に物理的に押し込んだ。こんなばかげた状況が本当に起こるなんて想像もしなかった。
丸の内のビルの中、会議室のドアを開けるなり、社長は驚き戸惑う私の背中を拳で押し、そこに集まっていた皆の前で私が後任プロデューサーだと紹介した。
「この、ここにいる、この三田が今回のMyconos全国ツアーの総合プロデュースを務めさせていただきます。ここからは本当の仕切り直しとなりますのでよろしくお願いします。」
社長も半分はやぶれかぶれでこんな無茶をやっているのかもしれない。
私が引き受けたとしても、前任たちと同様にまたアーティスト側から追放されるならそれは仕方がない、ということか。私を今日この場に立てたことで社長の個人的仁義はひとまず果たされた。この日の会議は、妥結しなければツアー契約は不履行となるはずの、最終対策会議だったそうだ。それを知ったのはずっと後のことだった。

ツアーに関わるコアスタッフと、そしてメディア上でしか見たことの無かった3名の有名アーティストたちの強い視線を受ける。私のほうは彼等の顔こそ知っているが、彼らからすれば私は当然初めての知らぬ顔だ。
この場に、私はまるで歓迎はされていないようだ。
不機嫌そうに目深に帽子をかぶり煙草を吸っているボーカルの男はこちらを見もしない。苦い顔をして顔を見合わせたのは元受けの企画会社の社長とアーティストの所属会社の担当者だ。そして、Myconosマネージャーの西村。
「今度は、女子高生みたいなのを連れてきたな。」
誰かがそう言って、失笑が漏れた。
その瞬間に、私は突然肝が据わってしまった。
「初めまして。三田(みた)紗綾(さあや)と申します。今回のツアーで、総合プロデューサーを務めさせて頂きます。どうぞよろしくお願いします。」
今日は会議の後続けて夕方から打ち合わせという名の下にスポンサーとアーティストとの食事会がセッテングされているという。プロデューサーならば当然同席していなければならない。
私はその日、ブルーのニットアンサンブルに黒のパンツ、ヒールの無いパンプスという普段のオフィス勤務の格好だ。突然引きずり出されたのだから、と言い訳の一つも言いたかったが、フォーマルな食事会に行く恰好とは程遠い。それ以前に、プロデューサーという責任ある仕事を受け持つ立場の女性の姿でもなかった。
そういえば、今朝は時間がなく、メイクアップもほとんどしていない。
「ツアーまで一年をもう切っています。ポスターの準備だけでも先行させておかないと厳しい状態です。もうこれ以上は宣伝日程を延ばせません。」
広告代理店の人間が言う。
「誰のせいでこうなったんだよ。」
「おい。」
「なんだと。」
「やめ、やめ、やめ。せっかくここから、もう一度仕切り直そうっていうんじゃないか。」
「じゃあ、三田さん。あなた今日のスポンサーとの食事には同席してくれるわけね。」
「あ、は、はい。その予定です。」でしょうか、社長、と横を見ると、当然だろうと言わんばかりの睨み付けるような目線を送られた。
そのまま会議室で今後のスケジュール読み合わせ、現状の予算計画報告がある。私は今現在、最低限把握すべきいくつかの点についてMyconosの所属する芸能会社の担当に説明を求めた。すると、その場での回答保留や、実際に曖昧なままで進められている点が多い。次回の打ち合わせまでに詳細を報告するようレコード会社の社員に指示した。

会議が休憩に入ると、社長は私の腕を掴んで化粧室に引きずり込んだ。眉が吊り上がり鬼の形相で私の顔を見る。打ち合わせの中で私に何か不味い言動があったのだろうか、と叱られるのを覚悟した。
「なんでもっとちゃんとした化粧してこないのよ!」
「いえ、していないこともないのですけれど、なんだか、汗で崩れたのかしら。」
社長は自分のバッグを開け化粧ポーチからアイシャドウやチークを取り出し私の顔に色を付け始めた。アイラインくらいは自分でするようにと、ペンシルを渡される。
「ちょっと、休憩時間にこんなに派手な顔に変えてしまったら、急にわざとらしくメイクしたように思われませんか。」
「それくらいでいいのよ。」
口紅を塗りなおす。瞳が大きい私はメイクをすると舞台メイクのような悪目立ちをしてしまう。見た目だけできつい印象を与えてしまうので嫌遠していた。
外国ブランドの独特の香りが強く香る社長の化粧品。自分から社長の匂いがする違和感。
「引き受けてくれてありがとう。あなただから、頼んだのだからね。任せたわよ。」
両肩を鷲掴みにされ、身体を鏡に向けられた。見慣れない自分の顔と、社長の顔が、洗面所の鏡の中に並んだ。

スポンサーの大手飲料メーカーの広報担当者と常務、Myconosの3名のメンバーのうちラジオへのゲスト出演が入ったギターの川(かわ)﨑(さき)亨(とおる)を除く丘倉(おかくら)孝(たか)善(よし)と茅根(かやね)尚(ひさし)の2名、マネージャーの西村と芸能会社役員。
銀座の高級中華料理店の個室に通される。
いつも持ち歩いているジュエリーケースの中に偶然入ったままになっていたマリーエレーヌドゥタイヤックのマルチカラーピアスのおかげで、テーブルから見えるアンサンブルニットの上半身だけでも多少は食事会にふさわしい姿に近づいただろうか。
まだプロデューサーとしての名刺を持たぬままに、スポンサーや広告代理店との名刺交換が始まった。舐められてはいけないと強がってはみているが、早くも冷や汗が止まらない。
数時間前に任じられたばかりのプロデューサーが来るべき場所なのだろうか。
ベーシストの茅根尚は媒体で見るよりも大柄で、言葉が柔らかく映像からは見て取れなかった白髪がちらほらするナチュラルな雰囲気にも親しみが持てた。
「紗綾、さ、あ、や、です。」
「じゃあ、さや、さんね。」
一方で、ヴォーカルの丘倉孝善はプロデューサーなど誰でも構わないといった様子で無関心のようだ。気安く声を掛けられない雰囲気に押されて、彼とはまだ言葉を交わしていない。祖父がロシア人だという。長くカールさせた髪の毛。その外見だけでも周囲とは明確に違っていた。マネージャーとともに現れたそのスーツ姿はシノワズリの赤い部屋に映える。ファッション誌の1ページのようだ。大きな瞳から放たれる彼の視線から、私は思わず目を反らした。初めて会うアーティストとの接触には常に緊張がある。まだ私には、彼と向き合う心の準備ができていない。
「ツアーでは新曲をいくつか紹介するつもりです。会場のお客さんだけが最初に聞くことができます。」
茅根はうまくスポンサーとも話をしてくれている。バランスのとれた社交性がある。
順調に食事会が始まったかと思うと、間もなく丘倉孝善はマネージャーに何かを言って席を立ち、ひとり部屋を出ていった。それを目で追う一同からは一瞬言葉が失われ、席が固まった。マネージャーに尋ねる視線を向けると「ああ、すみません。ちょっとお手洗い、だそうで。」と小声で答えた。


一体誰が、これからこのツアー終了までの過程を一緒に歩んでくれるのだろうか、誰がこの先、進む道の障害となるのか。ビールと紹興酒に酔い、銘々に大きな声で喋っている彼らの中で、私はその一座にいるメンバーを見渡していた。

写真撮影なども済み、ほろ酔いの機嫌を良くしたスポンサーを見送った後、マネージャーと茅根が私を誘った。バーに飲み直しに行くと言う。
「丘倉さんは。」
「ああ、あいつは、なんかこれからなんかあるらしくって。もともと孝善はあんまり飲みに行ったりしないんだよ。」
「いいの、いいの、俺たち3人で行こう。紗綾さん。」
タクシーは青山から広尾のワインバーに私たちを運んだ。
その夜、マネージャーの西村と茅根は私にこれまでの事態の経緯を語った。彼らが、更迭と呼ぶ前任プロデュ―ザーふたりの退任劇。望まれた商業イベントとアーティストとしての彼らの表現したいものとの間のギャップ。予算の問題。もともとライブハウスを原点として活動してきた彼らに、現在のカリスマ的アイドル人気に対応すべくアリーナレベルの大規模全国ツアーを企画した事務所と企画会社。ツアー自体がもはやMyconosの所属事務所の手に余る規模となったため、ツアープロデュースは企画会社のものとなり、その会社からプロデューサーが手配された。そこに原理的な無理が生じていた。企画会社と事務所との間の意見の相違。Myconosとプロデューサーとの間の軋轢。


とはいえ、こういった興行の世界ではそんなことは珍しくもない。彼らだけに起こるという問題ではなく、ありふれた、どこにでも起こる話だ。そんなことすら内々に解決すらできずに、プロデューサーの退任にまで至る騒動へとつながったのは何故か。
私は口を挟まず、彼らの言うに任せ、ただ聞いていた。
真の問題を見抜く必要がある。片方の主張のみを聞き、それを鵜呑みに物事を見ていくのは危険だ。
赤のシャルドネのボトルが2本空いたころ、西村が言った。
「孝善は大人に見えるけど、あれ、子供だから。」
ヴォーカルの丘倉孝善は見た通りに、身内にとっても扱いは易しくないようだ。
「アーティストは皆、そのようなものです。その部分を含め、アーティストとしての魅力ではないですか。」
「あなたは理解ある人だ。でもそうは言っても、紗綾さん。」
「程度の問題だよ。孝善が歌わなかったら興行にもライブにもならない。一応、飯食っていくための仕事でもあるんだから。」
「歌わない?というのは。」
「ああ。歌わされている、と思うと、駄目らしい。全く、歌えなくなる。本人の意図するものなのか、意図していない性質なのかどうか、分からない。」
テレビの音楽番組やラジオで流れる丘倉孝善のヴォーカルは、街でもTVでもラジオでも様々な媒体から流れ、聞き流されている。1970年代の洋楽ヒット曲を独自にアレンジしたポップなある曲は耳に残る受け入れやすいメロディーだし、ヴォーカルの音域は広く声質もいい。しかし、これまで私は真剣に耳を傾けたことはなかった。歌詞のあるJポップ自体、私の扱うクラシック音楽プロモーションの領域とは違う。
「駄目って、どういう風に?」
「声が出ないと言って、そして帰ってしまう。」
「その場で話し合って、お互い納得して進めることは?」
「それができる人間は、大人と呼ぶ。」
丘倉・孝善・ミハル。それが彼の本名。

西村マネージャーにスケジュールアレンジを頼み、翌日、ギターの川﨑亨のスケジュールを確保してもらい、個人的に会うことにした。彼のマンションの近くだという恵比寿のカフェには、日中は特殊な人たちの打ち合わせの場所に使われる。
店内でもサングラスをかけ、帽子を取らない人、グッチやディオールの最新のコレクションに身を包む人。だから素顔で川﨑亨が入ってきても、誰も不躾な視線を向けることはない。この場所には仕事をしに来たのだと分かるから。
実際に私は椅子から立ち上がり彼に頭を下げ名刺を出す。
テーブルの上ではカフェオレボウルとラップトップが面積を奪い合う。
「正直、このツアー企画はどうなることかと思った。三田さんがプロデューサーに着いてくれなかったら、もうほんとあの企画会社との契約破棄で終わることもありえた。」
半分冗談でも、少しは私に期待をしているのか。
「まだ、何も始まってもいません。これからです。」
作曲とギターの川﨑亨は線の細い端正な顔立ちの男だ。繊細でミコノスの作曲作詞のブレインとして音楽性を決めている。
「僕たちは、自分たちをアーティストだと思って活動していますが、どうしても孝善のビジュアルに依存したパブリックイメージが先行しています。商業的には音楽家としての側面よりも、アイドルに近い売り方をした方が収益が上がる。ここまで関わる人間も多く、規模が大きくなってしまった今は、自分たちだけのやりたい音楽のことだけを考えるわけにもいかなくなって、正直もう、自分たちですらMyconosが手に負えなくなっている。怪物なんです。」
ソロシングルをリリースした丘倉孝善に加え、川﨑、茅根にもソロ活動の話も増えており、ツアーの結果次第では解散という選択肢の可能性がゼロでないことは読み取れた。川﨑も茅根も、ボーカル丘倉の人気を頼らずとも音楽の専門家としてもやっていける者たちだ。彼の目は既に10年後、それ以後を見据えている。
「私の役目は、このツアーを実施するための経費を集め、収益を回収することです。アーティスト自身がそこに時間と能力を裂く必要が無いように。けれども、一方で私は単なる興行屋でいるつもりはないのです。その時代、時代の文化を作りたい。ミコノスがメジャーになるこの時代を、ミコノスの今回のツアーを文化として時代に刻みたいのです。」
「三田さん、失礼ながら正直に言えば僕はあなたをこれまで見損なっていた。企画会社がこれまでと違うタイプの人間をプロデュ―サーとして送り込むことで、それで目眩ましのように事を丸め込もうとする意図があるのかと思った。」
「正直に言えば、私も一瞬それが会社の本当の意図なのではないかと考えました。」
「ははは。頭の回転のいい女の人と話をするのは楽しいよ。それでは、本気でMyconosのツアーをプロデュースしてくれますか。」
「そのつもりです。」

それから私は予算計画の練り直しや、甘すぎる見積もりの修正に取りかかった。そして、まだきちんと話をしたことがない孝善との時間をアレンジしてほしいと西村マネージャーに頼んでいたが、返事がまだなかった。メンバー3人全員に早く会って、意思の疎通をしておきたい。まだ話をしたことのない、丘倉孝善は、過去2名のプロデューサーを退任に追い込んだ張本人のようだし。

「三田さん、急ですみません。8時に六本木一丁目に来れますか?」
携帯端末から背景の雑音とともにMyconosマネージャーの西村の声がする。
Myconosは音楽番組の収録中だという。西村マネージャーはその終了後に彼らとツアーコンセプトの意見交換をしてほしい、という。
「もちろん、伺います。テレビ局のほうに伺いますがよろしいですか。」
社用車ではなく、社長個人のアウディを使って移動した。ダッシュボードには各テレビ局の入館証が入っている。全て社長のものだ。
車を降りようとして、バックミラーに映った自分と目が合う。ハンドバッグから口紅を取り出し、濃い目に塗り直した。これから始まる戦闘への装備だ。
Myconosの出演する音楽番組の収録が終わったのは結局9時半を過ぎた頃だった。
「ああ、紗綾さん。」
ステージ衣装のままの茅根は、私を認めると人懐っこく私に手を振った。その後ろに川﨑亨と丘倉孝善が続く。その3人の周りだけ、他と比べ空気が仄かに明るいような気がする。
彼等ほど常に多くの人の視線を浴びるアーティストは普通の人間とは全く違う世界に生きている。自信だけが彼ら自らを守る鎧なのだ。心が揺らげばたちまち崩れてしまう危うさと背中合わせに纏う鎧。スタッフや裏方の人間とは存在感が歴然と異なる、生命の光に包まれているスターたち。

楽屋に続く会議室にMyconosの3名と西村マネージャーが揃った。
全国ツアーのコンセプトについて、企画会社から渡された資料を基に、簡単に企画プレゼンテーションを行い、それに対する彼らの意見を聞きたかった。新曲披露を含めたライブ感。演出の規模。おそらくステージでの現場監督としての舞台監督は付くが、総合監督としては私自身がアーティストと現場を繋ぐハブになるということを伝えた。
話し終わると、腕を組んで苦そうな顔をしている川﨑、頷いている茅根。そして露骨に不機嫌そうに煙草をふかしている丘倉孝善。
「三田さん、あなた僕たちのライブを今まで観たことあるの?」
初めて孝善が私に対して言葉を掛けた。
「申し訳ないですが、これまで観たのは映像資料だけで、生のライブはまだです。」
川﨑は鋭く言った。
「ファンの視点があるっていうの?それで。」
「まず聞いてよ、Myconosの演奏を。ちゃんとパフォーマンスを生で観てから企画をしてほしい。」
「今から過去には戻れないだろう。孝善、無理を言うな。」
「過去に戻ってライブが聞けないなら、今から聞いて。今ここでやるよ。」
孝善が言った。
「ここって、この会議室で?」
「西村さん、あのスタジオまだ開いている?」
「いや、もう片付けてるでしょう。」
「孝善、何考えてる。」
「三田さんに聞かせたいよ。西村さん、収録のスタジオ開けてもらって。」
「どうかなあ、それは。今からっていうのはスタジオはちょっと。もう撤収中だろうし。」
「行ってくれ。今すぐ。」
孝善の強い語調に、西村マネージャーはドアを飛び出してスタジオに向かった。
「孝善が、それで気が済むなら構わないよ。三田さんに演奏を観てもらいたいっていうのは、その通りだと思う。」
川﨑が言った。
「三田さんが僕らのパフォーマンスを知らないから、だからもう歌いたくないって、って孝善は言っているわけではない。孝善が今から三田さんに観てもらいたい、それも今から演りたいっていうなら、まともで結構な話じゃないか。スタジオの一つくらい開けてもらって、キーやドラムとホーンは無理だけど、ギターとベースでヴォーカルがあればいいだろう。西村さんどうしたかな。スタジオ借りられたかな。」
茅根も会議室のドアを開けスタジオを探しに行った西村の行方を気にしている。
「いいんでしょうか。皆さんがお疲れのところ申し訳ありません。」
川﨑は苦笑して言った。
「僕らは、この仕事をやっていて疲れたことはないよ。疲れるなんてことはないのよ。」

番組収録スタジオは大道具、照明の片付け中でとても入れそうになかった。しかし、傍のリハーサル用の小さなスタジオが空いているようだ。西村マネージャーが知り合いのアシスタントディレクターを連れてきて開錠させている。
「Myconos、今日は収録?終わったの?え、これから?」
「いやちょっと、すみません。すぐお返しします。ちょっと鍵開けてもらえたらそれでいいですから。」
若いテレビ局のディレクターは目の前にMyconosメンバーが揃っていることに驚く。
「え、何、演奏するの?Myconosがここで?今から?」
川﨑と茅根は楽器を準備している。
「三田さん、来て。ここ。」
孝善がパイプ椅子を用意した。
そこが観客席ということのようだ。照明のスイッチを探っていた西村マネージャーも慌てて自分の椅子を用意した。破れたジーンズを履いたディレクターも「じゃあ、僕もここにいようかな」と、それに釣られて椅子を出してきた。
何もないスタジオの一角だけ、高い天井からの暗い蛍光灯の照明が落ちる。茅根が持ちこんだギターアンプだけでほかの音響は無い。衣装もメイクも収録後のそのままだ。まだ輝きが消えていないMyconosの3人が並んだ。
「なんだよ、おい、この贅沢なステージは。観客はこれだけなの?」
ディレクターが西村マネージャーに聞いている。
アコースティックな弦の響きに孝善のヴォーカルが乗る。空気に強く響く。豊かな声量。クリアな言葉。それは確かに詩だった。人が詩を歌っている。今日収録されたリリースされたばかりの曲。街頭モニターで流れるCMタイアップで聞き流していたメロディー。大衆に向けられた楽曲であるのに、ただ消費されるだけの曲とは違う。深く響き、重なるハーモニー。上質な音楽を聞いた。
「三田さん、僕がこう見えても、結構幸せな仕事をしてるっていうの、分かってくれますか。」
横に座る西村マネージャーに小声でそう尋ねられ、私は黙って頷いた。
僅かに開いた入り口のドアの向こうには、漏れ聞こえるMyconosの演奏に足を止め、中を覗こうとする人が多く集まっていた。その中には同じ音楽番組の収録を終えた他のアーティストも混じっている。
「何、帰りの反省会でもしてるの?気合入ってるね。」
スタジオを後にしても、目の前でMyconosのパフォーマンスを観て、そのエネルギーに圧倒された私は口を開くことができなかった。
私を見て満足そうな西村マネージャーがアンプの片づけを手伝っている。
「じゃあ、俺たちは今日は引き上げます。お疲れ様でした。」
茅根と川﨑は自分の楽器を抱えてパーキングへと向かった。
「これで、僕らのパフォーマンスを分かってもらえたなら、嬉しい。一曲一曲が全て僕たちにとって大切なものなんだ。」
帰り際に、丘倉孝善は初めて私と目を合わせてそう言った。
「ありがとう。お疲れ様でした。本当に素敵でした。」
私の胸の中に温かい宝がひとつ、その時に生まれた。彼の後に嗅いだことのない香りが残った。複雑な香り。

スポンサーからの後援、広告、銀行との交渉、文化庁後援ファンドの申請。
スタッフを増やし、全国ツアー企画の本格稼働が始まった。Myconosは媒体出演、撮影、取材を受けながら、ツアー用の新曲の準備も始めていた。始動してしまった以上は、駆け抜けるだけだ。
会社の事務所ではオフィスの一角にMyconos専従のスタッフを集めたセクションを作った。
普段は静かでのんびりした会社だが、突然一角に選挙事務所のような慌ただしい活気に包まれていた。
ある日、事務所に緩くカールした長髪を揺らしながら丘倉孝善がTシャツとジーンズにブーツの姿で現れた。その異質な姿を認めた事務所では、人の声が電話を含めて一斉に止んだ。露骨に息を呑む社員もいた。

背が高く、線は細いが圧倒的な存在感で事務所の中を見渡している。
その状況に気がついた社長が社長室から飛び出してきたが、孝善はオフィスの奥に私を認めると、真っ直ぐ私のデスクに歩いてくる。私は立ち上がって、身構えた。彼のとてつもない存在感が大部屋の空気を変えてしまった。
「こんにちは。どうしましたか。」
「どうしましたかって、別に、どうもしていないけど。いや、聞いてほしいことがあるから来てみた。今忙しい?」
「いいえ、どういったことでしょうか。伺います。」
孝之の前に立ち、その場にいる全員の視線を集めていることもあり、かしこまった対応になる。
「何だよ、まるで強盗が入ってきたみたいな慇懃な対応じゃないか。」
「失礼しました。あ、お話しができる部屋を今、用意します。」
社長にアイコンタクトを取ると社長はすぐに応接室のドアを開けた。
事務所の中もこのまま人の動きを凍らせておくわけにもいかない。
孝善を応接室に案内し、アシスタントに飲み物を頼んだ。私は社長の同席を暗に求めたが、社長は自分は呼ばれていないから、と遠慮する。仕方なく孝善と応接室に入り、二人で向き合った。
この規模も小さな音楽企画事務所に音楽アーティストとはいえ芸能人がマネージャーも伴わずに訪ねることはまずない。あったとしても、丘倉孝善が訪ねて来るならば、この通り強盗が押し入ったかのような騒ぎだ。
「なんか、不味かったかな、急にここに来て。今忙しかった?」
「いいえ、とんでもないです。丘倉さんこそ、とてもお忙しいのにわざわざ弊社までお越し頂きどうも有難うございました。今日は、マネージャーの西村さんは。」
「いないよ。西村さんには言っていない。」
「そうですか。いや、大丈夫ですか。」
「ああ。」
「あの、何か、御用があるとか。伺います。」
「ああ、今スタジオで川﨑と曲を作っているんだけど、煮詰まった。」
「はい。」
「旅がしたい。」
「はい。あ、休暇を取られるんですね。」
「それは無理なの。」
「そうでしょうね。」
西村マネージャーの予定表にはMyconosに関して空欄の時間は確か無かった。少なくとも見開き2か月は。
「ツアーのための曲作りのために、情報収集に行きたい。」
「ああ、そういうことですか。経費で業務の一環として行きたいところがあると。どちらに?」
「そういう言い方、何だか。三田さん、そんなに事務的にならないで下さいよ。」
「すみません。でも私は事務方の人間です。」
孝善は溜息を吐いた。
「ロンドンに行きたい。」
「Myconosの3人で?」
「いや、Myconosは僕一人。あと貴方。」
「は、私ですか?もしアテンドが必要でしたら、弊社には海外コーディネートのプロが居りますのでその者を付けます。」
「違うんだ。三田さん、貴方と僕で、今すぐロンドンに行くんだ。」
「は、今すぐ?って、あの、ちょっと一度、西村さんに連絡を取らせて頂いてよろしいですか。」
携帯電話に手を伸ばそうとすると、その端末を孝善は自分の方に引き寄せ、渡さない。
「よろしくないんだよ。一泊3日だ。今からすぐに。」
「あの、ロンドンに何が、あるのでしょうか。」
「秋なんだ。」
「はあ。秋。そうですね。北半球は9月も終わりですから、秋になりますか。」
「季節が変わる、その空気を感じたい。」
「こちらから旅費は出せます。おひとりで行かれては?もし、スケジュールに空きができたのでしたらおっしゃるとおり、今すぐ行かれるのもよろしいかと。」
「あなた、プロデューサーでしょう三田さん。」
「そうです。」
底無しの財布を持ったアテンダーが必要という意味なのだろうか。一刻も早く西村マネージャーに連絡を取りたい。
「西村さんは知らないよ。川﨑も茅根も知らない。二人ともスタジオで作曲を続けている。」
「西村さんが知らないと言うのは、それは彼が非常に困るんじゃないでしょうか。」
「だから明後日には戻らなければいけない。それで今すぐ行かなかければいけない。」
「そうですか。」
早くも面倒事の到来だ。
有名アーティストだから、それとも私よりも8つも年下だから、私がその不条理な我儘を聞き入れるとでも思っているのだろうか。
「分かりました。では、航空券と宿泊の手配をします。ビジネスクラスひと席、三ツ星クラスのホテル一泊でよろしいですか。」
「ふた席だ。一緒に行くのよ、三田さん。君も。」
私は溜息を吐いた。アーティストの要求は、極力実現させなければならない。特に創作活動に関わる段階においてはそうしたい。ただ、それも程度の問題だ。
彼ひとりの海外出張を手配することなら何ら問題は無い。しかし、アイドル並みの人気のスターである丘倉孝善が私を随行させ二人きりでロンドンに飛ぶなどということは、許される事ではない。各方面、色々な点で大変なことになる。社長から断ってもらうしかない。
「ちょっと、弊社の社長と相談をさせて下さい。」
応接室に孝善を残して社長室に向かった。
「行きなさい。いいから行きなさい。こっちは何とかしておくから。ここでデスクワークを代われるスタッフはいるけど、孝善の我儘を事件にせずに収められるのはあなたしかいないじゃない。」
信じられない。お子様の我儘旅行に財布掛かり兼世話人として私に随行しろと社長は言う。
「行きなさい。早く。ちょっと、誰か。航空券とホテルの予約お願い。ロンドン往復フライトを今すぐ。」
社長は傍にいたアシスタントに渡航の手配をさせ始めた。私が孝善と今から二人ロンドンに行くと聞いてオフィス内がざわつき始めた。
「業務命令よ。」
社長の一喝でオフィスの騒ぎは収まった。急いで不在中の業務をスタッフに伝え応接室に戻る。
「社長から、随行させて頂くようにとのことでしたので、今から出発します。ただ、一つ条件があります。」
私が随行すると聞いて、孝善はあまりに無防備に顔を綻ばせた。周囲を緊張感に包むスターでいながら、単純すぎる子供のような反応に一瞬胸を刺される気がした。こちらはもう、大人としては、ほとんど破れかぶれの気分だ。
「なに?」
「西村さんと連絡を取らせてください。今ここで。」
「どうぞ。」
電話に出た西村マネージャーは言葉を失っていた。溜息だけが聞こえた。
「西村さん、あの、御社の方からは、どなたか随行される方はいらっしゃいませんか?或いは西村さんが行くと言うのはどうでしょう。」
これから今すぐ1泊3日では誰も出られないということらしい。私とて、無理は無理なのだが。
「どうか、お気をつけて。」
最後に西村マネージャーはそう言って電話を切った。放心状態の私の前で、さあ、行こうとソファーを立ち上がる孝善。
パスポートは念のため常にハンドバッグに入れてはいるが、こんな悪夢のような状況のために役に立つとは思っていなかった。非常用の宿泊道具を入れたバッグをロッカーから取り出し、全員の視線を痛いほどに受けながら、まるで絞首台に向かうような気分だ。
「行ってきます。」
「いってらっしゃい。」

「下に車を止めてある。それで行こう。」
事務所ビルの下、黄色の駐車違反タグが付いた青いロードスターが止まっている。孝善がリモート開錠した車は駐車禁止の標識の真下に止まっている。ブルーにイエローのタグとはこれ以上は無い派手なアクセサリーだ。もう、見なかった振りをするには遅い。
ああ、交通違反の罰金は経費で落とせるのだろうか。そんなことこれまで経験がない。次に会計士さんに会う時に相談しなければ。
孝善は違反タグなど全く気に留めもせず、運転席に滑り込んだ。後ろにはギターケースが乗っているが、その他の荷物らしきものはもともとスペースの無い車内に見当たらない。本当にこの若造は今から私を連れてロンドンに行くつもりなのだろうか。
成田空港まで向かう道は陽が傾き始め、車の流れにテールランプが一つ二つと点る。
一体今自分が何をしようとしているのか、分からない。
私が作曲作詞、創作活動に関わることは何もないはずだ。
運転する孝善から薫る香水の香りは私に微かな緊張感を与えていた。
スパイシーで温かい香りだけれど。
「作詞のために、ロンドンにいくということは、ロンドンの秋は何か特別にインスパイアされるものがあるんですか。」
「そんなことは、行ってみないことには分らないでしょう。行ってみて、何かにインスパイアされるかもしれないし、されないかもしれない。」
「そ、そうですね。でも、ひとりで行かれるより、Myconosメンバー全員で行かれた方がイメージの共有とかには良いのでは。」
「それぞれに役目があるのよ。それぞれ、やり方も違う。それを尊重し合えなくなったらお仕舞だ。」
航空会社の配慮で混雑した手荷物検査場を避け、職員用の検査路を通してくれた。検査と言っても孝善の荷物はギターケース一つだった。

ロンドンに向かう機内での12時間。仕事を続けている私の隣で、孝善はヘッドホンで音楽を聞きながら文庫本を開いている。私は彼の世話人。アテンダー。彼の創作のための黒子。そうでなければ親戚の叔母のようなものです。どうか私に無意識の視線を向けないでほしい、と願った。搭乗口でも機内でも、人々は目立ちすぎる有名人の彼から目を離さない。横目にしっかりと見ながら過ぎていく。
ヒースロー空港に着き、彼の横ではなくできるだけ真後ろについて歩いた。ここならば日本人でなければ彼がスターであることを誰も知りはしない。しかし、外国人に紛れていても彼の周りの空気は特殊だ。人間の雰囲気というのは饒舌にその人間の自信や意欲を表すものだ。
「あれ、ああ、何処にいるのかと思ったよ。紗綾さんは小さいんだからこんなところで迷子みたいにならないでよ。」
身長が188センチ孝善は後ろにいる私の背中に手を回し引き寄せた。
「あの、ちょっと、気を付けて下さい。全然そんなつもりでなくても、誰が見ているか。」
狼狽する私を見て孝善はおかしそうに笑っている。こちらはなんだか頭痛がしてきた。胃も痛くなりそうだ。
「レンタカーを借りてくる。」
荷物は彼のギターケースひとつと、私のバッグ一つ、と極端に少ないが、公共交通機関の乗り方は日本でも知らない彼とは、不慣れな外国の鉄道システムを使う気にはならなかった。
レンタカーの書類へのサインが終わり、支払いのために法人クレジットカードを渡そうとすると、彼は既に自分のカードを使って決済を済ませていた。
レンタカーには慣れているのかすぐに乗り込む。
「忘れないうちに私に領収書を下さい。」
「ない。」
「ない?」
「ないよ。貰わなかった。」
冗談でしょう。渡されたはず。
「困ります。領収書がないと清算できなくなる。」
「いいよ。」
よくない。レンタカー代など彼にはどうでもいい程度の微細な支出なのかもしれないが、予算責任者の私が付いていながら領収書も回収できないなんて。
エンジン音も高く車はハイウェイを走り出した。
「ホテルへの道は分かりますか。」
「知っている。ロンドンには昔住んでいたんだ。」
「そうなの。」
「中学の時。日本の学校に行けなくなった時。こっちに住んでいた。」
「そう。」
「横浜の学校で、茅根と川﨑に会わなければ日本に戻って暮らすことにはならなかった。」
「高校でしたっけ。」
「そう。横浜のインターナショナルスクールで同じクラスだった。あの頃は二人がいる場所が僕の居場所だった。」
そういえば、孝善には実家とか、家庭の背景が見えない。

その日、ロンドンのホテルでは泥のように眠った。目が覚めると輝く様な晴天の朝だった。レセプションでも、ホテルスタッフからこれほど天気の良い気持ちのいい日は年に何日もない、幸運ですよ、と言われた。西村マネージャーは時差のせいで寝ぼけたまま私からの無事到着の連絡を聞いてくれた。

ハイドパークの芝生の上では、まばらに人がくつろいでいる。
その中で孝善は、鳥の鳴き声にまるで合わせるかのように、唄を紡いでいる。
ギターを奏でながらハミングしている孝善から離れ、木立の陰に入ると数匹のリスが駆けていった。東京とは全く違う秋の空気。
甘い匂いを感じ上を見上げるとメイプルの葉が黄色く色付き、一枚、また一枚と風に舞う。秋。
青すぎる程青い空。
この空に夜が舞い降りて、その夜が明けてしまえば、次に私が仰ぐ空はもう東京の空に戻る。
孝善が今、無理にでもここまで来た理由が、少し私にもわかりそうな気がしていた。

「Do you have a notebook?」
芝生に座っている孝善が私に向かって手を伸ばす。
「え、書くもの?」
私はハンドバッグからメモブックを取り出しペンと一緒に孝善に渡した。そして孝善はそれに一心不乱に何かを書きとめていた。
涼しい風が腕を撫でる。着の身着のままで来てしまった私には上着がなかった。
ロッカーに非常宿泊用に常備していたバッグの中を探ると、ブランケット代わりになる厚手のストールが入っていたのでそれを取り出し首に巻き付ける。その柔らかな肌触りに思わず目をつむる。
一方、孝善はスキニーなTシャツとGパンだ。東京では彼の存在があれ程までに浮いて見えたのに、この街には彼はとても馴染んでいる。半日近く、孝善の創る歌とギターがコードを追う断片を聞きながら過ごした。弾丸旅行となった海外出張ではあるが、とても贅沢な時間を過ごしている気がする。
近くのベーカリーでサンドイッチとコーヒーをテイクアウトし、孝善の下に運んだ。彼はサンドイッチを頬張りながらメモ帳の端にU.P.MapleStudioと電話番号を書いて破りとり、私に渡した。

「紗綾さん、明日ここを使いたいんだけれど、予約してみてくれないかな。」
「わかりました。電話して聞いてみます。音楽スタジオですか。」
「いいエンジニアがいるんだ。機材も最高だし。」
録音専門のスタジオのようだ。丘倉孝善、日本のMyconosという名前を出すと担当者は電話口で喜んでいた。明日は午前中、3時間までならスタジオを使えると言うことだった。日本を発つ前のギリギリの時間だ。担当者との電話を替わろうか、と孝善に目で言ったが、彼はギターを抱えたまま首を振った。作曲に集中したいらしい。
「よかった。明日は録音してから帰ろう。」
レンガ塀の蔦が部分的に赤く色付き始めている。グリーンとのコントラストが美しい。ギターケースを抱えた孝善。文句なく、絵になる。
彼を、または彼らMyconosを商材として最大の興行利益を得るのがプロデューサーの仕事の目的だ。けれども、利益在りきになった時に、見失うものはあまりにも多い。Myconosにある個々の稀有な才能、抱いている夢、無二の表現、音楽のもつ力へのリスペクト。そして彼らの間の誰も立ち入れない繊細な友情を疎かにできない。彼等の想いを叶えられる全国ツアーであってほしい。それはファンのニーズとも矛盾しないはずだ。

3階建てのレンガの外壁の建物は美しい庭木のある敷地に建てられていた。録音スタジオが入る建物だ。
孝善はスタジオに入ると仮歌を4曲分入れ、そのギター伴奏も一気に録音した。帰国便までの出発時間ぎりぎりまで大柄で毛深い熊のようなエンジニアとスタジオで作業をしていた。時間内に終える気もなさそうな彼らの焦りの無さは、私をやきもきさせたが、ぎりぎり時間内で出来上がったデータを川﨑亨宛てにその場のコンピュータから送信して作業を終えた。
東京で煮詰まったと言っていた楽曲の制作。
こちらでは40時間ほどの滞在の間に、驚異的なアクティビティで4曲の創作に臨んだことになる。
人気にスポイルされた我儘な小僧の思いつき旅行、などと思っていた自分を深く恥じた。

弾丸の渡欧はまるで夢だったかのように束の間で、普段の東京の生活に戻った。
録音した楽曲データをロンドンから瞬時に東京に送ることができたのと同じ原理で、私と孝善が二人でロンドンの三ツ星ホテルから一緒にドイツ車に乗り込む際の画像が週刊誌に届いていた。
「社会的には大したニュースではないですね。来週は統一選挙だし、放っておけば大した騒ぎにもならないでしょう。」
西村マネージャーは、孝善が恋人と極秘旅行、という週刊誌のモノクロページのキャプションを一笑に付した。
「申し訳ありません。気を付けていたつもりですが私が甘かったです。」
「紗綾さんが謝ることは無いのよ。二人で車に乗らないなら、どうするんだよ。イギリス行って、わざわざ一人ずつ車借りるのかよ。こんなもの見る方の捉え方次第でどうにでも見えるのさ。どうしようもないんだよ。」
茅根も川﨑も西村マネージャーも私と孝善を責めはしなかった。
「孝善の方は騒がれてなんぼの立場だけれど、紗綾さんにはとんだ迷惑でしたね。大丈夫?」
川﨑が言った。
「そうですよ。今回は孝善の我儘で三田さんには大変な迷惑をかけしてしまいました。」
「いいえ、私のことなどはどうでもいいのです。この写真では人物特定されそうにもないし。楽曲も丘倉さんはあちらに行ったことで効率的に作業できたようで何よりです。ただ、これからはアーティストサイドのアテンドは専門家に任せて私は裏方に徹しようと思います。」

しかし、そんな宣言には構わず、孝善や他のメンバーからの電話がない日は無かった。西村マネージャーに話を通さない相談。一旦は確定していたツアーサポートメンバーの変更や、予定されていた取材者の変更といったことだ。メンバー間で取り上げない問題の幾つかは個人的に私に調整が依頼された。
私が参画してから2か月が経過していた。今ではMyconosの名前が出る媒体全てに目を通している。ネット上の評判も逐一拾って報告するようアシスタントスタッフにも指示を出した。毎日がMyconos漬けだ。彼等の日々の一挙手一投足がツアーのインパクトを左右する。作品の歌詞を全て覚える程聞き込んだほか、時間のある限り、本人たちと直接会って、意見交換をしていた。資金調達やスポンサーの確保に目途が立つと、出納は信頼できるうちの会社のスタッフに任せられる。そうなると、そこからは私は演出や舞台監督とアーティストを繋ぐコミュニケーター、つまり御用聞きの何でも屋と化す。
担当者のない、行き場のない仕事はどこからでも幾らでも湧き出てくる。そして、予期せぬトラブル。それらを全てシュートするのが私の役目だ。つまり、誰もやったことがない、誰の経験も役に立たない仕事。これこそがまさに私にとってのクリエーションなのだろう。この緊張感は嫌いではなかった。
予算規模はもとより、関わる人間の数は私がこれまでプロデュースしてきたクラシックコンサートの比では無い。常に誰かが私を探している、私を呼び、私からの連絡を待つ状況が始まった。皆が私に判断を求める。
そして、私の判断はMyconosの意向を汲む。優先させるべきは何なのか。競合背反する複数の流れを調整し、整理していく。全国ツアーの各会場ごとに異なる整理が求められた。

移動中の車で孝善からの電話を受ける。
「今夜、食事しようよ。」
「中目黒のガストでいい?」
「なんだよ、それ。別にいいけど、どこでも。」
不満そうな返事が返ってきた。
「じゃあ、10時に。」
「遅いなあ。」
「打ち合わせの食事会があるの。その後で行くわ。」
「なんだ、今日の夜はもう予定が入っているのか。」
「いいから気にしないで。10時ね。」

その夜、少しアルコールが入った顔で彼に会った。
「食事の後にまた付き合わせて、悪い。」
「気にしないで。」
孝善はその日のワイドショーのエンタメコーナーの取材が如何に退屈だったかを話した。私はそれに相槌を打つ。
「今日思いついたことがあるんだ。アリーナでのプロジェクションマッピングを使った演出。」
「うん、聞かせて。」
「ドラゴンを、可視化したい。」
「ドラゴン、龍?」
「もちろん、仮想の生き物だ。人によって違うイメージアがある。僕の中には確固とした形があって、それを想像しながら書いた曲が2曲ある。自分のイメージを可視化するとしたらどうやって可視化できるかずっと考えていた。」
孝善は一生懸命自分のイメージを私に語る。
一通りを聞き終わり、濃すぎる紅茶なのか薄すぎるコーヒーなのか分からないカップに口を付ける。
「アニメーターの人と話してみる?」
「できる?」
「実現できるかどうか、まだ答えられないけれど。検討はしてみたい。テクニシャンとアニメーターを呼んで打ち合わせをアレンジしてみるから西村さんにスケジュール調整をお願いしていいかしら。」
「うれしいよ。駄目と言われるかと思った。」
「もちろん、簡単な事ではないのよ。費用も全く見当がつかないし、物理的な制約もあると思うの。」
「だよな。」
「でも、私が見てみたいのよ。その、貴方がイメージした生き物を。曲とともに動くそれを見たいの。」
「ありがとう。」
店を出てタクシーを止めようとすると、孝善が自分の車で送ると言う。
「車を掴まえるわ。そして、ねえ、あまり私の近くに立ってない方がいいわ。」
街を歩く人は、皆、携帯端末を手にしている。私たちはゴシップの種を虎視眈々と狙う多くの視線の中に無防備に立っているのだ。
「知ったことかよ。」
孝善は私の腕を掴み、路上に止めてあった車に向かって歩き出す。
仕方なく、素早く乗り込む。
不安。それに何に対するものなのか分からないけれど、路上に居る私たちから不躾な視線を反らさない見知らぬ人に対してか、勝手な孝善に対してなのか、或いは自分に対する、怒り。そして、悲しみ。歓び。全てが滅茶苦茶になって私の中で暴れていた。

ツアーに関わる事務所スタッフの数も増えてきた。舞台監督の決定、サポートアーティストとの契約やスケジューリングも大詰めになった。
話し終わり電話を切ると、30秒後には次の着信が入る。もう端末のバッテリーが持たない。
再び震える端末のディスプレイに、孝善の名前が表示された。
ツアー先のコンベンションと打ち合わせ中のオフィスを出て廊下に出て通話ボタンを押す。
「紗綾、今、忙しいか?」
「うん、忙しい。」
いつの間にか孝善にそう呼び捨てにされていた。
「亨の曲のアレンジが出来上がったんだ。一度曲を聞いてくれないかな。紗綾のコメントが欲しい。エンジニアの本田先生のアレンジはそれまで待ってもらう。」
「今日だと、夜になってもいいかしら。」
「ああ、こっちも7時まで取材があるからその後で。」
「ねえ、その時に衣装のラフイメージができているのをチェックしてもらえないかしら。」
「ああ。いいよ。」

渋谷の閑静な住宅街の入り口。このマンションの地下に新しくプライベートスタジオができた。Myconosはよくこのスタジオを使っている。エントランスでスタジオを呼び出すと孝善が出た。
他のメンバーもいると思っていた私は孝善しかいないことに戸惑う。
「あれ、皆は?西村さんは来ないの?」
「僕だけだよ。」
「ああ、そうなの。じゃあ、さっそく聞かせて。」
孝善はプレーヤーで録音曲を再生しつつ、私の横でヴォーカルとギターを聞かせてくれた。外界とは隔離された音響室で、まるで風が吹く様な、秋の空の青を思わせるメロディーに深く切ない歌声。この数か月、歌詞も曲も覚えてしまう程聞いてきたこれまでのMyconosの楽曲とはなんだか少し音色が違う。
少年の抱く熱のある夢から、子供には立ち入る余地のない孤独な大人の世界、そのどちらともつかない、何かの途中にいるような危うさ。3人のハーモニーになった時の音の厚みが楽しみだ。
「なんだか。不安にさせる曲ね。」
「駄目なのか。嫌い?」
「そうじゃないの。曲の印象よ。何というか、胸騒ぎがするような危うさがある。これまでの真っ直ぐ突き抜けるような若さとは違う。歌詞も、そうね。」
「そうか。」
それを聞いて、満足そうに孝善はもう一度再生させてから、ゆっくりイコライザーを落としていく。
「ああ、ようやくここまでたどり着いた。本当に長かった、この曲は。これでいい。本田先生にアレンジを依頼しよう。」
「ちょっと待って。今の私の意見なんかでもう決めてしまうの?」
「そうだよ。」
「そうなの?」
「そう。」
孝善は目を合わさずに笑う。
「じゃあ、今度はそっちの仕事を片付けよう。衣装のデザインを見せてよ。」
「ここより、もっと明るいところで見た方がいいと思う。色が問題なの。」
録音スタジオはイコライザーのランプがよく見える様、白色照明を落としている。
「うちに来るか?ここからすぐだよ。近いよ。」
「それは知っているけれど。あとの2人と西村さんも集まるのなら自宅に伺いますけれど。」
純粋すぎる若さを、外界からの攻撃から守り抜くことが私の役目だ。
あらぬ疑いを持たれるような軽率な行動は厳禁だ。孝善にも思うようにならないことがあることを示さなければならない。
孝善はテーブルに音を立てて手を着いた。
「分かったよ。じゃあ会社に行こう。」
「今日はもう遅いから、メンバー全員が集まれなかったら明日以降でもいいですよ。」
「会社で、僕が今日見る。」
確かに、孝善からだけでもメンバーのコメントは早めにもらっておいた方がいい。明日以降がいつになるのか読めない。
「わかった。会社に行きましょう。こんな時間まで付き合わせてごめんなさい。」
「遅くまで付き合わせているのは僕の方だ。」
私の車で会社に行くことにした。開け放った窓からの夜風の匂いを味わいながら走る。
「どんなふうに時間を作ってきたの?今日の予定は?」
「僕は何時でもしたいようにするさ。」
「そうね。」
夜の都内を走る。助手席に座っている孝善の横顔はまるで古いギリシャの彫刻のように思えた。
何で、私の横にいるの。ここはあなたの場所ではないよ。夜の街の灯りを映すその瞳を見て、
小さな苦い溜息が出た。
既に明かりの消えていたオフィスの鍵を開け、照明を点け、半ば癖でコーヒーメーカーのスイッチを入れる。
横にあるシルバーの冷蔵庫のボディに一瞬だけ映った自分の顔。
透けるような陶器のような孝善の肌に比べ、白色蛍光灯の下では私の顔は肌のくすみを隠せずボロボロだ。目の下には隈もある。
彼のヘーゼルナッツ色の濁りの無い瞳が向けられ、その視線が容赦なく私を射る。緩いカールの髪を後ろに束ねた孝善は私が手渡したクリアファイルの束を取り出して、テーブルに広げる。
「これが第一弾の案ね。でも、たたき台になるかしら。」
「なんだ、これは。」
ファイルの上の衣装スケッチを見て唖然とする孝善の顔を見て、私は笑いを嚙み殺していた。
「クリスマス前に札幌からツアーに入るでしょう。それで。」
「僕らは音楽を売っているんだよ。鶏のから揚げじゃないだろう。なんでこんなクリスマスのカーネルサンダースみたいな恰好になるんだよ。こんなのならもう私服にしようよ。」
「私服はアンコールでね。じゃあ、鶏のから揚げでないのは、ほらこっち。」
「あはははは。なんだよこれ。本気?」
孝善は衣装デザインを見て笑い転げている。
「ねえ、やっぱり、デザイナー変えようか。私も正直これはどうかとは思うの。これ着る?」
「着たい?」
二人でデザインにケチをつけては、結局散々笑い合った。温かいコーヒーが喉に滲みる。
「紗綾の思う大人の男の恰好ってどんな姿?」
「大人?うーん、ショーンコネリーみたいな。007のね。」
スキニーなビジュアルの印象が強いミコノスが良くも悪くも持っていないのは、おそらく、貫禄だろう。
高い技術とセンスに対し、アイドル的な人気が先行する理由を、私は分かっている。きっと本人たちも分かっている。そしてそれを利用もしている。
Myconosには若さゆえの危うさが武器として使える。今はまだ。
「ショーンコネリーか。」
「まあ30年後にね。」
衣装資料のチェックを終えた頃には、日付が変わっていた。
孝善をマンションの前に送り届けてから、家へ向けて車を走らせた。なんだろう。なぜ、こんなに私は高揚しているのだろうか。孝善の無邪気な笑い声が耳から離れない。


それからも、孝善は毎日のように電話をかけてきた。
「今どこ。」
端末からの音声の質は悪い。私は会場の確認とコンベンションや警備関係の交渉のために地方を回っていた。
「岡山。」
「いつ東京に戻る?」
「金曜日、明後日ね。」
「新曲が9分間を越えるんだが、7分以内にしろと言われている。ハープのソロの間奏が長すぎると言われたんだ。聞いてほしい。」
帰京したら聞く、と答えるより早く聞こえてくる演奏と生声。移動中の車の中で、スピーカーから流れる音質ではあまりよく聞こえない。無理よ。電話でなんて。きちんと聞くことができない。
「間奏の流れを切りたくないんだ。ハープが唄っている部分の気持ちを1小節も省くことはできないよ。」

東京駅で新幹線を降りるとそのまま山手線で恵比寿に行き、スタジオに向かった。そこでラジオ収録を終えたMyconosと落ち合う。
「お疲れ様です。」
挨拶もそこそこにスタジオのマスタリングルームに入る。
「聞かせてもらえますか。」
4人も入れば狭く感じるスペース。メンバーの熱量を感じる。
「すみません。紗綾さんの意見を聞きたいって孝善が無理を言っていて。お疲れのところ申し訳ないけど、ツアーで披露するコンセプト曲なのでコメントいただけないですか。」
孝善は録音とギターに合わせて歌いだす。
孝善の声は人の心を動かす力が強い。無防備に聞いていると意識を持っていかれそうになる。
「ハープ、確かにこの曲にはコアの部分だと思いますけれど、時間が延びる程に単調に感じるのは否めないかも。この部分後半だけでも何かアレンジを加えられないかしら。」
「そうか。」
「孝善が言おうとしていることは分かる。この尺になるのも必然だと思う。ライブパフォーマンスでは見せ場になるのだけれど、CDや配信で聞くことを想定したアレンジもあってもいいかもね。」
茅根がそう言ってベースを試しに入れてみる。
「本田先生にもう一度アレンジの時間作ってもらえないかな。今からじゃ無理かな。」
「分かった。頼んでみる。」
「すみません。」
「紗綾。ありがとう。」
孝善が言った。
「真剣に向き合ってくれて、よかった。」
「当たり前よ。私だけではないわ。川﨑さんも茅根さんも、真剣にあなたの言葉や言いたいことを汲みたいと思っている。」
「紗綾と話していると、なんだか濁りが浄化される気がする。」
「濁り?」
「楽曲は、商品ではなく、自分たちの作品として世に送り出したいんだ。」
「世の中も、それを求めていると思うわ。孝善の感じる世界をそのままを届けてほしい。」
「Myconosはもっと早く紗綾に会っていれば、よかった。」
胸が一杯になる。慌てて手帳をバッグにしまい、上着を着て立ち上がる。
「ねえ、紗綾さん。できれば、これからも創作の傍にいてほしいよ。」
私は振り返り、曖昧な視線でお疲れさまと言い残しドアを出た。

孝善の淡い瞳の中には純粋さと、それゆえの脆さが満ちている。私は、彼よりも長く生きてきてきたから、それがいつか必ず壊れてしまうことを知っている。そして、Myconosにその時が訪れるのを恐れている。いつか、若い彼らにも知る時が来る。強くあるために、守りたいものを守り抜くために、何が必要なのか。その力は、彼らの音楽が持っている魔法と引き換えに得られることだろう。
彼らの純粋な祈りにも似た美意識だけが叶えられる魔法が、これからも解けずに在ることを、空しくも願っていた。彼らは今、真に輝いているスターだった。

だから現実と戦うのは私だけでいい。

都内の大型リハーサル用スタジオを3週間確保し、演出監督との打ち合わせが始まった。ツアーまでの日が近づくにつれて些細なことでも平常心を崩しがちになった孝善と、周りとの衝突があれば、私はいつも孝善の側に立った。孝善の幼さ、天才だけに許される理に叶わない我儘を、プロデューサーとして理を立てて通していく。孝善の理不尽に対する周囲からの攻めは私が全て一人で受け止める。険悪な空気の矛先が孝善にではなく自分に向けられるようにする。
「紗綾さん、孝善の肩を持つのもほどほどに。」
帰り際に川﨑に苦言を吐かれる。
理に叶う、誰もが納得するからという理由で孝善が受け入れられない演出を彼に押し付ければ、彼の表現を護ることができない。彼の歌のパワーあっての舞台だ。
「三田さん、孝善さんのガラスを使うプロジェクションマッピングの案は確かに成功すれば面白いけれど、アリーナ公演では雨が降ると駄目っていうのは、天候次第っていうのはさ、予算の規模からいってもリスクが大きすぎるよ。」
「誰も見たこと無いものを、演りたいんです。当日実行できなかった場合の責任は負えますが、この案を捨てることで損失する芸術性の責任は大きすぎて私には負えません。」
誰かのために傷ついていくことには、不思議と痛みを感じない。傷はただ深く私の奥へと沈んでいく。
「プロデューサーの判断です。他のどなたの懸念も要りません。」
会議後、茅根が私の前に立った。
「なんだか、紗綾さん、このところ聞き分けの無い誰かさんに似てきたよ。会議で冷静さを失くすような貴方じゃなかったはずだよ。」
それは味方であると思っていた人間からの忠告であり非難でもあった。

ツアーの皮切りとなる札幌のスタジアムは、コンサート2日前から押えて大型プロジェクションマッピングのリハーサルを兼ねた準備に入った。4トントラック12台分の機材の搬入。幸い天候に恵まれていたが冬の札幌はそれなりの寒さだ。舞台監督とステージの設営に入る。サポートミュージシャンもMyconosとは気心がの知れたいつものメンバーが揃った。キーボードのRin、ドラムの浩紀は音合わせもそこそこにすぐに楽曲の演奏に入れる。浩紀はMyconosよりも一回り年上のベテランでサックスも吹ける。陽気なムードメーカーとしてバンドの中で頼りになる。リハーサルの間、細かいことで少し頼ってしまったのを機に、話をするようになった。
夜、Myconosと他のスタッフは既にグループで食事に向かったようだ。音響業社とのリハーサルプログラム確認を終えるのに時間がかかった私は遅くなり、ひとり着替えてホテルのロビーに降りた。そこで浩紀とすれ違う。
「浩紀さん、食事は皆と一緒に行かなかったんですか。」
「お疲れ様。紗綾さん、ご飯まだなの?ねえ、これから一緒に呑みにいかない。昨日雰囲気のいいバーを見つけたんだよ。」
「そうですね。今日は眠る前に少し飲みたい。」
普段は断るツアークルーからの個人的な誘いを、その時は素直に受けた。
「明日の準備は順調なんでしょう。」
「今のところは。」
もう細かいトラブルはトラブルのうちにも入らない。どうにかなるものだ。どうにかするしかない。
背が高い浩紀。ドラマーらしく胸板が厚く腕が太い。遠くの冬の街を歩くのに、横に一緒にいると安心感がある。古いビルの階段を降りた地下にあるバーは確かにとても落ち着いた雰囲気で私も気に入った。ウィスキーのロックが程よくまわっていた。抑制の効いたジャズピアノ。
「紗綾さんはさ、何で独身なの。」
「なんで、って。じゃあ浩紀さんはなんで2度も結婚して2度も離婚したの?」
「もう知られていたのか。誰から聞いた。」
「みんな知っている事だから、いいじゃない。」
彼は数か月前に2度目の離婚をしたばかりだ。その相手は誰もが知っている人気ファッションモデルだ。
「いい女がこんなタフな仕事ばかりしていると、恋人がいたってデートする暇もないんじゃないの。」
「別に、普段は余裕がないっていうわけでもないのよ。」
「そうなの、じゃあ東京で紗綾さんを誘っていいの。」
次第に浩紀の話す声が遠くに聞こえてきた。自分が何をしゃべっているのか頭が追えていない。随分早く酔いが回ってしまった。

浩紀の大人の落ち着きや、相手を心地よくさせる会話の術に、滑り落ちるように嵌っていた。バーを出ると息も凍りそうな寒さに思わず浩紀の身体に身を寄せてしまう。その肩が彼のコートで覆われた。浩紀がタクシーを拾い、私を抱えるように乗り込む。道の向こう側にMyconosのメンバーや他のスタッフの集団を見た気がしたが、私はそれを確かめることもせず、もう目を開けていられなかった。
彼の少し後ろを歩き、エレベーターに乗り込みそれぞれの部屋の階のボタンを押す。ドアが閉まると同時に浩紀は私を引き寄せ唇を重ねた。
浩紀は自分の部屋の階で私を一緒に下ろし部屋に招き入れ、自分はベッドの淵に腰を掛けた。
「おいで。我儘でも愚痴でも、何でも聞いてあげるよ。何でも、叶えてあげるから。」
浩紀は女に甘い夢を見せる天才だ。本人もその才能を認識し、力は遺憾なく発揮されている。
私に向かって伸ばされた浩紀の両腕の中に吸い込まれるように倒れ込んだ。
美しく、あまり脆く、細心の注意を払って取り扱わなければならない孝善のそしてMyconosの才能を護ることに、事実私は疲れきっていた。予期せぬ周囲からの反感。
その苦痛にフォーカスすれば自分自身が崩れてしまう。しかし、警戒や緊張の糸は限界までに張りつめていていた。
たとえ束の間でも、それらをすべて忘れ、この甘さに酔っていたかった。
「僕は女の人が、求めていることが分かっちゃうんだよ。なぜだかね。」
「素敵な超能力ね。」
「女の人を喜ばせることは、僕の生きがいなのかもしれない。」
後先の虚しさなどどうでもよかった。幻と分かっていても浩紀の体温の中で眠りたかった。
「奪いたいよ。」
え、なに?
「好きな人がいるね、ここに。」
浩紀は私の胸に手のひらを当てる。
「なぜ、そう思うの。」
「悔しいけど、分かるのよ。」
この夜だけは二人で夢を見ていようよ。

オペレーションブースでエンジニアとともに音響を確認する。本番3時間前。会場前だが周辺には既に客が集まっている。警備から開場時間の15分前倒しの打診が入る。
ステージ上の設営作業の残りをスタッフに任せ、舞台監督とタイムキープの最終打ち合わせに入る。
「天気は味方してくれたね。僕らは運がいい。」
コーヒーを飲みながら近づいてきたのは浩紀だ。親しげに私の椅子に手を置く。
「今日からのステージ、一月半の長丁場ですがよろしくお願いします。」
マイクテスト中のステージの上から孝善の視線を感じた。が、すぐにインカムから私を呼び出す照明スタッフの声が聞こえ、立ち上がってブースを出る。孝善と目を向けることができない。

初めてのツアー本番がついに始まった。ステージ上での彼らのパフォーマンスには鳥肌が立つ。切なさを歌い上げ、人の心に同調させられる力を持った男性ボーカリストはそうそういない。孝善は間違いなくそれができる数少ない歌手だ。会場が息を呑んで曲に聞き入る空気がコントロールブースにも伝わってくる。曲に乗った消えゆく恋の詩に、聞いているこちらの胸も痛む。川﨑や茅根の演奏との息も完璧だ。誰にも真似のできない世界が出来上がる。
照明の小さなミスなど忘れさせるほどに天に向かう龍が舞うプロジェクションマッピングとの共演は上出来だった。
ツアーの初日は、運にも味方され成功裏に終えた。ともかくも時計は止まることなく進み続けている。一大興行は始まってしまった。
「初日おめでとうございます。カンパーイ」
「明日もあるんだから、今日はほどほどにしておいて下さいね。」
スポンサーも招かれた食事会が開かれた。TV取材チームも来ている。
「紗綾、お疲れ様。初日おめでとう。」
人だかりの中をすり抜けワイングラスを合わせに来たのは孝善だった。
「初日、出演お疲れ様でした。」
「寝てないの?」
孝善が顔を私の顔を覗き込むので、顔を背けた。
「そう見える?」
「見えるよ。どうして、僕の目を見ない。」
「え?」
「あの曲、明日、貴方のためにだけに歌うよ。だからもう目を反らさないで。」
そう言うと孝善はそのまま離れて別の芸術スタッフと話を始めた。
何を言っているの?もう酔っているの?
孝善、貴方はこの国の民衆の心を動かす力を持っている。お願い。真っ直ぐに羽ばたいていて高みにある星を目指して。貴方の目は、私に向いていてはいけないのよ。そう彼の後ろ姿に叫びたかった。
札幌、仙台、書き切れないほどのスケジュールが詰まったスケジュール帳に斜線が引かれ続ける。何が起きようともこの流れは止まらない。ツアーは後半戦を迎えた。スタッフとキャスト全体にも一体感が生まれつつある。私は自分の役目が終わろうとしていることを知った。私が手を放しても、自立した生命体としてツアーキャラバンは人々の心を動かし満たしながら前へと進み続けるだろう。
ツアー後には、ライブで披露した新曲を含むアルバム作成とライブDVD編集が彼らには待っており西村マネージャーやレコード会社は既にそちらに向けて動いていた。

その頃、ツアーを共催する企画会社からうちの会社に対し、私をMyconos専属のディレクターに採用したいという打診があった。
「悪い話ではないよね。」
社長が言った。
「すみません、社長。そのお話は、申し訳ありませんが辞退させてください。」
「うーん。そうか。」

しばらくの沈黙の後、社長は言った。

「そうよね、今回よくやってくれたわよ。もう次はナシ、と言う事ならそれでいいわ。この話は私から断っておくから気にしないで、最後までツアーを成功させて。それからまた次のことを考えましょう。」
「すみません。有難うございます。」
今なら、まだ戻れる。彼等に会う前の自分に。このツアーが彼らを最高に輝かせることができれば、それでいい。

ツアーと言う名の祭りはクライマックスへと向かっていた。羽田空港から最後の公演の地、福岡へ発つ前の夜。テレビ出演を終えたMyconosを羽田空港へと送るためにバンで迎えに来た。
「向こうの空港でも迎えの車が来ているはずなのでそれに乗って下さい。」
これからチェックインと言うところで孝善が突然、自分だけ翌朝に東京を発ちたいと言い出した。
「なんだよ急に、どうしたんだ。何?」
「福岡のリハーサルが10時からだから、朝に発ったら間に合わないだろう。」
茅根が孝善をたしなめる。
「始発に乗れば着くだろう。」
「遅延がないとも限らないし。明日の移動はリスクが大きい。始発って、孝善そんな朝早く起きられるのかよ。」
「今日は寝ないよ。」
「何言ってるの、今日は福岡に行って、ホテルでしっかり寝て。」
「頼むよ、紗綾さん。僕は明日朝の出発にして。」
私は頭を抱えたくなった。
「まあ、紗綾さんも、明日福岡入りなんだろう?そうしたら朝一で一緒に孝善を連れてきてくれる?」
川﨑が提案した。
「そうか、紗綾さんが孝善も連れてくるなら安心だ。」
「僕らはもう行かないと、出発時間だ。じゃあそういうことで。」
 西村マネージャーは腕時計に手をやり、足だけは早くもセキュリティに向かって進んでいる。西村さんと茅根、川﨑の二人を見送り、孝善と私だけが空港に残された。本来、責任もって送り出さねばならならなかったはずのアーティストが、今、搭乗口に向かわず私の横に立っている。呆然としている場合ではない。急ぎ、その足で航空会社のカウンターに向かう。
「明日の始発便予約を一名分お願いします。」
当日の仕事を終えるところの航空会社のカウンター職員の視線が私のすぐ後ろに立つ丘倉孝善に集まる。人の視線を集めるこの緊張感に私は永遠に慣れることはないだろう。孝善と違い、そんなものを跳ね返すエネルギーは私にはない。

「それで、これからお宅に向かいますか?何か忘れものでもしたの?」
空港の駐車場を孝善と並んで歩く。
「誕生日だろ、今日。」
「え?何?」
「誕生日、え。」
確かに、そういえば今日は私の誕生日だ。全く気にも留めていなかった。
「どこでそんな個人情報を聞き出したのよ。」
「その分じゃ、今夜誰かとの先約はなさそうだね。」
孝善は笑って言う。
「もう、私の年齢にもなると、誕生日なんてどうでもよくなるのよ。」
「どうでもよくはないさ。横浜に行こう。」
孝善は自分が運転すると言って聞かなかったが、万が一のことが起きてはならない、と固辞し私がハンドルを握った。こんな時間から横浜に向かって、一体何をどうしたいというのか。もう半分どうにでもなれという気分だった。明日福岡の会場に引きずってでも彼を連れて行けば、とりあえず他のことはもうどうでもいい。
彼の言うがままに首都高を抜け、関内の近くに来た。洋館が立ち並ぶ丘の上の住宅街の中にある学校の前に停車した。
「どうするの?こんな夜に。」
閉まった門の前に車を止めると、孝善は車を降りて守衛所へと走った。
守衛所で守衛と何かを話している。すると、守衛の警備員は門を開け私たちの車を敷地内へと通した。
駐車場に車を停め、車を降り天を見上げると、凍える空に無数の星が瞬く。夜の学校は、日中とは全く違う秘密めいた空気に満ちている。
砂利を踏みしめ敷地の中を進むと、小さな礼拝堂の建物に着いた。
階段を上がり、木でできたドアを押すと、鍵は掛かっておらず中に入れる。
孝善は慣れた足取りで照明もつけずに真っ暗な礼拝堂の中を進み、祭壇に並ぶキャンドルにライターで火を灯している。
「ねえ、ここ勝手に入っていいの?」
「いいのよ。」
キャンドルが二人の影を壁に大きく揺らす。
「素敵なところだけど、こんな時間にも入れるの?」
「僕が建てた。」
「建てた?」
孝善は笑っている。
「寄贈したんだよ。」
「あなたが?この礼拝堂を?」
「4年前に火事で焼け落ちた。再建費用を僕が出した。その代わりに、家出をした子供が夜に逃げ込めるように、夜間施錠をしないことを約束させた。おかしいだろう。日中は施錠されていて礼拝行事でもなければ入れない。けれど、夕方から早朝まではこうして開けているんだ。」
「そうなの。」
「僕が昔、ここでそうしていたんだ。今はたまにしか来ないけど。秘密の作曲場所。」
息が白い。
孝善は自分の着ていたブルゾンを脱いで、私の肩に掛けた。
ブルゾンに残った彼の体温が私の冷えた身体を温める。その時胸いっぱいに吸い込んだいつもの彼の香りを、一生忘れはしないだろう。
ギターケースからギターを取り出しチューニングを終えると、彼は静かに唄いだした。
初めて聞く、歌だ。アンプを通さない弦の響き。

叶うことのない願いが
育ち続け、怪物が生まれた
ある夜、この身体を破り捨て、暴れだす
星を見上げ、その細やかな光を浴びて
どうかこの願いが届くようにと
祈る
天に上る龍がこの魂をそこへと運ぶだろう
二度とこの地には戻らぬように
決して思い返すことがないように
そして星とともに輝き続けるように

「どうしても、今日はこれを紗綾に聞かせたかったんだ。紗綾にだけ。」
孝善はそう言うと立ち上がり、ギターを仕舞い始めた。
全てがあまりに一瞬のことだった。
歌声に胸を突かれたまま私は言葉を失い、ただ彼を見つめていた。
「よし、もう行こう。ここは冷えるだろう。」
孝善はキャンドルを吹き消した。
明かりを失った礼拝堂は夜の街明かりを透かしたステンドグラスだけが淡く輝く。
私は暗くなった礼拝堂の中から、孝善の後ろに伸びる淡い影がそこを出ていくのを見つめていた。
礼拝堂のドアの外で孝善が点けた小さな煙草の火が消えるまで、私は礼拝堂の中で彼が空へと放った龍の行方を追い続けていた。

福岡の会場で既にセットアップを済ませていたツアークルーに合流する。リハーサル、そして、盛大にツアーファイナルが始まった。
鳥肌が立つほど息の合ったリハーサル演奏に、スタッフたちとともに只々見惚れていた。
「やっぱりファイナルともなると、空気が違いますね。」
西村マネージャーも、目を輝かせている。
「もう何もかも平常じゃないですよ。彼らがステージに立つとそれだけで奇跡の時間になります。二度とはない、一瞬です。」

開演した。観客の興奮の渦は集団意識の圧倒的なエネルギーを感じさせる。
何千人もの人間の感情を高めることができる音楽。歌。ハープの演奏に重なるウッドベース。これ以上のアレンジは無い。
緊張ではない鼓動の高まり。プロジェクションマッピングがドラゴンを映し出すと会場から歓声が沸く。Myconosのパフォーマンスに合わせドラゴンが暴れる。それは単なる像を越えて、まるで体温のある命が舞っているかのようだ。

なぜ、永遠を願ってしまうのだろう。
必ず、終わりが来ることはよく承知している。この刹那の瞬きを、人生の全てにして、これから生きていくことはできるのか。
ステージの上のMyconosとツアークルー、そしてこの舞台袖に控えているすべてのスタッフ。会社のバックスタッフ。観客。全ての人の意識が束ねられ、記憶に刻まれる。記憶だけが残る。

ツアーは東京で千穐楽公演を迎えた。盛大な打ち上げのための準備に奔走するスタッフチーム。私はリハーサルを終えるとジーンズとツアーパーカーを脱ぎ、プラダのネイビーのスーツとハイヒールに着替えた。千穐楽ともなると楽屋見舞いに訪ねてくる著名人の数が多い。通路の壁は花で覆いつくされている。
「紗綾さん、こちらにお願いします。スポンサーの方がお見えです。」
「すみません、無理を承知なのですが、2席ご用意いただけませんか。どうしてもって、社長の奥さんとそのお連れ様なんですが。」
「会場席は満席ですので、コントロールブースからでよければご案内致します。」
「どうもありがとうございます。」
見送った通用口への廊下の先に、懐かしい姿、恰幅のいい多彩な色彩の女性がこちらに歩いてくる。
「貫禄出てきたじゃない。」
「社長。」
「うちでもこれくらいの規模のコンサートを受けられるようになった、っていうことね。」
「ご冗談でしょう。結局3社合弁企画になったようなものじゃないですか。」
「じゃあ、今日は楽しませてもらうわよ。ねえ、ところで公演終わったらMyconosと写真撮らせてもらえないかしら。」
「じゃあ、打ち上げにも来てください。カンパも歓迎します。」
「サンキュ、じゃあ後程。」

あと3時間の後には、すべてが終わっている。
Myconosはこれから天に上る龍となる。二度とこの地上に戻らぬよう、星の下に送り出すのが私の仕事だ。
「それでは、お願いしまーす。」
舞台監督が叫んだ。
Myconosの3人とサポートメンバーと堅く握手をしてステージの光の中に送る。
「行ってくる。」
光が孝善を包んでいる。彼の唄声はドラゴンとともに天へと向かうだろう。


Myconosが去った後、片付けられるのを待つ機材だけが残る舞台。
私の意識は闇の中に組まれた足場や木材が目に入らなくなるほど、その場の現実から遠ざかっていた。
「三田さん、ほら、ここは危ないよ。」
軍手を嵌めた大道具スタッフは私の肩を掴み、狭い通路から幕の降りた舞台スペースへとやさしく導く。
龍が天に全てを昇華させていった。

もう想い起して苦しむことのないように。


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