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short story_花雪舞

ロット毎の構成が異なるため、ひと瓶の液体が尽きれば全く同じ香りに二度と出会えない香水がある。short storyに取り上げるのは、名残惜しみながら記録される香りの印象の物語。

*****花雪舞 composed by Tokyo Sanjin (Sunyata), 2018 Autumn

肩を揺り動かされ目が覚めた。まだ夜は明けていない。

雪よ。

深々と冷えた夜。
燭台の炎が庭へと続く縁先の戸板に、影を揺らしている。
開いた戸の間から冷気が家の中に流れ込み、容赦なく床を這い回る。

寒いじゃないか。

積もるかしら。

堪らず布団に身体を包んで、さらに途中床に落ちて広がっていた褞袍を頭から被り、芋虫のように半ば這いながら縁に近づく。
裾から出た女の白い足首。雪が薄く覆った庭は白く光を放つようで、女の顔に陰影をつくる。
今朝、ひとつふたつと蕾が綻んだのをふたり喜んだ梅の枝に、どうか今夜あまり重く積もらぬようにと祈る。
冷えるからもう戸を閉めて、と言うよりも先に、女は下駄に足を入れ庭に降りていた。
梅の木の傍の雪灯篭に蝋燭を据え、それから、冷たい冷たいと駆け戻ってきた。
闇に振る雪は揺らぐ炎の前に煌めき舞う。
下駄を脱ぎ散らして縁先へと飛び上がった女から、梅の香がした気がした。
庭の一角を埋める水仙の茂み、そこから漂う濃い花の香に、湿った雪の匂いが混じる。
明日朝の風呂屋までの道を案じたが、今できることはもう一度眠ることだけだ。積もらなければいいのだが。

明日の舞台は頼朝をやる。初演だ。

突然冷えた手足が布団の中に差し込まれる。

雪の中にそんな恰好で外に出たりして、風邪をひくよ。

なんの、こんなことで風邪なんてひいてられないよ。

まったく医者の不用心ていうんだ。

破天荒で天邪鬼、へそ曲がりともいうのか。
女はこの街の医者をしている。
祖父、父が残した裏山の薬草園を継ぎ、手ずから調合する薬がよく効くというのでこの辺一帯の評判だ。遠く他の町からも人が来る。
口は悪く、呑めば喧嘩も売るし買う。それでも、その実、結局お人よしの心根の良さから女を慕って医院の待合は常に老人から子供、その付き添いで混み合っている。
夏の終わり、その待合を騒がせたのは私だ。芝居小屋の采配人と役者仲間に賑やかしく担ぎ込まれた。

私は齢10の頃から女形だけを演ってきた。
生まれつきからの、この姿のために。

子供の集団の中で際立って透けるような肌、黒目勝ちの目、紅でも指したかのような唇。
荒くれ育っていく男ばかりの兄弟5人の中、近所でも目立つ4番目の私を男子として育てることを恐れた気の弱い母は、舞台興行で街を回っていた采配人の言うがまま私を役者として旅劇団の一行に預けてしまった。一家の食い扶持を減らすためでもあったのだろうが、男子でありながら女性に嫉まれるほどの美しさを備えた身体と顔を持つ私を、縁起が悪いとも言い恐れていた。もはや異形は要らぬと。

掛小屋芝居に幼姫役で出たのを始まりに、このかた一度も男役を演じたことがなかった。
私の演じた幼姫は、夢が現に乗り移ったかのようだと、人は評した。女形ではなく、実際に少女が演じているのだと信じて疑わぬ客も多かった。
私が舞台袖から出れば、客席からの野次や掛声が止み、客は私の舞に息を呑む。
人に夢を見せる。それが私の生業だ。
生来の魂からの役者だと人は言うが、私は誰よりも稽古を積んでいるに過ぎない。他の男子のように力仕事にも向かぬ容姿、親から見放され、拠り所ない私には芝居を磨くことでしか生きる術がなかった。
職業人としての研鑽の果て、誰にも到達できない女形ができあがった。
それを知らぬ同業役者は、特に姉役の女役者たちは、私に嫉みとも羨望ともつかない意地の悪い奇妙な接し方をし、それから挑発や嫌がらせに全く動じない私から距離を置くのが常だ。
男の役者連は私を避けるか、露骨に個人的好意を寄せてくる。

演目と配役が決まれば、寺の奥の部屋を借り、誰にも見られることなく一人稽古を続ける。
客の中にある実体のない理想の女像を現し、演じる。
指差の動きまで身体が覚えてもなお、演じる姫と心を重ねるために、稽古を積む。
自分自身も役と自身の境目を朧げにし、話の筋によっては心乱されていく。

ある演目初日の前日、稽古を積めどもなかなか身に入らない複雑な舞、だからこそ美しく完璧に舞いたいと焦りが出た。科白を覚える呼吸が苦しい。
緊張で一睡もできぬまま舞台に立つこととなった。水を飲んでも飲んでも喉が渇き喉が焼けるようだった。全身が怠い。幕が開く直前になっても収まらず、ひどい眩暈がしたかと思うと息を吸うことも吐くこともできなくなっていた。無理にでも息を吸おうとするが、いくら吸っても胸に空気が入らない。
大きな音を立てて舞台袖で倒れた。
采配人は急遽姫役に他の役者を投じ、慌てて私を医院へと運んだ。
代役の舞った姫は、脛毛も露に、青髭天女と後々まで揶揄されることになった。

医院に運ばれた私の方は、
あれほどに苦しかった呼吸は、医院の布団の上に寝かされ、気が付いた時には何もなかったかの様に元に戻っていた。何ともない。舞台に戻らねば。ただ、口の中が苦い。何か薬など飲まされたのだろう。
これまで建物の前の行列を急ぎ通り過ぎるばかりだったこの街の医院。中の様子を初めて知る。
白衣を纏った白髪の老女が近づいてきた。
先生を呼んでまいりましょう。
強い匂いがする。いつも病院の前に立ちこめている薬草を煎じる匂い。ここではなお一層きつく漂う。

ほら、やっぱり男だったろ。いやなに、このおたみさんと女か男かで掛けたんだ。
先生、そんなことおっしゃってはなりませんよ。
女と間違われても無理もない。私は女形の舞台衣装のまま横たわっていた。

遮ろうとする老女を笑いながら、女は素早く私の腕を取り脈をとる。それは私が人生で受けた初めての温かな人の手当てだった。早くから親元を離れ、請われるままに、期待に寸分違わぬ夢を人に見せてきた。
そして私は自分自身の夢を忘れた。

馬鹿だな。自分で自分の血の巡りを止めようとするんだからね。
ぶっきらぼうに女医は言った。
自分で。
思わず聞き返した。
そうさ、お前さん自身でなかったら誰がお前さんの血の巡りを止められるんだ。


ひどく疲れを感じていたはずだ。血の巡りが悪い証拠だ。なのに舞台で踊り唄うは無理だろう。

確かに、その通りだった。いつにない疲労感に見舞われていた。
売れっ子役者なんだってな。多くの人目に晒されて耐えられるほど、今のあんたの心の臓は頑丈じゃないようだけど。
そんなことを言う人間に会ったのは初めてだった。これは私の仕事だ。

皆、舞台女形を私の天職だと言う。選ぶことも離れることも、もうできない。
女は大きなため息をついた。


気を楽に持たないと、先々もたないぞ。

それから、診察や煎薬を受取るため数回通った。
女医は仕事で私の手当てをする。薬を煎じ、手ずから飲ませ、一時その後の私の様子を見る。瞼を捲ってみたり、舌を出させたりする。
それが女の医者としての仕事だ。それ以上のものではない。わかっているさ。重々承知だ。
それなのに、女の手に触れられると、何とも言えない泣きたくなるような親しみや、感動にも似た震えが胸に深く響く。
劇中、役でいくらでも男の手に触れてきた。しかし、女医の手は全く違う。
看護婦のおたみさんも丁寧で優しく温かい手をしているが、女医者の手は、肌の熱こそ低いが、触れられた私の身体の方が温かくなるのだ。

おたみさんが他の患者と話しながら、先生は独り身だと嘆くのを幾度か聞いた。嫁がなければ食べられない身の上でもないし、もはや伴侶を必要としてもいない生活だとも。女でさえなければ嫁を取り医院の跡継ぎもできたであろうに、もったいないもったいないと、漏らしていた。

演技に艶が増した。
或る時、支配人がそう言った。牡丹か芍薬の花ようだと。自分でもそう感じている。自分の中に芽生えた消すことのできない炎が人に夢を見させる力を強めていた。女形の心持のままでは、到底届けることのできない女医への想いが自分の中で膨らんでいく。その感情のままに演じれば、焦げて灰となる切ない恋物語が、予期しない熱を帯び観客を魅了する。

一方で、これまで通りに男役者の恋相手役として演技することに難しさを感じ始めた。時として、劇中恋仲となる男役者が、舞台を降りると恋敵となる。打ち身をして医院で女医の診察を受けたことを自慢げに話す輩に対して、生まれて初めて抱いた嫉妬心。劇中の恋の相手だ。
目の前に居ない女医を想い、胸が締めつけられるような瞬間。そして劇中と現の間での恋と嫉妬の混乱。

気を楽にといってあるだろう。
薬を取りに医院に来た私の顔の色艶が悪いという。実際にここまで来ただけだのに息切れがしている。
また息苦しくなる発作が起こるようで、動悸が落ち着くまでは医院にしばらくとどまり休むように言われた。それきり医院奥の床にひとり横になった儘だ。次第に退屈が私を苦しめる。女医への想いに苦しむ。演じられないことへの焦り。私はもう、楽にはなりそうにないさ。


人気役者の度重なる休演で客の入りは一気に落ちた。
采配人は頭を抱えている。代役では客の入りは半分にも満たない。

紫の半襟、衣紋を緩く、後れ毛を結い直しもせずに煎じ薬を用心深く湯呑みに注ぐ女医だけが閉院後の医院に居た。よくその姿を知れば、その腕は細く、丈も高くはないのだ。頼もしい存在のためか、実際よりも丈高く感じられる。


私の、この病は治るのですか。

あんた次第だよ。頭で考えていることが強すぎて、それが身体を支配しようとする。身体は頭ほどには強くはない。でもその頭の強さが、役者としてのあんたの成功を支えているだろう。

どうしたらいい。

あんたの価値は、あんたが思っているのとは違うんじゃないかなあ。手の届かない浮世離れの女形、売れっ子役者。それはあんたが創り出した像だよ。あんた自身の本当の力はもっと別のところにあるよ。牡丹芍薬のような姿は、あんたが意図して創り上げた像だよ。とても成功しているようだけど。身が持たないだろう。


教えてくれ。本当の私はどうだというのだ。牡丹芍薬ではないのなら、本当の私は何なのだ。

舞台に向かえば眩暈が起こる。舞台に出られない私は弱い浪人でしかない。病のおかげでかろうじて病人の皮を纏い、医院に居付いていた。医院の庭の石垣から零れるように咲く龍脳菊。色付こうとする柿の葉。紅葉。裏山に並ぶ金木犀と銀木犀から微かに漂う花の香。水引。終わりかけの萩。

強く頼もしい女医は、医院に現れる荒くれ者の大男達すら平伏させる力を持っていた。しかし、それは粗雑で乱暴な力強さではない、どこかこんな庭先の花のような、繊細な、しかし、季節とともに必ず花をつけるという安心感に包まれている。


恐れを解く。

薬草園となっている裏山、その手前にあるこの小さな医院の庭に抱かれていると、秋から冬へと向かう日々の自然の時の流れに自分もゆっくりと取り込まれていく気がしていた。
それは人を魅了するための牡丹や芍薬の花とは対極にあるように思えた。危うさゆえの美しさ。破滅を背にした妖艶さ。私が使ってきた力は、散る時を迎えたのかもしれない。

いつしか、女医が裏山で薬草摘みや乾燥、調合、煮出して煎じるのを手伝うようになっていた。

舞台を離れて僅か数か月、しかし舞台で舞っていた頃の自分は夢を見ていたのではないかと思うほど人目を忘れ、自分自身の体調や季節移り変わりに心を向けるようになっていた。次第に脹脛には筋肉が付き、うっすらと髭すら生えた顔はもはや女形で立てるものではなかった。


女医は着古した着物に扱きも緩く、獣と同じように山を背景に姿を見失いそうだ。しかし、傾いた秋の陽に照らされたその姿は、私が舞ったどんな絢爛な姫よりも美しい。私の方が肌は白く肌理が細かいが、女医の美しさは地に根を張り息づくものの美しさだ。
私はそれをずっと守りたいと思った。その時初めて、自分の中に夢を見た。

女形を辞め男役を演じたいという私を采配人は初めこそ反対していたが、山の薬草園での作業で筋肉がついてしまった私の肩や脚を見て、すっかり諦めたと見え、新たに私を主演の男役に据える演目を企画しなくては、と言っていそいそと帰っていった。

山茶花が花をつけた。それはその山で一番大きな山茶花でてっぺんは見えないほどだ。その木が満開になると山に灯が燈ったように見える。鹿や狸が零れ落ちた花びらを拾っては口に入れて立ち去っていく。

あんたはこんなだよ。
突然、女医がその木の前に立ち止まって言った。近くで一心に茶の木の種を拾っていた私は、聞き返した。
え。
あんたは、きっと本当はこんな風だね。華やかだけれど、芍薬や牡丹とは違うんだ。こんな風に山に愛されて、山を愛す、一本の木に咲き綻んで喜びを伝えるような、そんな美しさだよ。

女形を辞めた後、生まれ変わったように俳優としての新しい演技を始めた。
自分の花を知ってから、舞台の上でも、外でも、自分のあるべき様に生きる術を知った。
身体は丈夫になり、誰から見てもまごうことなき成人男性として、医院に婿入りを果たした。
人の前で演じる舞台は続く。常に新しいものを求められている。しかしそれは巡る季節の流れに逆らわなければ無理なく用意ができるものだ。

女房は今日も静かに草花に手をやっては、人を癒すための力を掬い取って集めている。


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