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Short story_マチュアなひと

Antianti vintage perfume White Gardenia, 2018, composed by MACOTT

実験*****香りからイメージへ、イメージから生まれる香り****

久しく忘れていた「伏魔殿」という言葉を思い出した。

富士山を望む美しい植栽のある敷地の庭、ペールグレーの躯体にガラス張りのシックな建物。
このフォトジェニックな佇まいは、美術館かギャラリーのようにしか見えない。
光を反射するガラスの壁に近づいてみると、建物の中を覗くことができるだろう。そこにはオープンスペースになったオフィス。さらにその奥に、防爆ガラスで囲まれた実験室がある。シンクやガラス器具が整然と収まるラボベンチ、排気設備。

ここは、製薬会社の研究所にある実験棟だ。生物や化学の実験のための施設が入っている。
老朽化が進み手狭になった都内にある本社の実験棟の代替えとして、2年前にここ東海エリアに新しい研究所が建てられた。
本社の研究職員の半分はそのまま都内の古い実験棟に残ったが、残りの半分はこちらに転勤となった。そして、私も遅れながら2か月前にこちらに異動配属された。
この新しい実験施設は、本社の古い施設と比較することすら難しいほど、明るく清潔だ。都内を離れることになる異動を嫌がる社員も少なくはなかったが、事実上この異動は、研究環境が奇跡のような進化を遂げることを意味する。
老朽化した建屋の中の古い設備や機器の不具合を騙し騙し実験に使っていた日々が、今では遠い昔のことのように思われる。凍える朝、超純水20Lを地下の供給施設でタンクに溜めて、毎朝台車でラボまで運ぶ。そんな体力と気力を注入しなければ一日の仕事が始まらなという手数を当たり前だと思っていた毎日は終わった。
ここでは、実験に関わるルーチンワークは完全自動化され、デジタル化も実現されている。センサーが人の動きを感知し、人の先回りをしてドアを開け、照明を点け、蛇口から温水または冷水を流し、ダストボックスの蓋を開閉する。バーコード管理された試薬瓶はイントラネットから要求すれば、ストックルームからラボまでロボットにより自動配達され、瓶の中の試薬の使用量は自動的に記録される。それらの動きは全てこの研究施設内のサーバに記録される。もちろんPC端末を含む機器の動作の度に個人のICチップが読み取られており、誰の動きで装置が動作したのかが全て記録されている。

人が手でモノを動かしていた力や、地下の暗い施設で水がタンクに溜まるのを待つ時間。そういった、実験内容に直接関係の無い労働の一切は無駄とされ、ここでは必要無くなっている。
この洗練された環境で、消し去られた無駄の代わりに私は何かを得られるのだろうか。無駄の排除はどのような研究の進歩をもたらすのか。
この新しい研究施設ができて2年が過ぎた。
この場所で生み出された研究業績は、かつての古い、非効率とされた研究棟に残った集団が生み出してきた業績を決して上回ってはいない。実験研究環境の洗練は必ずしも、成果の向上に繋がらないということなのか。
環境の洗練による影響は、研究成果ではないところに現れることを、私はようやく知ったところだ。

「根回しした?」
先輩から問われた。
翌週のラボミーティングで自分が得た新しい分析結果を発表しようと、プレゼンスライドを念のため先輩に確認してもらっていた時のことだ。
ラボ内の業務の進歩状況を報告する程度のミーティングでは、通常、発表資料の確認を先輩に依頼することはない。実験結果は皆の前で発表し、その場の参加者全員の目によって問題点を指摘してもらい、確認と共有をするのだから、特定の先輩にその発表内容の事前確認を依頼すると、それは彼にとっても私にとっても2度手間ということになる。
しかし、先輩は発表前に一度自分に見せろという。
「あの、すみません。根回しというのは、どちらに対してでしょうか。」
「隣のユニットに決まっているだろう。」
何故そんな当然のことを尋ねるのか、と先輩の眉間に皺が寄る。
「あそこのユニットもうちと近い内容で実験をしているんだから、自分達が結果を先に発表していいのか、後になってあちらと不整合の結果が出ないか、確認してから発表したほうがいいぞ。」
先輩の機嫌をこれ以上悪化させない方がいい。
だから、「得られた結果を発表することで、皆がお互い結果を共有し合う場こそがミーティングなのでは」、と言う言葉は呑み込んだ。
「もし彼らに発表するのを控えるように言われた場合は?」
「そうしたら、このデータは出すな。」
活発な議論を妨げるような、圧力や忖度は、正しい研究環境においては全くナンセンスだ。しかし、それがこの研究所全体の動きを支配する力であることを、遅からず理解することになった。

この研究所では、スタッフ研究員は3年ごとに審査を受け、評価の低い研究ユニットや研究員は減俸や、最悪、本社の事務職への異動になることもある。
評価項目は全研究員内の相対評価なので、毎年、一定数の誰かが必ず研究前線からドロップアウトするわけだ。研究職と事務職の給与差は2倍では済まない。
自分の周りにいる人間はすべてライバルとなる。
その緊張感の異常な高まりに対する処方箋として、誰かの突出を許さない日本文化は、根回しの徹底による研究成果の牽制し合いを選んだ。
自分のようなヒラ研究員は、出る杭にならぬよう、波風立たせぬよううまく立ち回ってさえいれば、高評価にこそならないが集団から弾き出されることもない。そもそも、専門が異なれば成果の形態も異なる。研究員に対する評価基準ほどあいまいなものもない。
一方で、ユニットリーダーの間で繰り広げられる競争は熾烈だ。
研究資金の奪い合い(旧国立大学への配分予算削減に対して競争的資金獲得という大義名分をかざした文科省のやり方を真似たものか)に始まり、実験室のスペース、人件費枠は常に取り合いとなり、ユニット間に張りつめた緊張感は途切れることはなかった。ユニット内の粗を他のユニットに見せれば、恰好の叩き処とされる。
公正なやり方で資金やスペース配分が決まるのならば何ら問題はないはずだが、実際はそうではない。
ユニットリーダー個人に対して、経営上の決定権を持つ役員らが抱く印象のみがユニットの評価の全てとなる。
つまり、上の覚えの目出度いユニットリーダーが優遇される。
この研究所のトップは研究者出身の人間ではない。正当な研究評価を彼等に期待できない。
成果を焦るユニットリーダーからハラスメントを受けたと訴えて辞めていく部下の研究員。所長に取り入ることだけに集中することを決めたユニットリーダ―。ユニットのミッションを投げ出し、外部への転職活動に走る研究員。
建築デザイン賞を受賞した美しく洗練された研究所の建屋の中の内実は、このようなものだった。

美しく整えられた芝生の上。
コンクリートのベンチに座って弁当を食べていると、明るい笑い声とともに。白衣姿の男性2人と女性が人間が中庭を歩いて通り過ぎて行った。ゆったりしたワンピース姿の女性の笑顔が印象に残った。ここではそういう顔をほとんど見ないから。
どこかのユニットの秘書さんか派遣スタッフだろうか。
そう思って疑わなかったから、暫くして彼女が研究者だと聞き驚いた。まして、ユニットリーダ―だったなんて、想像もしなかった。
額と眉間に深い皺、険しい表情、乾燥した頬、青白い血色、そして骨が浮く様な痩せた姿か(それは男女関係なくそうなのだ)、または、痩せていなければ、白くふやけたような脂肪を纏った身体つき、汚れた眼鏡のレンズ、というのが私が知るこの研究所のユニットリーダーたちの特徴だった。
廊下ですれ違い様に挨拶をしてくるのは秘書たち、それも機嫌のいい時だけに決まっていた。廊下の通路幅が広いとはいえ、研究者同士は目線を伏せ、黙ってすれ違うだけだ。ここでは白衣を着ていることはすれ違う人を無視することを許す免罪符のようなものになっていた。だから、彼女のことも初めは研究員とは思っていなかった。
所内で特別に業績を上げた者に与えられるインセンティブ受賞者が写真付きで張り出されたとき、その写真から彼女がユニットリーダーであると知った。杉浦(すぎうら)歩(あゆみ)。

「ああ、杉浦さん?あれは特殊よ。」
何気なく、コーヒーメーカーの前でコーヒーを淹れていた先輩に、彼女のことを尋ねてみた。
「特殊って?どういう特殊なのでしょうか。」
「あの人は、全く政治をしない。」
「政治?」
「まさか君、普通に実験だけしていれば研究費がもらえて、来年も研究が続けられるとでも思ってる?自分を上にアピールするための営業活動は必須だよ。でなきゃ、存在からして忘れられるんだから。予算なんか忘れられたが最後、配分されないよ。」
「そうですか。で、杉浦ユニットリーダーは、その、自分の売り込みをしないということですか?」
「しないと言うか。所長主催の忘年会を普通に参加を断ったりするらしい。所長室の秘書が言うには、他のユニットリーダーは嘆願書や他のユニットの悪口を散々上層部に送ってるらしいけど、彼女からだけはその類のメールもゼロだそうだよ。アピールしないんだ。まあ、それはいいんだけど、所長や理事たちに対して関係を持とうとする気が薄いと言うか。でもかといって上層部に嫌われているわけでもない。まあ、業績は淡々と上げているから、無駄に上に取り入る必要もないんだろうけどね。」
コーヒーメーカーで淹れる美味しくもないコーヒーだったが、秘書たちの噂だと、彼女は40半ばで独身らしいよ、という零れ話を聞いて、つい、もっと杉浦歩について聞き続けてみたくなり、自分のマグカップに2杯目を淹れる。
「とりあえず、所長から彼女に一目置いてるみたいだから、他の理事も、それに倣え、ってことかもな。だから杉浦ユニットはまあ当面安泰なんじゃないか。なに?君はあっちのユニットに移りたいの?」
「いいえ、そんな。僕はあのユニットの仕事とは専門が違いますし。」
慌てて否定した。
「ただ、ちょっと昔、杉浦ユニットで扱っている分子を僕も扱っていたことがあって。」
「興味があるならあそこは誰でも参加できるオープンミーティングをやってるみたいだから行ってみれば。もちろん、うちのユニットの仕事をやったうえで時間があればの話だよ。それからうちのユニットリーダーには許可とっておいてね。いくらオープンといっても、黙ってよそのユニットのミーティングに自分のユニットの研究員が参加するとか、うちの田口リーダーからすると、ちょっと印象悪くなるからね。」
僕は溜息を隠すために慌ててコーヒーを口に含んで自分のデスクに戻った。そして杉浦ユニットの次回のオープンミーティングの時間と場所を所内ウェブで確認し、オンライン参加登録をした。

忙しそうにラボ内を歩き回っていた上司のユニットリーダーである田口は、機嫌が悪い時、両手に嵌めているグローブを大して汚れてもいないのに脱ぎ捨てては、新しいものを嵌める動作を繰り返す。ダストボックスには使い捨てグローブが山を作っていた。
「あのう。」
返事の代わりに眼鏡越しに睨みつけられたが、ひるむわけにもいかない。
「あのう、明日杉浦ユニットのオープンミーティングに参加したいのですがよろしいでしょうか。明日のテーマが丁度今このユニットでやっている僕の実験の参考になりそうなんです。」
「ああ、杉浦ユニットか。やっていることが似ているなら、聞いてこい。ただし、絶対にこっちのユニットの情報を漏らすんじゃないぞ。進捗状況も含めてだ。」
吐き捨てるような返事だったが、晴れて許可が出たわけだ。

翌日、この研究所に異動してきて、初めて期待と興奮を抱えて出勤した。午後に杉浦ユニットが開くオープンミーティングに参加する。
ミーティングスペースではディスプレイの前に椅子だけが並べられている。銘々がマグカップやスナックを手に集まってきた。ユニットリーダーの彼女と僕を入れて2人の日本人を除き、ほか10名近くは皆外国人だ。ディスプレイに映し出されるデータを参加者の一人が説明する。それに対する意見が飛び交う。ネガティブな意見の後には必ず建設的なアイディアが出される。それをファシリテートしているのが杉浦リーダーだ。子供が友達と新たな遊びを計画するような楽しげな様子で、しかし、発言者の言外の意図も上手に汲み取って、放っておけば混迷に向かう話を本筋へと戻していく。メンバーは活発に意見を述べる。彼らが純粋に仕事を楽しんでいることが分かる。こんなミーティングはこの研究所に異動してから初めてだった。田口ユニットでは常態化している、他人の研究の不足点を論って陥れるような謀など起こりようもない。疑問を伝え合い、共有するその過程の素直さは、好奇心を隠さない子供のような感覚だ。
一時間のミーティングはあっという間に終わった。
その日一日、活発な意見の交換が次々に新しい実験アイディアを次々生むのを目の当たりにした興奮が冷めなかった。

善悪の価値観が反転し、混沌としたこの伏魔殿の泥沼の中にあって、人として、研究者としてどうあるべきか、忘れてしまうところだった。
杉浦ユニットのミーティングは本来とても自然な事のはずなのに。研究所の邪悪なメインストリームに危うく自分も呑み込まれるところだった。

2週間後、再び杉浦ユニットのオープンミーティングに参加した。
終了後、椅子を並べなおしている杉浦リーダーが私に声を掛けた。
「あなたは、田口ユニットの方?参加してくれてありがとう。でも、珍しいわね。田口ユニットからの参加者はあなたが初めてね。」
「あ、はい。ちょっと自分が今やっている実験と近かったので。」
そこまで言って、慌てて口を閉じた。ユニットリーダーから自分のユニットの仕事については何も言うなと言われていたからだ。けれど、自分も自分の結果を皆に説明して意見交換をしたい。
次第に、杉浦ユニットに移って研究することも現実的に想像するようになっていた。
何とかして杉浦歩との接点を作ろうと、無理矢理、杉浦ユニットの研究内容に対する質問を考え出し、ご意見を伺いたいので時間を作ってもらえないか、と散々逡巡しながら杉浦リーダーにメールをした。こんなことがリーダーの田口にばれたらユニットでの来年の契約更新は危うくなるが、ちょうど田口は2週間海外出張で不在だ。杉浦歩に質問に行ったことは黙っておけばいい。

「こんにちは。どうぞ、かけて。」
彼女はデスクを挟み対面できるように置かれた椅子を僕に勧めた。
その部屋には外の陽光が入り込み、室内照明は消されていた。つまり、人の動きで点灯する自動照明設定が手動でオフにされている。太陽の前を行き過ぎる雲の流れに応じて、部屋の明るさは刻々と変化した。
「丁度、お茶を淹れたの。召し上がって。」
小さな湯飲みから瑞々しい日本茶の香りが立つ。丁寧にお湯の温度を下げて淹れた煎茶だ。
これまでにこの研究所で会ったユニットリーダーや研究員とはと全く違う。彼女は初対面の僕にも緊張感を与えない。
それは、彼女自身がまったく緊張していないからだ。
他の研究者は初見の人物に対し、すぐさま相手が自分の見方になるのか足を引っ張ることになる敵なのかを判断しようと眼を鋭く、警戒を解くことがない。

「ここにいる多くの研究者はとても優秀な研究者ばかりよ。この製薬会社の研究員と言う社会的地位に見合うだけ、賢いわ。何処に出したって通用するわ。この国の人口の数%だけに相当する、ブレインでしょうね。」
私がクズ人間ばかりだと思っていた他人の顔色ばかりを伺うこの研究所の研究員たちを杉浦リーダーがそのように評価していることを知って驚いた。
「ただ、自分たちが抱えている重大な弱点には気が付いていないの。」
「弱点?それは何でしょうか。」
「まずは自分で考えてみて。」
そう言って、彼女は早速だけど、と私の質問について、回答をし始めた。
結局、何がこの研究所の研究員たちの弱点なのか、その日聞き出せなかった。
ずっと考えていた。

東海の研究所は暮らすにはいいところだったが、遊ぶところはもちろん何もない。しかし、新幹線の駅は近いため、職員らは遊びに行くなら東京にまで出ることが多かった。
その日、ジャズミュージシャンのライブがあり、私は新幹線で新横浜まで出て、渋谷のコンサートホールに向かった。チケットはプラチナでネット抽選に勝ち抜きようやく手に入れたものだ。
滅多に履かない皮靴にジャケットも羽織って来た。こんな場所にでも来ないと、普段は盛装する機会もない。夕日がビルを縁取るのを眺めながら、オーチャードホールのロビーにいると気分も上がる。他の客も皆美しく装っている。あるいは、これは東京では誰もの普通の装いなのだろう。服装にも髪形にも一切気を使わなくなった東海暮らしに慣れてきていることを気に揉む。あの研究所の人間なんかだれもジャズライブなど聞きに来たりしないだろう、とたかを括っていた。だから、ふと美しいアップヘアに輝く髪飾りを付けたモーブ色のニットワンピースを着た女性の横顔を見て、杉浦歩だと分かった時の驚きは、本当に心臓の音が耳に響いた。
離れたところから遠目に彼女を見ていると、そのそばに、男性が近づいてきた。肩幅のある、まるで俳優のような顔も躰も整った男性、いや、私は彼を知っている。
まさか、職場で会ったことのある人間だったか?いや、見たことがあるのはテレビの中だ。それは俳優T.B.だった。ハリウッド映画にも出演作があるバイリンガルの俳優だ。
こういう場所だから、芸能人がいても可笑しくはない。しかし、なぜ杉浦歩と一緒にいるのだろう。まさか、付き合ったりしているのだろうか。
とても親しく話している。二人の距離は触れるほど近い。
ジャズライブは期待を裏切ることなく最高の演出だった。しかし、私の頭の中は杉浦歩のことでいっぱいだった。どこかで憧れていた相手だったから。でも、その相手が、俳優T.B.ほどの完璧な男性では仕方がない。幾ら着飾ってみたところで、自分は到底杉浦歩の相手などではないのだ。

中庭で弁当を食べていると、此処いい?と杉浦が弁当を下げて私の隣に座った。
昼休みの食堂は慢性的に席が不足し、中庭のベンチ席の競争率は高い。私の横のベンチだけが空いていたのだが、そこに別の二人連れが来てしまい、ひとりで席を探していた杉浦歩がこちらに移ってくることになった。
当り触りの無い研究の話は、2分で尽きた。無言に耐えきれなくなった私は、例によって詰まらないことを口にしてしまう。
「あの、すみません。もし違っていたらすみません。でも、あの、先週、渋谷のライブに行かれましたか。」
「ああ、もしかしてあなたも行っていたの?いいライブだったわよね。」
「あの。」
「何」
「あの、すみません。僕は職場の誰かに言ったりなんか絶対にしませんから。」
「何、見たの?あの人と一緒のところ?別に謝らなくったっていいじゃない。そんなこと知られても知られなくても気にしてないわよ。有名人と一緒にいると無駄に人の目についてしまうわね。」
「あの、すごいですね。芸能人とお知り合いなんて。」
「お知り合い。」
「もしかして、」
「T.B.とは別に特別な関係ではないわよ。」
それを聞いて途端に力が抜けた。
が、次の言葉で脳に槍が突き刺さった気がした。
「好きな人だけどね。」
「そうですか。好きなんですね。でもT.B.さんも杉浦さんのことがすごく好きそうに見えましたよ。」
「うん、彼もそう言ってる。」
「あの、僕に理解できないのは、未熟だからでしょうが、どうして、好きな相手同士なのに。」
「ステディでないかって?その必要がないからよ。私たちは今の状態で十分幸せに感じているのよ。」
今の状態がどういう状態なのか、聞けるはずもなかった。
「杉浦さん、杉浦ユニットのセミナーも面白いけれど、その考え方も、僕には興味深いです。」
彼女は空を見上げて笑っていた。一瞬、花の香りを嗅いだ気がして、周囲に花が咲いているのか、と見渡した。

杉浦歩とは普段頻繁に会話ができるわけではなかった。ユニットリーダーの田口の視線は常にユニットスタッフの動きを厳しく監視している。杉浦ユニットのオープンミーティングへの参加も、ついに田口から制限が掛かった。
「自分の仕事は進んでいるのか?大した結果も出てないのに他のユニットのセミナーに出るとはいい度胸じゃないか。」

そして、私は杉浦ユニットのミーティングに参加することはなくなった。

その年の忘年会、研究所の全員がホールで立食パーティーとなった。車で通勤する職員が多いので、職場で開催されるパーティーではアルコールはほとんど消費されない。そして、公式のパーティーが終わってから、グループごとに銘々、徒歩で帰宅できる範囲の駅近くの観光客用のホテルのバーなどで飲み直す。
杉浦歩がユニットメンバー数人のグループを作って移動しようとしているところを何とか声をかけて、参加させてもらうことになった。田口はパーティー開始30分後には帰宅の途についていた。話ができるとすれば、今しかチャンスがない。

グランドホテルの地下のバーで、外国人スタッフ達との会話が途切れた頃、杉浦歩は日本語で話せる私に話しかけてきた。
当たり障りのない話でワイン2杯を空けていた。私も彼女も口が緩む。
「何でT.B.とステディとならないかって?欲しいと思っているものすべてを手に入れない、抑止力こそが大人だけが楽しめるエッセンスでしょう。」
まるで子供の様な素直さで研究を愉しみ、仕事に取り組む彼女が、プライベートでは大人の態度を貫き通す。
「手を出せばすぐに触れられる。手に入る。けれど、それに触れれば自分の体温でその美しさが失われてしまうことも知っているの。もちろん、手に入れることと引き換えに美しさを消費することもできる。けれど、自分の意思でそれをしないの。」
どちらかと言えば童顔に見えた彼女の顔が途端に無二の美しい顔に見えた。この人は、きっとこれからいくら歳をとっても美しいままなのだろう。
「すべての大人がそういうわけではないわ。大半は皆、何かに飢えていて、手に入りそうなものは、要らないものですら、少しでも多くを得て消費しようとする。そして消費した後のごみで膨れ上がる。」
「僕は、その大半の方の大人です。」
「美しいものを消費せずに、そのままにして楽しむのは、何でもできるようになれた大人にだけに許される、粋よね。この話、専ら、彼の方の美学だけどね。」
もう私は頭がくらくらした。
灰色の研究所の中に、この杉浦歩がいると言う事実。彼女はあの職場に全く染まっていない。波風も摩擦も起こさず、水のようにしなやかに自分の世界で仕事をしている。世の中、私にはまだまだ計り知れない世界がある。
「あの、あの時の答えを教えてもらえませんか?」
「え、何のこと?」
「研究所の人間が抱えている、弱点、だったかな。」
「ああ、怖れ、よ。」
「怖れ。」
「怖れだけが、自分自身を陥れる最大の敵なの。だから、明に暗に攻撃を仕掛けてくる人なんて、大した敵ではないのよ。」
そう言った杉浦歩のとなりで、いつか感じたのと同じ花の香りを感じた。彼女の香水か。まるで花が傍で密かに薫るような香水の纏い方だ。

無敵の杉浦歩はそれからしばらくすると、フランスの研究所の教授のポジションに就き、会社を退職した。
私はこの灰色の閉じられた研究所の中に居つづけている。けれども、閉鎖的な研究環境に染まらないように、社外勉強会出たり、学会に参加したりと、自分なりに研究の愉しみを探し続けている。杉浦歩は女性だったが、いつか自分もああいう人になりたいという人に会えただけでもこの研究所に来た甲斐はあったのだと思っている。

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