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介護保険物語 第1回

               収録日:2020年6月2日

「介護保険物語」あいさつ

■連載が始まります

藤田 今日は「介護保険物語」という連載を始めるにあたり、海よりも深く山よりも高い(笑)、介護への見識をお持ちの森藤部長においでいただいております。部長は平成8年に介護業界に入って以来約25年近くにわたりこの業界とともに歩んでこられました。その間この業界では「措置制度から介護保険制度へ」という大変革があり、その真っ只中でそこで起こったあらゆることを見つめ、また時には当事者ともなって激動の波を乗り越えてこられました。今回はその経験の一端でもお伺いできればと思います。
今日はよろしくお願いします。

森藤部長(以下敬称略) 海よりも、ということはありませんが(笑)、よろしくお願いします。

藤田 よろしくお願いします。
ところで今日は、事前に質問リストをお渡ししておりまして、それを踏まえて、戦後から2000(平成12)年に介護保険が始まるまでをお伺いしたいと思います。お話を始める前に、何らかの戦略というか、お考えはありますか?

森藤 戦略というのは大げさですし、とりあえず、行きあたりばったりで(笑)どうか、と。そこで、本題に入る前に一つご了承いただきたいことがあります。私がここでお話しすることは、その内容について学術的裏付けがあったり、関係するいろんな方々の賛同をいただいていたり、また、その内容の真偽を私自身で裏付けたりしたものではなく、それこそ行き当たりばったりで思いつくままに語らせていただくということで、よろしくお願いします。

藤田 いいですねえ。わたしはもう、行きあたりばったりばっかりで(笑)。大賛成です。

■措置制度の限界---「社会的入院」

藤田 じゃあまず行き当たりで(笑)、介護保険が始まる前の時代、いわゆる「措置時代」の特別養護老人ホームの始まりの背景のようなことをお伺いしたいのですが、どうもその時代のイメージができないんですが、それはどんな時代だったんですか?

措置制度

森藤 そうですね。まあ遡ればどこまで?ということになりますが(笑)、私が子供の頃に住んでいた田舎の町に養老院というのがあったんですよ。それは何かといいますと、行き場のない老人、お金もないし、身よりもないし、ほっといたら野垂れ死にする、また生活保護でお金を渡してもなかなか自立して生きていけない老人、そういった老人たちを集めて生活をさせていたんですね。そういった人たちは必ずしも身体が不自由で今でいう介護が必要だというわけではないんですね。

藤田 ほうほうほう。それは戦後ですか?

森藤 戦後ですよ。戦後すぐぐらいの頃ですよ。ただ、仕組み自体はもっと前からあったようですよ。それこそ聖徳太子の頃からそれらしいものはあったようです。たとえば、どっかのお寺がそういう人たちに施しをしながらお寺で面倒みていたとかね(笑)。

藤田 なるほど(笑)。

森藤 だけど、そういう養老院では、入居している人が歳をとってきて身体が動かなくなってきた、というようなことになっても、そのホームの職員が専門で介護するというような仕組みはなかったんですよ。

それではやがては困ったことになるということで、その養老院を発展的に制度的に整備して、元の養老院の機能を引き継いだ養護老人ホームと養護老人ホームに入る人たちよりももう少し自立の可能な人たちが入る軽費老人ホームと言われるもの、それに身体介護に特化した特別養護老人ホーム(以後、「特養」という。)が出来たのです。

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「養老院」を歴史的にみれば養老院は1929年(昭和4年)の救護法制定により、救護施設として制度化され、1950年(昭和25年)の生活保護方制定により、養護施設として位置づけられました。

その後1961年(昭和36年)に制定された老人福祉法により老人ホームと改称され、「養護老人ホーム」・「特別養護老人ホーム」・「軽費老人ホーム」という名称に分かれております

養護老人ホームなど

藤田 介護人を付けて?

森藤 そうです。介護を専門に行う職員が配置された老人ホーム特養です。当然、それまでの養老院とは施設の作りからして規模も大きくなるし、職員の数も比べることもできないほど大規模になってきたんです。

こういう施設を造るとなると、国や自治体もしっかり予算をつけて、しっかり体制を構築して取り組まないととても運営していくことはできない。そんなレベルの施設ができたんですね。

つまり、老人福祉が新たな段階に入ってきた、と言えるんじゃないかな。

これは余談ですが、地方の自治体の中には特養と養護老人ホームの両方の施設を抱えるのは経済的に大変なので特養を養護老人ホームに代用し、身体的には元気な人たちも結構たくさん入居させていたんですよ。だからこういった人たちが介護保険導入後、要介護から外れて特養に居られなくなるのでは?と話題になったりもしました。

藤田 はあー。なるほどー。

森藤 まあ、介護保険が始まる前の状況というのは、そんな感じで、介護そのものをメインに捉えた専門の施設というのはまだ歴史としては浅かったんですね。

でもまあ、この質問リストに則っていきますと、まず第1問ですが、自立支援という考えとかがあって、それらを引き継いで、介護保険につながっているという主旨の質問になっているんですけれども、実は、これを言うと元も子もないんでしょうけど、そういうことはね、まあ言ってみれば、だいたいが方便なんですよ。

藤田 ほうほう。方便?

森藤 要するに、その時その時で施策が出てくるのは、それまでの施策が行き詰まって、このままやってたらちょっとうまくいかなくなるとか、あるいはいろんなとこから何か要望が出てきて、とかで、だったら新しい施策を付け加えていく、と。そうしてやって出てきたのが、結局は介護保険なわけで、その時はそれまでの措置時代のやり方が限界に来ていた、ということなんですよ。

で、そんな中で一番大きな限界というのは、「社会的入院」ということではなかったでしょうか。

藤田 ふんふん。なるほど、社会的入院!

社会的入院

森藤 人間誰しも歳取ってくると、何か病気しますよね?それでそのとき入院させて、そのままずるずる、病気が治癒して退院させようとしても家族がもう看られないとか、そういうことがどんどんどんどん増えてきて。

その頃もちろん先程出た特養はあったんですが、当時の特養は誰でも入れるなんてものではなくて、元々は弱者救済から来ているので、困窮者とか行き場のない人をお世話してたっていう背景があるんです。

藤田 特養が始まったのは、資料によると、昭和38(1963)年ということになってますね。

森藤 そう。だから特養には誰でも入れるというわけにはいかない。入れるのは低所得者に限られていた。一方、歳を取ってなんらかの世話が必要になるのは、なにも低所得者だけではなくて、平均的な所得の人やお金持ちだってそうなる。なのにそういう人たちはなかなか特養には入れない。というよりも入りたがらなかった。特養というところはお金のない困窮者がいく姥捨て山のようなところ、というのが世間の認識でしたからね。だったらどうするか?もう治療するところはないのに退院せずに入院を続ける、ということになって、それが「社会的入院」ということで社会問題になった。

■戦後高度成長期と家族制度の崩壊

藤田 はあはあ。なるほど。
ちょっと待って下さいよ。これまでのお話とちょっとずれるかもしれませんが(笑)。
わたしの調べによりますと(笑)、1973(昭和48)年、「老人医療費支給制度」というのができて、70歳以上の高齢者医療費が無料になりますよね?それが1983(昭和58)年に廃止されるまで、10年間、老人の医療費が無料だった時代がありました。この時代はつまり、高齢者の世話は社会で看ようや、という意識があったんですよね?

老人医療制度など

森藤 確かにそのような意識があったと言えなくもないですけど、この制度ができる背景には相当悲惨な寝たきり老人の問題があり、これをなんとかしなければならないという非常に切羽詰まった事情があったんです。

ただ、この問題をそこまで掘り下げてお話しすると非常に複雑になりますので、ここでは、家族制度の崩壊ということに焦点をあてて流れを見ていきたいと思います。

そもそもですね、「介護」というのはもう、歴史上ずーっと行われていたわけです。じゃあその介護を誰がやってたか?といえば家族がやってた。それが当たり前だったわけですね。そのため家族の中で行われる介護の様子というものはほとんど表にでてくることはなかったのです。そういうふうに介護は人目につかない形で家族内で処理?されていた。それが綿々と続いてきてたわけです。

藤田 そうなんですか?

森藤 ところが近代になってその家族制度がだんだん崩れてき始めた。この家族制度が崩れるっていうのはね、文明がというか社会がというか(笑)、それが発展してきて、それまではみんな家族と一緒に生活していたものが、子どもたちがだんだん外を見るようになった。

藤田 それはあれですか?戦後の高度成長期というか、その頃のこと?
(日本の高度成長期とは、1954(昭和29)年12月から1970(昭和45)年7月までの約16年間である)

高度経済成長期

森藤 そうですそうです。で、外を見るようになる。見るだけじゃなくて、外に出かけて行ってそこに生活の基盤をつくるようになる。家から離れても生活ができるような社会になっていって、家族に頼らなくても、自分たちで生活できるじゃないか、ということになっていく。

そもそも家を継ぐことになっていた長男ですらも家族から離れていくわけです。物理的に離れていくわけだから、そりゃ面倒看られないよね。それが家族制度が崩れるっていうことなんでね。
で、離れた当初はまだ両親を看なくちゃという意識はないわけです。まだ両親は元気だから(笑)。

藤田 なるほど。だけどそれからしばらくして、20年もすると、親も元気がなくなってきて、面倒看なくちゃという意識が出る、それが1990年ぐらいからで、でも物理的に離れちゃってるから、面倒看ようにも看られない、と。

森藤 そう。そういう家族制度の崩壊による、面倒看ようにも看られないという社会的状況変化の兆しと、先に述べた社会的入院というのがほぼ同時に起きてきたわけですね。だから国民の側からいうと、もう家族では親を看られないので、「これからは国が面倒を看てくれる」ということになると、少しは安心するわけですね。ならお金を出してもいいか、とこうなる(笑)。

藤田 はあー。なるほど。面白いですね(笑)。面白いって言っちゃ、怒られる(笑)。でも面白い(笑)。

■「介護保険」の導入

森藤 当時、措置制度の時代は、(まあ元は国民の税金なんだけど)お金を出すのは国だったんだよね。でも、そうして国からお金を出してたんでは、もう間に合わなくなってきた。そうして出てきたのが、国民に直接お金を出させようという介護保険という仕組みなんですよ。

国民福祉税構想

藤田 なるほど。あ、こういう資料がありますよ。当時の高齢者介護対策本部の事務局長をしていた人の話なんですが「1994(平成6)年、細川首相が打ち出した「国民福祉税構想(税率7%)」が頓挫したとき、社会保険方式しかないと思った」という。

森藤 まあその人がそう思ったんならそれでいいんだけど(笑)。

でもね。そうして国民に(保険という形であっても)お金を出してくださいと言っても、誰も快くは引き受けませんよね?

藤田 そりゃそうですねえ(笑)。

森藤 でもどうしてももう国はお金を出せない。だったらなんとかして国民にお金を出してほしい。とすればその前に、国民に、お金を出してもいいかな、という認識をもってもらわないといけない。どうすればいいか?そういうときに世界を見渡してみて、そこにあったのが「介護保険」という仕組みだったんですね。それならそれを持ってこよう、と。

藤田 はあああ。ということはその時点でもう、世界には介護保険という仕組みがあった?

森藤 あったんです。

ドイツの介護保険

日本では、それを名付けて「介護保険」という名前にした、ということです。まあ、実際はこんな単純な話しではないでしょうけどね。

■障害者福祉の先見性

藤田 でもその前、介護保険が始まるまでは、「老人福祉法」(1963(昭和38)年公布)は「高齢者福祉対策」を、「老人保健法」(1982(昭和57)年公布)は「老人保健医療対策」を、それにもうひとつ「心身障害者対策基本法」(1970(昭和45)年公布)というのがあって、それが「障害者対策」を、という感じでそれぞれがそれぞれを担っていた、と。

言ってみれば、この3つ、ボーンボーンボーンって、福祉の3本立てって感じがするんですが(いわゆる福祉三法は、①児童福祉法②身体障害者福祉法③母子及び父子並びに寡婦福祉法、です)、中でも、1970(S45)年制定の「心身障害者対策基本法」がその第六条で「障害者は、その有する能力を活用することにより、進んで社会経済活動に参加するように努めなければならない」と言ってて、この「有する能力を活用する」っていうのが、無茶苦茶現代っぽいっていうか、今の「自立支援」という考え方にすごく沿っているような気がしてるんですね。そこから今の「自立」の考えが出てくるんじゃないか、と。

で、一番最初の質問に戻るんですが(笑)、つまり福祉の3本立ての中で障害者福祉が一番進んでたっていうか、そんな感じがするんですが、森藤部長はいかが思われます?

森藤 う~ん。たぶんね、老人福祉の方は、伝統的に家族が看ていたということがあって、それって言ってみれば、当たり前と言うか、年取ってくるんだから看なきゃいけないでしょう。だから老人の方は家族でよろしくということでしょう。

一方障害者っていうと、生まれつき障害を持って生まれた人もいるし、若くして障害を負った人もいて、そこから延々と人生が続くわけですね。それからずーっと一生その障害を背負って生きなきゃいけない。だとすればね、日本も文明国家だと言うのなら、そこはちゃんと国が面倒を看なきゃいけないというか、そこにスポットを当てて対策を考えなきゃいけない。そういうことになったのではないでしょうかねえ。

藤田 ということはあれですかねえ、障害者の場合は、家族が看るというクッションがなかった。だから初めからそこに国が介入する必要があった、ということですかねえ?

森藤 うーん。というか、障害者でも家族が看るというクッションはあったんだとは思うんですよ。でもそれをそのまま家族に丸投げで国は何もしなくていい、というスタンスが取れなくなってきたということではないでしょうか。

藤田 はあー、なるほど。

森藤 国は国で発展していくじゃないですか?繁栄して発展していく。でも障害者はそのままそこにいる。すると、欧米諸国から見たときに、あっちの国はその辺進んでいますからね、なんだ、高度成長とか、先進国、経済大国とかなんとか言ってるけど、障害者はこのままなの?って。なんだって思われるでしょ?それじゃいかんと。

藤田 なるほどねえ。
それで障害者の福祉理論が老人の福祉理論なんかに比べて先行していった、と。そういうわけですね?

森藤 それと、ちょっとシビアな言い方かもしれないけど、老人は先が短いのよ。今更自立もないでしょ、と。でも障害者の方は親の方が先に亡くなっていく、と。やっぱりそのへんのニュアンスが違うんじゃないかな。老人と障害者では。

藤田 う~ん。なるほど。そのへんの感じ、ようやくなんとなくわかりました。

■介護保険前夜---措置時代の豊穣

藤田 とにかく特養が(1963年に)出来てから介護保険が始まる(2000年)まで、37年間もいわゆる「措置時代」が続いたわけですね。

最初にも言いましたが、わたしはその頃のことをあまり(というかほとんど)知りません。
最後にその措置時代の特養についていえば、どのような時代だったのでしょうか?

森藤 措置制度の時代の特養というのは、①入居者は施設を選べない、②施設に空きができたら行政が入居者を連れてきてくれるので施設側は入居者を探す努力をしなくていい、③施設は各自治体の予算(措置費)で賄われているので仮に経営的に赤字になってもそれで倒産してしまうというような心配をしなくてもいい、④施設側は行政の指導に沿った、法で決められたサービスをやっていればとりあえず良しとされる、などなど、これはもう、行政におんぶにだっこ状態ということですね。それに、施設の中の様子はなかなか外部に明らかにされにくいのでちょっとしたブラックボックス状態になっている、といったところもありました。

藤田 いやあ(笑)。そう聞くと、今の介護保険下の施設とはかなり状況が違ってたんですね(笑)。

森藤 でもね、実はこの時代には介護に対する意識レベルが結構高い介護職員も多かったんですよ。

藤田 え?ほんとですか?

森藤 措置制度時代の介護職員って、女性がほとんどで、男性はほとんどいなかったんですよ。なにしろ介護職員のことを寮母といっていたぐらいですから。

わたしが以前いたある施設には、広島県で初めて男性介護職員になったという人がいました。そのように聞いたように記憶していますが。間違っていたらすみません(笑)。

とにかくそれが納得できるくらい、その頃はもう、施設で働く介護職員はほとんど全員が女性でした。しかも結婚前の女性が多かった。結婚すると夜勤などのシフト勤務に入るのはなかなか難しくてだいたい退職するのが普通でしたので。

藤田 ええー!本当ですか?すごいですねえ(笑)。

森藤 どういう意味ですか(笑)。
ともかく、この時代の介護職員にはプロフェッショナルな意識の高い人も多かった。「誇り」をもって仕事をしていましたよ。

例えば、その施設の介護職員達には、お年寄りの身体に触れて介護を行ういわゆる直接処遇については介護職や看護職、生活指導員(今は職名が生活相談員に変わっていますが)などの直接処遇職員以外の職員(例えば事務職など)には絶対手を出させない、という不文律がありました。事務員などが誘導でお年寄りの手など引こうものなら、すぐに介護職員が飛んできて、「あぶないです。私が代わります」と言われたものです。

彼らには「自分たちのやっている介護は素人介護とは違うんです」というプライドがあったんです。

藤田 へえー。そうなんですか?それは意外ですねえ。想像ではその時代は、チューインガム噛みながら仕事するような、いい加減な介護職員ばかりだと思ってました(笑)。(失礼!)

森藤 まあ、世間的にはそういう人達がいたことも否定はしませんがね(笑)。

でも当時の介護職員の名誉のために、もうひとつ介護職員の気概についてお話ししましょう。

当時は特養の入居者を連れて温泉一泊旅行というのをやっていました。年に一度くらいですがね。じつはこれがものすごく大変なんです(笑)。

まあ想像してみてください。今でいう要介護4だの5だのの入居者、さすがにまあ寝たきりのような方は行きませんでしたがね、それでも車椅子生活者や認知症の方など20名くらいを連れて温泉宿に一泊するんですよ。

身体に障害のあるお年寄りを設備が不十分な温泉に入れたり、夜の宴会のときなんか介助などに忙しくて職員は自分が食べる時間なんてありません。夜は寝ずの番で職員はほとんど睡眠などとれない状態でした。

そういう大変な一泊旅行ですが、また次の年のその時期になったら「今年もやります」と熱い思いをたぎらせている介護職員が多くいました。今特養でこのような行事を行っている施設はほとんどないんではないでしょうかね。どこか知ってます?

藤田 それは驚きですねえ。いやああ(しきりに頭を振る(笑))

森藤 ですから一概に措置時代の介護はチューインガムレベルとは言えないですねえ(笑)。今、制度は整い、施設・設備は立派になりました。次は魂を入れないとね。

藤田 はああ。ほんとそうですねえ。面白いお話です。

たぶんその頃と今とでは、利用者の数、施設の数がぜんぜん違うんじゃないでしょうか。だから当然介護職員の数も違う。介護の質も異なる、ということかもしれません。詳しい数字を出してみたいですねえ。

■次回予告---そもそも「介護」ってなに?

藤田 さて。今日のお話はここまでということです。
長時間、ありがとうございました。

森藤 こちらこそ、ありがとうございました。

藤田 次回はついに介護保険が始まるお話、といきたいところですが、どうしましょう?

森藤 そうですねえ。その前に「なぜ介護職なのか?」といったテーマでお話するっていうのはどうでしょう?

藤田 おお!いいですねえ!制度の前に、「介護」そのものを問う!カッコいいですね(笑)。
じゃあ次回はそれでいきましょう。また質問を考えておきますね。
今日は長い時間、お話を聞かせていただきまして、本当にありがとうございました。
とても楽しかったです。また次回もよろしくお願いします。

森藤 こちらこそ。よろしくお願いします。

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