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介護保険物語 第2回

                      収録日:2020年7月1日

■今回は「介護」について

藤田 さて今日はご好評いただいております連載企画「介護保険物語」の第2回です。今日もわたしたちの山であり海である森藤部長にお話をうかがいたいと思います。よろしくお願いします。

森藤部長(以下敬称略) 今日も、海のものとも山のものともつかない取り留めのない、独断と偏見に満ちた思いつき話しになる予感がしますが、よろしくお願いします。

藤田 今日は「介護とは?」というテーマでお話を伺いたいと思います。前回の終わりで次回は「介護とは?」というテーマでいこうと決まってから、実はわたし、ずっとワクワクしておりまして(笑)。「介護」大好きなもので(笑)。今日はどんなお話が伺えるかなあって、とても楽しみにしております。と言いましても、このままじゃ漠然としすぎてて(笑)、どこからお話を伺えばいいかわからないのですが、どうしましょう?

■介護が必要な人を3つに分けてみた

森藤 そうですねえ。「介護」についてお話する前に、まずしっかり押さえておきたいことがあるのですが。

藤田 はい。

森藤 「介護」を考えるとき、とかく「介護」を行う側から考えがちになるのですが、本当は「介護」を受ける側の人の状態をしっかり考えなきゃいけないと思うんですね。そこで、ちょっと乱暴だけど、介護を受ける人を便宜上、次の3つのグループに分けてみたんですよ。

①身体機能だけに問題がある人。
②身体機能にはさほど問題はないが、いわゆる認知症の人。
③体力面・精神面が著しく衰えている人。(たぶんこのグループが一番多い)

で、この3つのカテゴリー (実際にはこれに医療的要素が絡んで、複雑になってるんだけど) に分けて言うと、いわゆる「介護」を考えるときに、その対象者として一番分かり易い、イメージし易いのが、①と②の人なんですよ。そう、「介護」というのは身体が不自由な人の手助けをするんだとね。また、認知症については最近いろいろ話題にもなっているし何となくイメージも沸くでしょう。

藤田 あああ、イメージしやすいんですね?

森藤 そうです。例えばテレビドラマで介護施設が出てくるとしますね。でもその番組に出てる入所者さんたちは、本当にこういう施設に入っている人とだいぶ雰囲気が違うでしょ?

藤田 そりゃそうですよね。ずいぶん元気だ(笑)。

森藤 そう(笑)。表情がやっぱり違いますよね。今にも死にそうな人を出すわけにはいかない。これはやっぱり介護と言えば身体が不自由な人の世話をする、というイメージですね。

だけど視聴者はそういうドラマを観て、介護ってそういうもんだ、みたいなイメージをもつわけでしょ?そしてそういうイメージを前提にして、介護職に就く人もいるかもしれません。

でもそうして特養とかの施設に入って働くとき、①や②の人よりも、③の人が一番多いわけでしょ?③の人に直面したら、それに合わせて「介護」しなきゃいけない。そうすると相手の方がどういう状態の方でどういう「介護」を必要としているのかを十分理解していないと正しい「介護」はできない。これはなかなか難しいことなんですよね。

藤田 ははあ。そうでしょうねえ。

森藤 つまり、①や②の人や要支援とか要介護1とか2とかという人に対する「介護」はね、たぶん素人でも何とかそれなりにやっていけるんではないでしょうかね。

藤田 ほうほう。

森藤 だからそこに「困難さ」っていうのはないと思うんです。言ってみればこの状態の人は、ここの部分だけ助けてくれれば、あとは自分で楽しんでできるよ、という面があるので、ある意味ビジネスライクに「介護」できるんじゃないか、と。それはそれで「介護」のひとつの段階ではあるわけです。ですが、いつまでもそういう状態のままではいられない。
そうではなくなったとき、介護する職員としては、「介護」のレベルを上げていかなきゃいけない。

藤田 はああ。要介護3以上の人や、ここで言う③の人なんかでは介護のレベルを上げていかなきゃいけない、と。必要となる介護のレベルが違うんですね。でも施設に入ってくる職員さんたち、最初は①や②の人を想定して介護を考えているわけですね。それじゃあおっつかない。じゃあ森藤部長としては、介護でレベルを上げるっていうのは、どうすれば上がるとお考えなんでしょう?そもそもレベルの上がった介護ってどんなんですか?

■作業としての「介護」ではなく

森藤 わたしの基本的な考えを言うとね、③の人たちはね、障害のあるところを補ってもらう、ということだけではなくて、人生の終盤に差し掛かっているわけですよ。そうして身体機能、精神機能が失われて、やがて亡くなっていくという方向に向かっているので、そういう状態で、自立したり、自分でなにかをする、ということが本当に必要なのか?求められているのか?ということなんですよ。

藤田 なるほど。なるほど。(大いに頭を上下に振っている)

森藤 そうやって、能力が徐々に失われている人に、どう「寄り添う」か?というところを見つめていかないと、なんのために「介護」をしてるんだろうか?ということになるわけです。「介護」を単に作業と受け取ると、こういう場合はこう、とかいろいろやり方はあるけれども、お年寄りが求めているのはね、そういう作業としての「介護」じゃないだろう、と思うわけです。

藤田 それはわたしもそう思います。でも作業ではない「介護」というと、どういう介護なんですか?

森藤 施設や病院で最後を迎えようとしているお年寄りの多くは実は「人生の終わりを自宅で迎えたい」と思っている、とよく言われますよね?じゃあ、どうして自宅で亡くなりたいんだろう?自宅の何がいいのだろう?と考えるとしましょう。施設にはないけど自宅にはあるもの、病院にはないけど自宅にはあるものってなんだろう?

それはね、まずひとつには、長年慣れ親しんで暮らしていたところなのだから、自宅には色んな思い出があるわけです。住んでた記憶がある。もうひとつは、それに加えて、自分を暖かく見守ってくれて世話をしてくれる家族がいるわけですよね。家族に世話をしてもらえるっていう安心感というか。少なくとも本人はそう期待している。その2つが、たぶん、自宅で最後を迎えたいと思う人が望むもの、求めるものではないでしょうか。

藤田 ふんふん、なるほど、そうですね。

森藤 で、その一番目(自宅にまつわる思い出)っていうのは、まあ病院とか施設では作りにくいわけだけど、二番目の、自分を暖かく見守ってくれて世話をしてくれる、安心だ、という思い、それは施設や病院でももってもらうことができるんじゃなかろうか、と。

こういう話になると、人間の内面の世界に目を向けていくことになるんですが、そういう観点を施設の職員がどの程度理解し認識してサービスにあたっているのか、ということが問われてくるんではなかろうかと思います。
つまり、お年寄りが自身でできないところを補うという外的な介護に留まるのではなく、もう少し内面に目を向けたとき「寄り添う」というところをどのくらい認識しているかというところにまで踏み込んでいくことになるということです。

藤田 なるほどー。そう考えるとわかりやすいですね。

森藤 誰しもいつかはどこかで、そういう状態(③の状態)になり得るわけで、もしそうなったとき、そこのところでどう対応するかということを介護職員はしっかりもってないと「人生の終わりを自宅で迎えたい」というお年寄りの願いに応えることはできないということです。

そういう状態になると、もう、今度は「死」に向かっているわけで、そうなると「どう過ごしてもらうか」、亡くなるまでにいったいなにをして差し上げることができるんだろうか?ということを考えなきゃいけないわけです。

そういうことを思いつつでも形としての介護、作業としての介護も必要なわけですよ。

藤田 はあはあ。食事介助とか排泄介助とかですね。

森藤 そう。そういうことは決まってくる。じゃあそれだけやっていればいいのか?って言うとそうではなくて、その人に本当にやってあげなきゃいけないことがあるんだよ、ということです。施設が自宅であるかのように、家族のように「寄り添う」介護、これも「介護」だし、お年寄りは実はそういう「介護」こそを求めているんじゃないか、ということですよ。

■「寄り添う」ためには

藤田 はあああ。なるほどー。森藤部長のおっしゃる「寄り添う」介護ってすばらしいと思います。でもその「寄り添う」っていうところをもう少し詳しくうかがいたいのですが?


森藤 例えばですよ、排泄介助で、今まではお一人で行ってらした人が、今度は職員が中に入ってお手伝いをすることが必要になったときですよ、今まで介護をしていた職員に、一緒に入っていいよ、と言ってくださるかどうか。

そもそも、トイレとかお風呂とかいう場面は、通常絶対人には見せたくたい場面ですよね?なのにそこに「介護」する人が踏み込むということは、「介護」のステージが一段上がってるっていうことなんですね。で、そうなったときに問われるのが、双方の信頼関係なわけです。そういう信頼関係が築けていれば、トイレの中に入って介護されても大丈夫ということになるんですが、そうでなければ、いやじゃあ(笑)、ということになりかねない。

藤田 ありますねえ、それ(笑)。いや、多々あります(笑)。

森藤 だから「介護」する人っていうのは、ある意味、「介護」をされる人にとって、「特別な人」になっていないといけないんですね。困るんですね。本当は誰でも彼でもいいわけではないんですよ。ただ、我慢しているか諦めているだけなんです。
だから介護士としてはそういう「特別な人」になれるだけの「人間力」をもってないといけないんです。

藤田 はああ。それはなんなんでしょうね?そういう「信頼関係」って、どうやって得られるんでしょうか?

森藤 それが味噌でして(笑)。でもね、それは単純なんです。

藤田 ほう?

森藤 それはね、「やさしくする」ことなんです。

その人が、まあふつうに生きてきて、そういう中で誰かにやさしくされたり、まあ、時には厳しくされたりして生きてきたわけですが、その人がね、それまで味わったことがないぐらい、出会ったことがないぐらいに、「やさしくする」ことなんですね。これまでこんなにやさしくされたことがない!っていうぐらい「やさしくする」。

藤田 はああ!驚くくらい「やさしくする」!

森藤 この人がいてくれたら、ホントにもう安心、やさしくしてくれる、受け入れてくれる。そういったことをまあ「やさしさ」という言葉に集約しているわけですが、そうした「やさしさ」を、それまでどのくらい与えてきたのか?ということなんです。

思い出してください。サンシャインのパンフレットにありますよね(笑)。
「サンシャインは優しさと出逢う場所」

まさしくあれなんですよ。

藤田 はああ。そういやありますねえ(笑)。でもそうですよねえ。自分がホントに困っているとき誰かにやさしくされたら、ホントに嬉しいっていうか、その人のこと、好きになっちゃいますよねえ(笑)。

森藤 そうそう。人に受け入れてもらうには、そんな「やさしさ」を武器にして人間関係を築いていけばいいんです。そうすれば、その人が、やがておむつ交換してもらわにゃいけん、ってなったときに、誰に頼む?って尋ねたとき、あの人、と言われるようになるんですよね。それが、あいつはいやだ、っていうのが来てね、じゃあおむつ交換しますよってなったらね、そりゃ暴れたくもなるんですよ(笑)。

もう少し言えばね、サンシャインには施設内あちこちに「理念」が掲げられてるでしょ?

藤田 あああ。ありますね。

「理念」
私たちは高齢者の尊厳を守ります
私たちは心のこもった介護に徹します
私たちは地域社会への福祉向上に貢献します

ってやつですね。

森藤 そう。これを実行すればいいんです(笑)。
なにをすればいいのか、ちゃんと書いてあるんです。

■「やさしく」なるためには

藤田 ホントだ。ちゃんと書いてありますね(笑)。
でもでもでも(笑)。そういう「圧倒的なやさしさ」っていうかそれって、どうすればそんなにやさしくなれるんですか?

森藤 それはね。ちょっと現実離れしたこと言うけど(笑)。個人だけにそういう「やさしさ」を求めちゃいけないんですよ。

藤田 ほうほうほう!

森藤 そうじゃなくて、施設全体が「やさしく」ならならないとダメなんですよ。

藤田 はははー!それは面白い視点だなあ!

森藤 だいたい、介護職員個人を見れば、ピンからキリまであるかもしれないが、メンタルな部分にも十分気を配りながら介護をしている人はたくさんいると思いますよ。ただ、それは、あくまでも個人の人間性に頼っている部分であって、施設としてこうしようというはっきりした方針や指導があってのことではないので、どこか孤軍奮闘している感が否めません。そのうち疲れてしまって自分だけが頑張ってもしょうがないや、などと諦めの境地にたどり着くのが関の山なんてことになるかもしれません。
いくら個人がやさしくてもね、その上の人がそうじゃなかったら、そりゃ壊れちゃいますよ。自分がやさしくできる源は、実は施設からきてる、と。

藤田 うひゃー!カッコいいですねえ(笑)。

森藤 それはまあ現実離れしてるけど(笑)、でもね?やっぱりそういうリーダーとかいれば、そうなると思うんですよ。人が人にやさしくできるのは、自分が「愛されてる」からですよ。そうじゃなくて「愛」を自家発電してたら大変ですよ(笑)。愛されたら「愛そうかな」っていうこころのゆとりもできるわけですから。だから個人に「やさしさ」を求めるんじゃなくて、施設として「やさしく」ある、という。

藤田 いいですねえ。それ、いいですよ!最高にいい!

森藤 でもね、それって難しいよね。

藤田 施設全体が「やさしい」っていう?

森藤 そんな施設どこにある?てなもんで(笑)。
そこで、もうちょっと別な角度からアプローチしてみると、こういう別の方法もあって、それはね、こういう所で働く人は「いい人」でなきゃいけない、と。

藤田 はあ。いい人?まあ、悪人じゃいけないでしょうねえ(笑)。

森藤 そう。だから、お年寄りに「いい人」と思われるように、役者をやってください、と。家に帰ったらひどい人でもいいから(笑)、ここへ来たら「いい人」を演じてください、と。で、それをちょっと延長して、同じ職員にも「いい人」を演じてください、と。そういう感じで、ここで「いい人」を演じてたら、1日8時間「いい人」をやってたら(笑)、ホントに「いい人」になるんですよ(笑)。

藤田 それも面白いなあ(笑)。その前の、施設として「やさしい」っていうのはいいですねえ。すごくいいです。ものすごくいい(笑)。

ここで今までのお話の流れをまとめると、介護される人を3つに分けて、①②の人に対する介護はビジネスライクに進めることができるけど、一番多い③の人に対する介護は①②の人に対するような「作業」としての介護じゃだめで、介護としては一段上のレベルと言える「寄り添う」介護こそが必要なんだ、と。

じゃあ「寄り添う」ためにはどうしたらいいのか?っていうと、「信頼関係」を築いてなきゃだめなんだと。じゃあ「信頼関係」を築くにはどうすればいいかというと、実は単純で、「やさしく」すればいいんだと。しかしそのやさしさはふつうのやさしさじゃなくて、これまでこんなにやさしくされたことないよって程の驚くべきやさしさ(笑)でなきゃだめよ、と。

で、その「やさしさ」をもつためには、それを介護する個人に求めちゃだめで、施設全体がやさしくあれ、という、実に素晴らしいお話でした(笑)。お年寄りに対する、特に施設に入っておられるお年寄りの介護に関する、実に並々ならぬご意見だなあ、と感じます。

でも介護保険は「目標」をもってケアする、という大きな建前(笑)があるのですが、この点を踏まえた介護のお話となると、どうなりましょう?

■ボーッとしていられる幸せ

森藤 介護状態が軽度の場合はそういう「目標」を目指して介護するっていうこともできますが、中度から重度になるとね、そういう目標を目指すっていうよりも、そういうことじゃなくて、ただ穏やかにこの一日を過ごしたいということが優先するんじゃないでしょうか。だからそういう環境を作ってあげる。そうした中で職員がいて、接触する、その接触するときに「やさしさ」を投げかけてあげてね、その人がそこにいるっていうことを、愛情をもって受け入れてます、という発信をするわけです。そうすることで、安心して一日を過ごすことができるようになるわけです。

藤田 なるほど。そういう状態の人は、もう目標なんかより、その日をできるだけ穏やかに過ごす、それで十分ということですね。

森藤 十分なんですね。

例えば施設の中でね、テーブルの前で、なにもしてなくて、傍目にはボーッとしてるって映る入所様がいるとしますよね?そういう光景って、なにか、サービスもされずほったらかしにされてるって見えるかもしれませんが、わたしはね、あれはあれでね、なにもせずにじっとしてられるっていうことが、幸せなんじゃないかな、とも思うわけです。テレビを見ても内容はわからないし、できることって限られておられる。そういう状態の中で、安心してじっとしていられること、それってある意味その方にとっては、その方のできることの中でも最上のことなのかもしれない、とも思うんですね。

藤田 なるほどー。そう言えばむかし、私の父が生きていた頃、なにもせずに横になってるのをみて、そんなんじゃいけんけえ、~しんさいとか、よく口うるさく言ったものです。そのたびに父が言ったのが「おまえもわしの歳になりゃわかるよ」って(笑)。よく言ってたなあ。今ではその父の言葉がなんとなくわかるような(笑)。

森藤 ぼーっとしている幸せっていう(笑)。

藤田 なるほど。でもですよ?そのボーッとしてる幸せと、ほったらかされてる不幸っていうの?(笑)、ひと目じゃ区別できませんよね?この人はどちらなのか?なにかわかる方法っていうか、見分け方っていうか、あるもんですか?

森藤 それはね、区別はつくんですよ。

藤田 え?つきますか?

森藤 あのね。その人がボーッとしてる。そばを職員がウロウロしてますよね?

藤田 ええ、ええ。

森藤 その時、そのボーッとている人がね、ちょっとね、何ていうか、ちょっと異常的な状態(例えばよだれがたれてきたとか)になったときに、もしその人がほったらかされてたら、それでどうにかなるわけじゃないし、おれは忙しいんだ、ってことで、職員は見て見ぬ振りして、なにもしませんよ。でもね、そういうことになったとき、職員がすぐに飛んできてね、ちょっとよだれを拭いて、じゃあねって声かけてまた仕事を続ける、そういう場合はちゃんと見てあげてるわけです。

藤田 なるほどー。職員の動きを見てれば、ボーッとしてる幸せなのか、ほったらかされてる不幸なのか、区別がつく、というわけですか。はあー、いいですねえ(笑)。

森藤 忙しく働いてても、ちょっと目が合ったら、はーい!とか、どう?とか、ちょっとした表情だけでもしてあげることもできるよね。目が合ってもそういうことなんにもせずに、おれは忙しいんだ、って行っちゃうか。その違いですよね。

そのまま行っちゃうような人は、ある人のところへ行って、こういうことをしてあげる、そういうレベルでしか「介護」を見てないわけですよ。いわゆる介護の作業の部分しか見てない。そういう人は気づかない。目が合ったときに、ちょっとなにか対応してあげる、笑顔を向けてあげる、そうしたことの重要さ。そういうことを「介護」として見てないんですね。

藤田 ふんふん。そうですね。

森藤 だから「介護」というものは奥が深いんですよ。

「介護」、最初はきっと、いわゆる身体介護から入るでしょう。それは、基本的には誰でもできるようになるんですよ。でも、こういう施設で働いて「介護」を標榜するためには、それだけで足りないんですよ。その上になにかが乗っかってないといけない。そのことがすごく重要で、その部分は介護職員が自分で築いていかなければいけない。
そもそも、お年寄りが施設にいるのは何のためなのか、はい、身体が不自由なので介護を受けるためにいるのです。そう、正解です。が、いくら身体が不自由だといっても、お年寄りもこの施設でこれから何年もひょっとしたら20年も30年も生きて生活していくのかもしれませんよ。その間の楽しみはご自分で見つけるか、ご家族でどうぞ、というわけにはいかないでしょう。

そういうところに思いが至る人は、どんどんレベルアップしていけるし、その部分がない人は、どこまでいっても作業としての介護しかできないんではないでしょうか。

藤田 なるほど。いいなあ。

■介護保険でどこまでやるの?

森藤 でもね、ひとつ問題があって(笑)。介護保険のもとでわたしたちは働いているわけですが、介護保険というものの中で、そこまで考えて「介護」をやるの?という問題が(笑)。そこまでやらなくていいんじゃないの、介護の作業だけしっかりやって、そうする中でお年寄りが生きていけばいいんじゃないの?という(笑)。お年寄りの幸せだとか、そういう内面のことまで考えなくてもいいんじゃないか、ということもひとつあると思うんですね。

藤田 はあはあ。さきほどのお話では、介護というスキルがあって、その上に、お年寄りのそういう内面をも思いやるきもちがあって、それで初めて「寄り添う」介護ができるんじゃないのか、ということでしたが、介護保険にそこまで求めるの?ということですね?

森藤 介護のスキルの上に乗っかった部分は余分なことなんだよね。介護がきっちりしっかりなされていれば、その上でそのお年寄りが「でもさみしいよ」と思ったとしても、それは介護業界として責任をもつところじゃないだろう、もつ必要はないだろう、とも考えられるんですよ。そうした精神論をもちこんでも、精神論ってあやふやなもんだから、業界としてはそこは責任もてませんと、なると思うんですよ。

ここが難しいところでね(笑)。

例えばお年寄りが介護される中で、プライベートな部分を見られる、それが恥ずかしい、と思おうが思わなかろうが、それはどっちでもいいことでね、介護する立場としてはおむつをしっかり替えてきれいになりました、それでいいんじゃないか、という考えが出てくるんですよね。

藤田 でもそれって、今まで話してくださったこととまるで逆じゃないですか!?

森藤 そう(笑)。だから、通常ね、こういう考えになっちゃうだろうってことですよ。

藤田 はああ。通常は、ですか。つまり通常は、まるで工業製品のようにお年寄りを扱うようになっちゃう、と?

森藤 そうです。でもそれじゃあだめなんで、だから、どうやってそうならないようにするのかっていうのが、難しいところなんですよ。どこかでそうならないようにしないと、介護職は介護職のプライドなんてもてなくて、いつまで経っても、看護師の助手という立場に甘んじるほかなくなるんですよ。

介護職のその重要な部分、寄り添って介護していくっていう部分、そういう介護職以外何びとも立ち入れないようなプロフェッショナルな領域があることに気づいてそこを築かないといけないんですね。

藤田 なるほど。そこのところを、介護職の安い給料で、求めるの?ということもあるんだけど、でもそこをしっかりやらないと、介護の誇りなんてもてないよ、ということですね。

森藤 そうです。そこのところがぜひとも必要なんです。それはなぜか?というと、家庭の中だったら、介護が必要になって、家族から必要な介護をしてもらって、そうして最後まで生きた心地で死んでいく。ところが、介護が必要になって、それを家族からしてもらうんじゃなくて、介護職の人にしてもらうとなったら、その介護職の人が「そこのところ」をもたずに介護をするとしたら、そのお年寄りは、その時点で死んでいるのと同じになっちゃうんです。死んだ心地で死んでいく、ということでしょうか。

だから、国が、これからは介護保険でいきます、と言ったということは、「そこのところ」も介護保険でやりますよ、ということでもあるんですよ。でも誰もそこまで考えたりはしない。単なる制度だと思ってる。

藤田 あ、ひょっとしたらあれですか、森藤部長の言われる、そういう「そこのところ」をもった介護、「寄り添う」介護って、ひょっとしたら介護保険の外から生まれる?ってことないです?

森藤 そうねえ。介護保険から「そこのところ」は生まれにくい。そもそも国が制度を考えるとき、人間の内面のことにはなかなかタッチできませんからね。

藤田 介護保険は「そこのところ」を評価しないですものね。報酬にならない(笑)。やさしさ加算なんてないですものね(笑)。

森藤 ただね、看取り加算とかあるように、介護保険も「そこのところ」の一端に踏み込んではいるんですよ。お年寄りを最後までお世話しようということになると、どうしてもそういう精神的なところも対応していかないといけなくなるんですね。
介護保険制度が始まった頃、すごく強調されたことがあるんですよ。それは、措置制度では入居者は福祉のお世話になる人、施しを受ける人。なので、あれやこれや要望など言ってはいけませんよ、と。でも、介護保険になったら、入居者は急にお客様になったのです。これからは入居者が施設を選ぶ時代なのだ。いろいろ要望があってもいいのだ。それに施設は応えていかないと入居者を獲得できなくなって、経営が困難になるぞ、とね。
つまり、さきほどの「そこのところ」を大事に考えているお年寄りに選ばれる施設になるためには「そこのところ」もちゃんと提供できる施設、職員になっていなければならない、ということなのです。

藤田 でも国もお金がなくて(笑)、もう、あれやこれや市町村や地域に投げてますよね?だからそういうところから、森藤部長のおっしゃる「本当の介護」が生まれるんじゃないか?って期待しちゃいますけど(笑)。

森藤 どうかなー?(笑) どうでしょう?

藤田 わたしが面白いと思ってる人で、加藤忠相さんていう人がおられるんですけど、その人が言ってるのが、お年寄りを看るのは、家族・施設・地域でしょうってことで、でも家族?いないじゃない(笑)、施設?これもなにもしないじゃない(笑)、だったら「地域」でお年寄りを看ましょうって言っておられるんですね。こういう視点って面白いなって思ってます。

そういうところから、森藤部長のおっしゃる「寄り添った」介護が生まれるんじゃないか?産声上げるんじゃない?そう思ったりしてます。

森藤 今回は「介護」についてあれこれと話させていただきましたが、ポイントは、「介護する」側の視点だけじゃなくて、「介護される」側の状態を十分に理解した視点で介護ってなに?ということを考えなきゃ、いい「介護」はできないだろうな、ということです。

藤田 ありがとうございます。いやあー、今回も面白かったですねー!それに深いです。本当にありがとうございました。深くて面白い。フカオモですね(笑)。次回はまだテーマが決まってませんが、またよろしくお願いします。

森藤 こちらこそ、ありがとうございました。次回もよろしくお願いします。


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