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介護保険物語 第3回

                       収録日:2020年8月11日

■平成12(2000)年 介護保険創設

藤田 さて今日も始まりました。ご好評いただいております連載企画「介護保険物語」の第3回です。今回からはあらかじめ森藤部長にお話の草案を作っていただき、これを元にお話を伺おう!ということになっています。
ということで今日もよろしくお願いします。

森藤部長(以下敬称略) よろしくお願いします。

藤田 今日はいよいよ介護保険が成立してからのことのお話を伺おうということです。それについて森藤部長の草案を読ませていただきましたが、今回もまた素晴らしく面白いお話が伺えそうです。早速お願いします。

この草案の最初にもありますが、前々回ですか、介護保険が成立に至る社会背景というようなものをお伺いしました。社会的入院、寝たきり老人問題などですが、調べてみるとこの頃はすごく精神病院の病床が増えてきていて、今では認知症として診断されそうなお年寄りの方々が精神病と診断されてそういう病院に入院させられるなどということが、随分あったようですね?

森藤 そうですね。当時は老人のそういう症状は認知症なんだという判断はありませんから、おじいさんおかしいぞ、即病院だ、ということになるわけです。

藤田 当時(1970~90年頃)の厚生省の役人も、そういう状況をほとんど知らなくて、それどころか福祉亡国論みたいな論調が世間では流行ってたようです。それでも1989年には高齢者福祉推進10カ年戦略としてゴールドプランが提出されます。と言っても当時のそれは今から見るとお題目重視の傾向があるのか、ゴールドプランの骨子は「寝たきり老人ゼロ作戦」と「ホームヘルパー10万人計画」なのですが、それらの数値目標は合理的に算出された数字というより、気前と切りの良さから「ゼロ」とか「10万」が選ばれたらしいですし、そもそものプラン名も当初は「シルバープラン」というものだったようですが、これも「シルバー」じゃ景気が悪いということで「ゴールド」と決まったようです。

ともかく1990年頃からこのままじゃまずい、ということが役人にも認識され、なんとかしなきゃいかんが、じゃあどうするか?という気運が出てきてそれがそのままストレートに介護保険創設につながっていったわけですね?

森藤 行政というのは、なにかビジョンがあってそれに向かってやっていく、という風にはなりにくくて、そうじゃなくて現実にこういう問題がある、じゃあそれをどうやって解決するか?という風に動くんですよね。そしてその問題っていうのは、役人が見つけてくるようなものじゃなくて、庶民からこんな悲惨な現実があるじゃないか、どうにかしろっていう感じで上がってくる、突きつけられてくるものなんです。そういうやり方しかできないでしょうね。

藤田 なるほど。ともかくもそういう次第で、それまで家族がひっそりと行っていた「介護」を、これからは社会全体でみていこうという雰囲気が出てきた。その頃ご活躍されていた評論家の樋口恵子さんもそうした運動を強力に推し進めておられたおひとりですね。

森藤 それはもう、一種の合い言葉ですよね。これからは個人が介護を担うんじゃなくて、社会で担っていこう、みんなで介護を担っていこうということです。

藤田 そのときの「みんな」というのが厚生省的には狙いだったんでしょうか(笑)。措置時代のように国だけがみなくてもいい、という。保険方式にして「みんな」で担っていこうという。

そういうことで、いよいよ介護保険法が1996年11月に国会に提出、翌97年の12月に成立、2000年4月施行ということが決まります。それを受けて、その頃の世情はどんな感じだったんでしょうか?

■介護保険が大ブームに!

森藤 そうですねえ。介護保険導入後に起きたブームとも言えるような現象をひとつ紹介しましょう。

今現在、介護業界では介護職員の確保に四苦八苦していて、募集をかけてもほとんど人が来ない、などという声をよく聞きますよね?わたしなんかもそういう担当をしていたんですが、実際本当に人が来ないんです。

でも、介護保険導入後の平成12年頃は、「介護職員募集」という案内を出すと、10人、20人という応募者がどっと押し寄せるということが普通にあったんです。

しかもですよ、介護とはまるで縁のなさそうな、どこかの一流企業にでも応募しそうな若い女性(当時は介護職員というと女性の仕事という認識が一般的だったので)がたくさん応募してきてたんです!

平成12年の夏に行われた介護施設を対象にした就職フェアには、介護関係の専門学生だけじゃなくて、一般学生や一般社会人が本当にどっと押し寄せ、各施設のブースには鈴なりの人だかりができていましたよ。

私もそのブースの一つを担当していたんですが、フェア開始の午前10時から昼をはさんで午後4時までずっと喋りっぱなしで、それでも4時までにさばききれないほどだったんです。これは私のブースだけではなく、多くのブースがそういう状態でした。それに、マスコミの取材も盛んで、会場のあちこちでカメラが回り、インタビューが行われ、夕方のニュースで一斉に放送されていました。

そうして、たくさんの若者たちが介護業界に入り、介護職員への道を歩み始めたということで、そういう夢のようなブームがこの業界にもあったんですよね。そのくらい、介護保険は世間に大きなインパクトを与えたんだと思います。

藤田 えー!本当ですかーそれ?ホントにホント?

日経新聞2000.4.5切り取り


          (日経新聞 2000年4月5日)


森藤 これ、本当なんですよ。信じられないでしょ?介護保険が始まった平成12(2000)年頃、介護士募集って出したら、もう、事務員募集より人が来たんですから。ドドーッと(笑)。

藤田 へえー。すごいですねえ(笑)。でも、分からないなあ(笑)。どうしてそんなにブームになっちゃったんです?

森藤 それはまあ、介護事業が事業としてこれからものすごい発展するだろうって、世間が思ったんでしょう。だからほら、いろんな企業が参入してきたじゃないですか。コムスンとかニチイとかツクイとか(笑)。

それまでは社会福祉法人しかできなかった介護の事業が、特養を除いて、訪問介護やデイサービス、もう民間事業体でもできるようになったんですから、そりゃ来ますよ。誰でも開けるんですから。

藤田 ほーほーほー。

森藤 その頃は介護するのは女性が主でしたから、もう、女性ばかりがドーッと押し寄せるんですよ。それも一流企業がふうさわしいような女性が。わたしが以前いた施設でもそうですよ、面接に来た女性で、ミスなんたらをやってました、なんていう人も来るんですよ。

藤田 ウハーじゃない、ウワー(笑)。素晴らしい(笑)。でもでもでも(笑)。どうも解せないんですが(笑)。ひょっとしてその頃は介護士の給料って今より高かったとか?

森藤 いやいや。そんなことはないですよ。今とそう変わりませんよ。

藤田 はあー。じゃああれですか、国の方が、なにかキャンペーンかなにかして大いに煽っていたとか?

森藤 いやあ、そういうねえ、火付けはしてないと思いますよ。うん。

藤田 じゃあ、あれですか、国民が勝手に盛り上がって?

森藤 そうそうそう。

藤田 はあー。それが、じゃあ1年ぐらいは続いた、と?

森藤 まあ、1年ちょっとぐらいはそのブームが続きましたね。信じられないでしょ?今から考えたら。

でもそれはね、「介護」とはなにかがわからないからなんですよ。わからず入ってきて中に入ってやりだして、介護はこんなことするのか、というのが見えてきたときに、一人去り二人去り(笑)。いつの間にやらそれ以前やっていたような人しか来なくなっちゃった、と。

企業もね、やってみて、そんなには儲からないぞ、っていうのが見えてきたんだと思いますよ。でも一端やり始めたらそんな簡単にはやめられないじゃないですか。それで利益を上げていこうとして、だんだんブラック企業じゃないけれど、職員をこき使ったり不正スレスレみたいなことをして、バンバンバンバンやり出したんですね。それでコムスンなんか捕まったりしてね。

藤田 はあー。でもわたしもいい歳なんで(笑)、その頃生きてたんですが、そこにチャンスのチャの字も感じなかったんですが(笑)。

森藤 そうよね。20年前だから、そうよね(笑)。

藤田 いやいや、感じないどころか(笑)、ちょうどその頃ある会社の社長さんと知り合いでして、その人から、今度介護保険とか始まるらしいけど、そこになんかビジネスチャンスはないか?フジタタカトシ!って訊かれまして(その人わたしのことをフルネームで呼ぶんですよ)、わたし一晩考えたんですが(笑)、ないでしょって(笑)。

森藤 いやあ、正解正解(笑)。

藤田 自分の才覚の無さを感じます(笑)。


■平成14(2002)年改正 画期的思想「ユニットケア」

藤田 ともかくそうして、2000(平成12)年に介護保険は始まったときこそ大ブームが起きたけれども、しばらくしてそれも下火になってきて、現在に至るということですが、それでも今までに何度も、そしてたぶん今からも、改正されてきたし改正されていくということで、それをひとつひとつ詳らかに考えていきたいと思います。

まずは2002(平成14)年の改正で、ユニットケアという介護の方法というか概念というか思想が導入されたということですね。わたし正直に言って「ユニットケア」ってそんなに注目してなかったんですが、これは大したものなんでしょうか?

森藤 これはね、すごい画期的な思想ですよ。特にわたしのように措置時代の特養というものが頭に入っている人間からすると、「ユニットケア」という思想はね、ほんと画期的ですよ。これはおそらく介護保険ができていないと導入されなかったんじゃないかなあ。

この特別養護老人ホームにユニットケアが導入されたっていうことは、こと特養に限って言えば、ひょっとしたら介護保険導入がもたらしたもっとも大きな変革のひとつの表れといえるのではないか、と思いますよ。

それまではね、入居者を集団としてとらえてて、個人の事情に基づいた個別ケアという概念なんてほとんどなくって、あったとしてもそれは特に困難な特殊ケースぐらいにしか捉えられていなかったわけですよ。だから特養という施設は全国どこに行っても似たり寄ったりの雰囲気を醸し出してるでしょ?いわゆる収容施設の色合いの濃い施設だったんですね。

その建物からして、白塗りの壁の居室や廊下、4~6名の相部屋、白く冷たい鉄パイプでできたベッド、それを仕切る白っぽいカーテン、まるで病院でしょ?入居者は「介護を受ける」という「治療」を受けているようなもので、病院の入院患者と何らかわるものではなかったんですね。

つまり、特養には生活の場としての住環境というものがほとんど考慮されていなかったんです。こうした特養で過ごしているお年寄りたちの様子に強い違和感を覚えたある施設の施設長さんが、これは何とかしなくてはと考え出したのが、ユニットケアの考え方と言われてます。そこから特養も入居者の生活の場と考えるべきだということになったんですね。

藤田 そのある施設の施設長さんが「ユニットケア」という考えを言いだしたのは、やっぱり介護保険が始まった後のことですよね?

森藤 いや、それは介護保険が始まる前のことでしてね、もう、有名な話なんですよ。それは、1994(平成6)年、ある特別養護老人ホームの施設長が、数十人の高齢者が集団で食事を摂る光景に疑問を抱き、少人数の入所者と共に買い物をし、一緒に食事を作り、食べるという試みを始めた、というのが始まりなのです。

それからというもの、いろんなものが変わってきたんですが、一番わかりやすいのは、特養の建物そのものでしょうね。さっきそれまでの特養の建物の描写をしましたけど、それがどのくらい変わったかと言うと、ユニットケア導入後に新しく建築された特養の建物はその外観もですが、その中に一歩足を踏み入れると、ここはホテルか?と思うような雰囲気で、玄関ロビーなんか以前は冷たいタイル貼りだった床も、赤いじゅうたんとまではいきませんけど、最近はそれなりに気を使った床材を使っているのが普通でしょ?そこからロビー、リビング、居室なんか見てみてくださいよ。以前の特養とはまったく違った造り、内装になっていますよ。

もっとも今現在皆さんが目にするのはほとんどユニットケアの特養なのでそれが当たり前と感動もしないかもしれませんけど、私のように昔の多床室施設をみている者にとっては、ずいぶんりっぱになったものだなあ、と感心させられますよ。

このサンシャインももちろんユニットケアを導入してますが、これ、広島市で3番目の早さですからね。

藤田 え?早い順で?へええ。サンシャインは平成16年にできたんですよね?このユニットケアの改正ができたのが平成14年ですもんね。

森藤 そうそう。もうそれからは施設ならユニットケアじゃないとだめですよ、ということになりましたからね。

藤田 でもそれ以前にできてる特養さんなんかもあるわけでしょ?そういうところはどうやってるんですか?

森藤 ハードはもうどうしようもないから、パーティションでユニットケアみたいにしてますね。まあ多床室を区切るっていっても難しいんですが、一応それで認めてもらってますよ。

藤田 はああ。なるほど。えー、手元の資料によりますと、“ユニットケアの目指すもの“という項目がありまして、そこに書いてあるのが「施設全体で一律の日課を設けないこと」とか「流れ作業のように業務分担して行う処遇を行わないこと」とかいろいろありますね。きっちり書いてありますね。

森藤 きっちり書いてあるんですよ。

藤田 ユニットケアというか個別ケアというか、こうしてきっちり書かれてる。ここで書かれてることを本当にきっちりやれば、かなりいい介護ができそうですね?

森藤 それはそうなんだけど、それにはかなり手間ヒマと人手がかかりますよ。ユニットだとほら、目が行き届きませんからね。ま、ユニットケアにもいろいろ課題がありますけどね、ここではそれは置いておきましょう。

藤田 そうですよねえ。でも介護保険ができてたったの2年で「ユニットケア」っていう、個別ケアが大事よーっていう考えが出てきたわけですが、これってある意味不思議じゃないですか?措置時代はベッドに縛り付けるような介護を平気でしていたのに、介護保険ができてもう2年後には利用者に優しいそういう考えが出てきてる、というところ。

■なぜ、「ユニットケア」という思想が出てきたのか

森藤 それはね、ある意味、くびきが取れたんじゃないでしょうか。こういうエピソードがありますよ。

ユニットケアが導入された平成14年を遡ること4年ぐらい前、介護保険の話がちらほら話題に上っていた頃、特養などを運営する社会福祉法人にも「人事考課」という考え方が出てきて、よく頑張っている職員には高い評価を与え、処遇もそれなりによくしていこう、という機運が芽生えつつある頃だったんですね。

私が勤めていたある法人ではその考えを先取りし、人事考課制度を採り入れた新しい給与規程を策定し、平成11年4月には人事考課を反映した新給与規程で出発するぞ、ということで、2月頃所轄官庁にその旨報告に行きました。

すると「ちょっと待ってください。人事考課を採り入れるのは結構なことだが、現在の措置制度下では給与規程はあくまでも公務員の規程に準拠したものを引き続き使用していただきたい。これほど根本的に変更した給与規程を認めるわけにはいかない。これを実施するのは平成12年4月からにしていただきたい」と言われたんですよ。

そのお蔭で1年遅れで新給与規程での人事考課制度がスタートすることになったんですよね。それでもおそらく、当時の全国の社会福祉法人の中で人事考課制度を導入した数少ない法人のひとつだったことは間違いないと思うんです。もし平成11年4月に導入できていたら全国で1番だったかも、と思うと、少し惜しい気がします。

藤田 ははあ。それだけお役所の規程がいろんなところでいろんな動きを封じていたということですね。で、そのくびきが介護保険ができて取れたんじゃないか、と?

森藤 そうじゃないかと思いますよ。介護保険以後、施設でなにか起きても、それは今度はその施設の責任になるわけですよ。制度というよりも施設の責任になる。

そうして介護保険制度の導入によって措置制度時代に築かれた殻を壊して新しいものを創り上げる自由が与えられたわけですね。それが、ユニットケアの導入、発展をもたらしたということは介護保険制度の大きな手柄だと言えるんじゃないでしょうか。

藤田 なるほど。そうですね。

でも今、介護業界は大変な人手不足な状況にあるわけで、その大きな原因としては職員の給料の安さがあるんじゃないかと思いますし、言われてもいます。最初にも伺いましたが、この給料が安いってことも、措置時代もそうだったんですか?

森藤 ええ。それは変わりませんねえ。だって考えてください。措置時代の職員って、若い子(主に女の子)は学校を出たばかりだし、そうでもない人は家庭に大黒柱になる人がちゃんといて、そうじゃない人がちょっと小遣いでも稼ごうか、という感じで働きに来てたわけですからね。そりゃそんなに給料が高くなくてもちっとも構わないわけです。

それから介護保険ができたわけですが、その介護報酬を決める計算の根拠になったのは、その前の措置時代の職員の給料なわけですからね?そりゃ低いんですよ。上がるわけないんですよ。

藤田 ははあ。措置時代の影響ってそういう根本的なところに残ってるわけですねえ。

■介護保険導入のマイナス部分

藤田 えー、ユニットケアという考えは介護保険ができたからこそ導入された、言わば介護保険のプラスの部分だということでしたが、プラスの部分ばかりじゃないぞ、ということで。まあ今の給料の話もそうでしょうけど、森藤部長のご指摘にあるんですが。これまた深い話ですねえ。

介護保険になって、入所者はサービス施設を選べるようになったけど、逆に施設の方も入所者を選べるようになったんだぞということですね。

森藤 そうなんです。施設には入所者を選ぶ「入所判定会議」っていうのがありましてね。

藤田 へええ。そういう会議があるんですか。これは法律で決められてるんですか?

森藤 決められてます。

藤田 これがどういう問題を生み出すんでしょう?

森藤 思い出してみましょう。措置時代の特養の入居者はどのように決められていたのか?

例えば、入居者の誰かが亡くなるなどして、ベッドが空いたとすると、施設はその旨を所轄官庁に報告する。所轄官庁では配下の福祉課などを通じて特養入居を申し込んでいる高齢者の中から選んで一人を推薦してくるわけですね。

このとき、福祉課はどのような人を選ぶかというと、たぶん最も重度で扱いも難しい困難な人を寄こしてくるんです。実際そうだったですよ。

そうして所轄官庁から推薦された入居候補者を受け入れ側の施設はまず断ることは許されないわけです。なぜなら、そもそもそういう人をケアするためにそこに特養が設立されているのだから。もちろん予算(措置費)もそこから出ているのだから。だから、施設は当然のようにそういう人を引き受け、現場の介護職員等も当たり前のように受け入れる。

さあ、そこからすさまじいまでの介護の闘いが始まるわけですが、当時の介護職員はそんなことにたじろぐような人々じゃあないんです。悪戦苦闘しながらでも見事その困難な人を手なずけてしまう。これぞまさに介護職員の真骨頂だと思うんです。

藤田 はああ。なるほど。すごいですね。

森藤 すごいんですよ。じゃあ一方、介護保険後の特養の入居者はどのように決められるのか?

例えば、入居者の誰かが亡くなるなどして、ベッドが空いたとすると、特養入居希望者は施設に直接申し込んでいるので、施設はその中から選ぶことになるわけです。これがすなわち、入居判定会議です。

そうすると、先に述べたような最も重度で扱いも難しい困難な人を選ぶでしょうか?いいえ、選ぶことはまずないんです。

藤田 え?そういう人こそ選ばれるんじゃないんですか?それでもいいわけですか?

森藤 確かに、行政が出している入居判定の指針などはあるんですが、それが絶対的な基準になっているわけではないので、誰を選ぶかは、あくまでも施設の判断に委ねられているんですね。だからそんな大変そうな人は選ばない。

そうなると施設の介護職員は最も重度で扱いも難しい困難な人にケアをするチャンスがないので、そういうレベルの介護力を磨くことはできない。それが日本全体で長く続くと全体の介護力がどんどん落ちてくるわけです。

そうするとこのままでは、本当のプロフェッショナルな介護職員がいなくなるのかもしれませんよ。

藤田 はああ。深い心配ですねえ。

森藤 さらに恐ろしいのは、じゃあ特養入居で選ばれなかった最も重度で扱いも難しい困難な人はどうなってるんだろう?ということです。在宅に残ったままになってしまうわけです。こういった人々を一体誰がケアしてるんでしょう?

藤田 はああ。確かに想像すると怖いですね。

そうですかあ。そうですねえ。その「入所判定会議」が問題ですねえ。重度の人は選ばないよって、よく聞きますが、それは半分冗談かと思ってたんです。でも本当に選ばないんですね?本当に重度の人は?

森藤 入所希望者がまあ100人いたとして、もちろん全員を見渡して入所判定会議で判断されるわけじゃあないんですね。そうじゃなくて、その100人の名簿の中から、例えば声をかければ即入所になりそうな人であったり、施設の実情(人員配置や施設としての介護力の度合など)を勘案して、担当者があらかじめ入所に適していそうな何人かをリストアップして、その中から会議で入所者を選ぶようになってます。

藤田 じゃあその担当者が100人の中から、本当に介護が必要な人ばかりを何人か、重度でもなんでも選んでくれば森藤部長が心配するような事態は避けられるんですね?

森藤 まあ、そうですね。

藤田 はああ。担当者の技量っていうか、担当者の介護観が問われるわけですね。

森藤 いえ、それは担当者の問題ではなくて、施設全体がどのレベルの受入力(医療的側面も含めて)、を持っているかということにかかっているんです。
わたしは措置制度の時代からこの仕事やってますからね、ここで言う重度の人がどんな人なのかというのは目の当たりにしてますからね。そりゃもう、大変ですよ。見るからに。そいう人はいるんですよ。いっぱいおられるんですね。

藤田 じゃあ、そういう人は要介護度5じゃないですね。10ぐらい?

森藤 そりゃ無限大ですよ。そういう人を福祉課の人が連れてくるんですから。措置時代は。それを施設長と生活相談員(昔は生活指導員と言っていましたが)が引き受けてたんですから。で、連れて来られたその人を介護職員たちは平気で受け入れていたんですからねえ。

藤田 なるほどー。じゃああれですね。要介護10の人ばかりを引き受ける施設があってもいいですねえ。その代わり介護報酬、莫大もらって。それならいけそうですね。

いやあ。深いお話です。

そして次の改正、2006(平成18)年の改正の話になるんですが、これはどうでしょう?回をあらためてまたお話をうかがえればと思うんですが?

森藤 そうですね。じゃあ、そうしましょう。

藤田 ありがとうございます。今日も深くお話をうかがえてとてもおもしろかったと思います。
ではまた次回、お願いします。今日は本当にありがとうございました。

森藤 ありがとうございました。

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