保呂草潤平は「生きている」(森博嗣『恋恋蓮歩の演習』)
「生きている」作中人物が登場する作品として、私は森博嗣による『Vシリーズ』を挙げようと思う。『Vシリーズ』は一作目『黒猫の三角』に始まり、十作目『赤緑黒白』で完結したミステリィ小説のシリーズである。そして、私がレポートを書くにあたって注目したのは、『Vシリーズ』は保呂草潤平(ほろくさ・じゅんぺい)という人物が書いた手記の形をとっているという点である。このシリーズでは各巻の最初にプロローグが設置されており、保呂草が自分の文章の読者を想定して読者に語りかけたり、問いかけたりするような構成になっている。
以下、『Vシリーズ』第六作、『恋恋蓮歩の演習』のプロローグより引用する。
ここにおける「私」とは、保呂草潤平である。保呂草は自らを「物語の書き手」であると宣言している。
保呂草は「文章の正確性」を丁寧に否定し、大胆にも、「これから始まる物語は私が書いたものだが、それは演出を加えたものであり、現実の世界をそのまま記述したものではない」と読者に向けて言っているのだ。
講義で示された五つの「生きている条件」には、「作中人物と自覚している」という条件があった。これは作中人物が自らを作中人物だと認識している、というものである。先に引用した文章から、保呂草は物語が虚構のものである、と認識していると言える。しかし、「作中人物と自覚している」という条件には当てはまらない。保呂草は物語が虚構であると認めているが、保呂草自身はその物語の「書き手」であり、物語世界より高次元の世界にいるからである。
ここからは、議論を進めやすくするために、「書き手の保呂草」と「物語中の保呂草」とを区別して記述しようと思う。
物語中の保呂草は、書き手の保呂草によって作られた虚構の存在である。しかし、虚構の存在イコール架空の存在だ、と言い切ることはできない。なぜなら、書き手の保呂草が、物語を「現実世界で起きた事件の記録」だとプロローグで宣言しているからである。書き手の保呂草が物語中の保呂草を虚構の存在(ここではすなわち記録である)だと強調することで、本物の(この物語を書いた)保呂草潤平は物語の世界とは別の世界で実際に生きている、という印象をかえって読者に与えているのだ。
以下は、『恋恋蓮歩の演習』のエピローグより抜粋した。
この後、大笛梨枝という人物が物語中で書いた手紙が引用される。このような手法を用いて現実世界に生きている読者に手紙を紹介するというのは、書き手の保呂草が読者、すなわち現実世界で生きている私たちを認識していることの証左となる。「生きている条件」の一つに挙げられていた、「現実世界とリンクしている」にも当てはまるのではないだろうか。
『Vシリーズ』は「書き手の保呂草がいる次元」と、「書き手の保呂草が作り出した物語の世界の次元」の二重構造をとっているのだと私は解釈した。ところで、「書き手の保呂草がいる次元」は、私たちがいる現実世界の次元とは違うのだろうか。私は、違う、と言い切ることはできないと考える。そして、それこそが私が「保呂草潤平は生きている作中人物である」と主張する最大の理由である。
ここで、例を出そう。現実の人物が走れば、観測者は走っている人物の情報を五感で感じ取り、走っている人物の存在をしっかりと捉えることができる。しかし、アニメや漫画、小説の「キャラクター」が走っているのを見ても(読んでも)、それを五感で感じ取ったり、彼らに触れたりすることはできない。このような場合において、現実世界と作中世界の間には明確な壁があるのだ。一方、小説の「書き手」に関してはどうだろうか。プロローグで保呂草が宣言している通り、現実世界での出来事は文字にした瞬間に虚構のものとなる。つまり、現実の人物が書いた物語と、作中の人物が書いた物語は、どんなにリアルに描写しようと両者ともに「嘘」であり、差がないのである。それによって、「書き手の保呂草がいる次元」と「作者の森博嗣がいる世界の次元」は同じであると感じられ、読者は保呂草潤平という男がこの世界のどこかで生きているような気がしてくるのだ。
この作品には、森博嗣と保呂草潤平という二人の作者がいる。私は作者"たち"の思うつぼに、保呂草潤平を生きている人物だと認めてしまったのだ。
以上の考えから、私は保呂草潤平を「生きている作中人物」として捉えた。
2022.7.27
表象文化論のレポート(大1)
好きな作品についてなんでもいいから語りたかっただけのレポート……。