花粉症いいかげんにしろ大学附属高崎高校 校歌

  1. 幼い頃から花粉症というものには無縁であり、高校時代「ぷよぷよが上手いことと花粉症ではないことだけが取り柄」という苦笑いせざるを得ない自虐を身につけていた程にはその事実にある種の誇りのようなものを持っていた私が、この度、花粉症になった。春の普通のやつだ。その自虐も結局、「でもお前慢性鼻炎じゃねーか」という、授業中鼻をかんでばかりいる時期が年に1度は来る己の難儀な体質に対するツッコミ待ちであり、それだけでも哀れなのに今この身に花粉アレルギーを 本当に纏ってしまった のだから、更に哀れなことこの上ない。
    頭痛が止まらない。あの時「でも花粉症って毎年蓄積されてるから、お前もいつかはなるんだよ」と返事をしてくれた彼にも、「でもここにはあくまで君が花粉症であり私が花粉症ではないという事実だけがある」と誇らしげに言い放ってしまった、その記憶が今突然蘇り、頭痛が止まらない。花粉以上に私を苦しめているのは他でもない私自身である。あの頃の愚かな自分に教えてやりたい。見えないところで「蓄積」されていたらしい何かは、齢26にして突如暴れ出す。暴れ出すのは花粉アレルギーだけではなく、今まで花粉症じゃないことをやたらに誇り、花粉症であった周囲の友人達を嘲笑ったその無様な姿への自責や羞恥の念。今までの自分は一体何だったんだという心。心なのである。

  2. 目が痛いので十分に調べることができないが、花粉症というのはおおよそ日本特有の病で、昔の誰かが何かのためにスギを大量に植えたことが発端とされているらしい。なんでそんなことをしたんだ。てか、インフルエンザとか、新型ウイルスが何だとか、ある程度の治療法と予防が数年で確立された数々の重病をよそに、毎年好き勝手やってるこいつは一体何なんだ。というか、スギって木だろ。木って花粉で増えるのかよ。こんなに毎年毎年飛ばしてたら数十年後には辺り1面スギの木だらけになっているんじゃないか。ふざけろ。そんな未来は作らせない。難しいのはきっと、相手がウイルスではなくアレルギー、つまり己が免疫の過剰反応であることだろう。「自分との戦い」。それには一生かかっても打ち克てない人がごまんといる。それでも私たちは戦わなければならない。自らの免疫。過去の同じ民族が起こした過ち。そして花粉症イキリをしていた俺。どの角度から見ても本当の敵は林や森ではなく心の中にある。そう。心なのである。

  3. そしてこの日、決心する。私は己に打ち克つために、遠いところで修行を積もうと思う。何も環境を変えずに自分だけを変えるのは難しい。そうだな、まずは緑の少ないところに移るか。そして薬局も無いところがいい。とにかくスギとかブタクサとかいう字面を見たくない。スギで言うならできれば武蔵小杉とかも見たくないし、杉並三駅は夏が来るまで平日も通過していただきたい。あるいは海にでも行こうか。海の底で暮らせば少なくとも花粉症にはならないだろう。あの時苦笑いさせた友人達とも離れられる。貝だ、貝になろう。貝とかイソギンチャクになる。人と触れずに花粉症とも触れずに余生を過ごす。己に打ち克つ気なんて最初から無かったんだ。こうして私は心にマスクを着けた。花粉症への呪詛や自分への後悔を吐露してしまわぬように。さらば友よ、さらば私よ。悪いのは花粉症じゃない。スギをたくさん植えた人でもない。あいつは最初から横にいて。それを分かっていながら然るべき行動を取らずにのうのうとしていた自分。自分の心。心だ。心だったんだ。

  4. ああ 我らの 花粉症いいかげんにしろ大学附属高崎 高崎高校

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