霧の中の風景

2、3年前に書いたデータが出てきたので恥ずかしさを乗り越えて供養にということで。


 暗闇の中、けたたましい金属音が鳴り響く。
俺は手だけを動かして音の源に平手をくらわした。
うーんとうなって起きる。ベッドから抜け出して、薄明るいカーテンを開け放とうとしたとき、ふと気づいた。俺は涙を流していた。そしてどうしようもないほどの喪失感。またか、と思った。

なぜか俺はたまにこんな朝を迎えることがある。いつのころからなのか定かではないが、もうこれには慣れてしまった。初めのうちはこの理由を突き止めようと考えたのだが、特におもいあたることもなかった。しかし涙はともかくこの喪失感は本当に困ったもので、理由もわからないのに心が痛むのだ。そして同時に言いようのない焦りを覚えるのだ。なにかをなさねばならないと火に焦がされるような気持ちはしかし、まるで指の間から砂がこぼれ落ちていくように消えていく。

そして、それはもう慣れてしまったいつものことである。心にぽっかりと穴が開いたような気持ちを抑え込み朝の支度を始めた。 
部屋を見回して、ハアとため息をつく。

もう一つ不思議なことに、こんな朝は決まって部屋が荒れている。自分でも恐ろしいのだが、荒らしたような覚えもないのにだ。初めのころは俺の家には酒瓶の一本もないのにも関わらず、なぜか酒でも飲んでいたのだろうと思い込んでいたのだが、最近おかしいと思うようになってきた。しかしこれ以上深く踏み込もうとは思わない。なにか触れてはいけないことのように思うのだ。そこでもう何も考えずに片付けることにしていた。そうこうしているうちに時間が迫ってきたので急いでスーツに着替え、身だしなみを整えてからカバンを持つ。朝食は抜きだ。

「朝ごはんはちゃんと食べないと、力が出ないよ。ほら、ちょっとでもいいから。」

ふと頭の中で女性の声が響く。霧に包まれたようにはっきりしない。誰の声を思い出したのだろうか。どうも思い出せないが、なぜか少し喪失感が和らいだような気がした。俺は頭を振って、玄関を出た。


 「あら、おはよう清一君。」
いつものように社長の奥さんが、声をかけてくる。
「おはようございます。今日もいい朝ですね。」
少し苦労したがなんとか笑顔を作ることができた。そのあと全員に挨拶して回る。全員といっても社長と奥さんを含めて六人しかいないのだが。ここは俺が勤める足立印刷だ。小さな会社だが、設備もそろっているし、熟練の人たちが多く仕事のクオリティも高い。そのなかで俺は依頼された内容に基づいてデザインを考え、形にする仕事をしている。もともと俺は絵描きでデザインには自信があったしこの仕事にはやりがいも感じていた。一年前まで俺は絵描きだった。しかし、なかなか絵では食べていくこともできず、困っていたところを足立社長に拾ってもらったのだ。社長と奥さんには本当に感謝しても、し足りないくらいだ。仕事だけでなくプライベートでも、よくご飯に連れて行ってくれたり、料理をしない俺に余った物を分けてくれたりもした。なぜこんなに良くしてくれるのかと疑問におもうくらいだ。

 そして昼休みにはいつものように社長夫妻と社員でご飯に出かけた。いつも同じ定食屋に行くのだが、今日は新しくできた定食屋に行ってみることになった。社長の鶴の一声だ。そこは街角のこじんまりとした家庭的な店で、女将さんが出迎えてくれた。
「あら、いらっしゃいませ。こちらへどうぞ。」
水とメニューを運んできたついでに女将さんは、少し俺にちょっかいをかけてきた。
「あなた、イケメンねぇ。うちの娘とお見合いしてみない?」
「ははは、遠慮しときます。」
突然のことに少し戸惑ったが、愛想笑いで返した。
「あら、やっぱり彼女でもいるの?」
女将さんは少し残念そうに言った。
「いえいえ、生まれてこの方彼女なんてできたことないですよ。」
と笑って言ったとたん、ガタンと音がした。
 見てみると社長が水をこぼしたようだ。
「大丈夫ですか?今布巾持ってきますね。」
女将さんが奥へと小走りに向かっていった。意外な社長のミスに俺は少し笑った。
「何してるんですかー社長。大丈夫ですか?」
とここで場が妙な空気になっているのを感じた。誰も笑っていないし、誰も俺と目を合わさなかった。そして社長は小さく仕事やり残したことがあるから、とつぶやいてそのまま席を立った。
そんな馬鹿なと言いかけたが、目の前の席に座る社長の奥さんと目があって言葉が出なくなってしまった。

そしてそのまま俺たちは社長抜きで静かな昼食をとった。


 会社からの帰り道、社長の奥さんの俺を見るあの目を思い出していた。とても悲しそうな目だった。あのあとの仕事はなんだか集中できなかった。会社に帰っても社長がいなかったからだ。結局、終業の時間になっても社長の姿は見えなかった。さらに不思議なことにそのことを社員のだれも口にしなかった。いつもはあんなになんでも口にしてしまう人たちなのに。

モヤモヤしたまま家までたどり着き、鍵を開けてそのままの恰好でベッドに倒れこむ。 

「こら!スーツがしわになっちゃうでしょ!!」

また頭のなかで声が響いた。少し頭痛がした。朝の時と同じ声だった。一体この声は誰の物なんだろうか。思い出そうと努力してみたが、頭痛がひどくなるばかりだった。額を抑えて、ベッドから起き上がろうとしたとき、目の端に何か気になるものが映った。本が並べられているカラーボックスと壁の間に何か挟まっている。立ち上がって近寄ってみるとそれは、ケースに入ったDVDだった。

「なんだこれ?」
ケースは少し割れたりしていて妙にボロボロだ。手に取って裏返してみると、ところどころかすれた見覚えのない文字で
「7月24日までにこれを見つけてもみないこと!元あった場所に戻す!!」
と書かれていた。今日は10月12日だ。俺はこのDVDを見てみようと思った。なにか引き寄せられるような力がこのDVDにはあった。いそいでノートパソコンを起動してDVDを入れた。ビデオの画面が立ち上がり真黒な画面が映し出された。そして、一人の女性が画面に映る。彼女はこちらをみて満面の笑みを浮かべて話し出した。

「清一君。誕生日おめでとう!」

一瞬耳を疑った。確かにこの女性は俺の名前を言った。何だこれは。彼女の言葉はまだ続く。
「今年はビデオレターにしてみました!!清一君に去年もらったビデオレター本当にうれしくて。やっぱり形に残るものがいいなあって思ったの。だから私も作ってみました。うまく撮れてるかちょっと心配だけど…。実はあの清一君がくれたビデオレター何回も見直してるの。元気がほしい時に。清一君も何回もこれを見直してくれたらうれしいな。」
画面の向こうから彼女が恥ずかしげに笑いかけてくる。彼女を見て、声を聴いているうちに、俺を耐え難いほどの頭痛が襲った。頭をかかえ床を転がる。頭が割れそうだ。足が机に当たり、机の上のものが転がり落ちる。遠くに彼女の声が聞こえた。そして突然頭の中から霧が晴れたようにはっきりと情景が浮かんできた。彼女は優しく笑っていた。足立優。俺が、僕が人生で初めて、愛した女性だ。優との思い出がとめどなくあふれ出てくる。笑っていた時、泣いたとき、喧嘩したとき、様々なシーンが脳裏に映し出され、そのたびに心に、自分という存在にピースがはまっていった。忘れていた景色、記憶がよみがえっていく。幸せだった。どうしようもなく幸せだった。そして僕は思い出してしまった。僕は彼女を、優を、愛する人を殺してしまったのだった。
 忌まわしい記憶が否応なく僕を責める。

「いやだ!!やめろ!!」

どんなに抗っても、後悔しても、願っても、何をしても過去は変わらない。刻まれてしまったページをもとに戻すことなどできないのだ。だから僕は忘れた。逃げた。人間は忘れて、生きていく生き物だ。僕は狂ったような日々の中すべてを忘れ、安息を得たのだった。僕は醜く、弱かった。


 7月23日。僕は優と喧嘩をした。喧嘩というよりも僕のただの八つ当たりだった。僕は売れない絵描きだった。でも、僕はそれでもよかった。たった一人だけ無条件にほめてくれる人がいたから。しかし、だんだんと僕は自分をふがいなく、情けなく思うようになった。何しろ、僕はすべて優に頼りきりで、彼女のために何一つしてやることができなかったからだ。そしてそのモヤモヤを僕はあろうことか彼女にぶつけてしまったのだった。

「今回もとってもいい絵ね!この辺の雲とか、すごく好き。この絵きっと売れるわよ。そうだ!前から思ってたんだけど、私の友達のカフェに飾ってもらわない?まずは知ってもらうことから始めたらいいと思うの。」僕の後ろから彼女が絵をのぞき込みながら言った。
僕は聞こえないふりで黙々と筆を進めた。モヤモヤがたまっていった。彼女は僕のそんな様子を見て、明るく言った。
「清一君はもっと自信をもっていいと思うの!だってこんなにいい絵なんだもの。みんな知らないだけで、きっと知ったら…。」
もう耐えられなかった。僕は吐き出してしまった。
「もうやめろよ!こんな絵売れるわけがないだろ!」
優は急に声を荒げた僕に、驚いたようだったが、すぐに言い返してきた。
「そんなことない。清一君の描く絵どれもとってもいいもの。」
「お前になにがわかるんだよ!いっつも良いとか好きとか何にも伝わってこないんだよ!」
僕は彼女の方をにらみつけた。彼女は僕の目つきに戸惑い、目を伏せて少しうしろへ下がった。
「ご、ごめんね。私馬鹿だから。でもどの絵も清一君って感じがして…」
「もういいよ!!もう話したくない!出て行ってくれ!」
頭ではこのままではいけないとわかっていたはずなのに、口は勝手に動いていた。彼女の顔を見たときズキンと心が痛んだ。
「ごめんね。」
彼女は小さくつぶやいて部屋を出ていってしまった。今なら間に合う。すぐに謝るんだ。しかし体は石のように固まったまま動かなかった。

それからどれくらいの時間がたっただろうか。数十分だったかもしれないし数時間だったかもしれない。優からの着信があった。

僕は、その着信を無視した。意地になっていたのだろうか。それとも彼女と話すことを恐れていたのだろうか。わからないし、わかりたくもなかった。その着信は優と僕の最後のチャンスだった。

優はこの電話を僕のアパートの前の道路からかけてきていた。たったの数十メートルの距離だ。きっと10秒とかからずにたどり着くことができただろう。電話に出てさえいればすべてを投げ捨てでも向かっただろう。


 優は信号無視をした車にはねられ、そのまま放置されたのだった。優の周りには破けたビニール袋からこぼれた様々な食材が転がっていた。きっと僕と鍋をしようと考えていたのだろう。なぜか僕らは仲直りするときは鍋をよく囲んでいたからだ。

優はひどい状態だった。周りにいた人によって救急車がよばれたが、ついたころには優はすでに手遅れだった。そしてそんな状態の中優は僕に電話をかけた。きっと指を動かすことさえ難しかったはずなのにだ。そして僕はこの優の最後に差し伸べてくれた手を払いのけたのだ。

優は携帯を握りしめたまま、救急車のなかで息を引き取った。僕が優の死を知ったのは、それから三時間後、優のご両親からの連絡によってだった。あの時は本当にどうやって病院にたどり着いたのかも覚えていない。ただただ覚えているのは無残な優の姿と、その手に握りしめられた血まみれの携帯だけだ。僕はその時自分のしてしまったことに気づいた。震える手で携帯を見てみると、着信が一件と留守番電話のメッセージ。どうにかなってしまいそうな気持の中でメッセージを再生した。今にも消え入りそうな声で優はたった一言だけ言った。

「大好きだよ。」

そのあとのことはもうごちゃごちゃになってしまっている。僕は病室で絶叫し、何度も柱に頭を打ち付けた。死にたかったのかもしれない。驚いて病室の中に飛び込んできた優のご両親に取り押さえられて、僕はそのまま気絶した。

そして、目覚めたとき僕は記憶を失っていた。


気づけば部屋の床に倒れていた。部屋の中は惨憺たるありさまだ。僕が暴れたのだろう。
心の中は、部屋よりももっとひどい状況だった。優との幸せな思い出と、強烈な後悔、自責の念が混ざり合って、気が狂いそうだった。いや、もう狂っているのかもしれない。もはや涙も流れず、何も感じなくなってしまったかのようだった。

ゆっくりと起き上がると、パソコンの画面が目に入った。さっきの状態で停止していた。気恥ずかし気に笑っている優。僕はその笑顔に吸い寄せられるようにして、近づいて再生ボタンを押した。映像の中の優はとても楽しそうだった。僕との思い出を雑談のように話していく。まるで本当に僕と話しているかのようにところどころで同意を求めてきたり、ちょっと怒ったりもした。表情豊かに話す彼女を夢中になってみている途中、ふと気づいた。僕は大粒の涙を流していた。とめどなく涙は流れた。それは優に幸せをもらったからでもあるし、それを自覚したからこその後悔のためでもあった。画面の中の優はもう話を終ろうとしていた。

「……あれはほんとにおもしろかったよね。今思い出しても笑っちゃうもの。あ、もうこんなに時間たっちゃった。話したいことがたくさんありすぎるのよね。じゃあ最後に一番言いたかったことを言うね。あのね、実は私とっても後ろ向きな性格なの。清一君は以外っていうかもね。清一君の前じゃ私笑ってばっかりだったし。でも、私はどんなに幸せな時でも、こんな幸せずっと続くはずがない。すぐに終わっちゃうんじゃないか。って思ってしまうの。
この前、急に私が死んじゃったらどうしようって思ったんだ。それでいっぱい考えて、考え付いたのがこのビデオに残しておくことなの。だってこれだったら、ずっと私が残るでしょ?私に会いたくなったら、このビデオを見てね。」

優はちょっと照れたように笑って話をつづけた。

「私はね、そんな後ろ向きな性格だから、いつも精一杯生きてるの。いつ終わりが来ても、ああ幸せだったなって思えるように。ちょっとおばあちゃんっぽいかな。だからね、清一君。
私は幸せだったよ。どんなことがあっても私は幸せだった。じゃあね、バイバイ。大好きだよ。清一君。」

そこで、ビデオは終わっていた。
彼女は知っていたのだろうか。自分が死ぬことを。
いや、そんなはずはない。でも確かに彼女はこのビデオを通して今の僕を救おうとしてくれていた。こんな最低な僕に、手を差し伸べてくれた。心に温かいものが広がっていく。

「しっかり生きて。」

そういわれた気がした。僕の気のせいかもしれない。でも、彼女ならそう言うだろうと思った。涙をぬぐって僕は立ち上がった。
「わかったよ。見ていてくれ。優。」

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