速読という幻想 ー英語読解ー

こんにちは😀

今回のお話は英語のお話です。

よく大学受験の時に聞かされた「速読」について語ります。

結論から申し上げますと、私の信じる道に「速読」というのは読解をする時の「足枷」にすぎないと思っています。

もちろん、時間内に読んで、時間内に解くことは大切です。

これは共通テストなどの大学入試に限った話ではなく、英検やTOEICなどの資格試験においても、「速読」というのは問われる力なのは間違いありません。

しかし、「速読」というものを根本的に考え、自己研磨していく過程の中で、「速読」は幻想的なものにすぎないと気づきました。

今回は「速読」とそれと関連した「精読」についても深掘りしたいと思います。


①そもそも速読は何か?

「速読」という言葉に初めて出会うのはおそらく高校入試だと思います。

その時に「速読」とは読んで字の如く、「速く」+「読む」=「速読」と解釈して、学校や塾の先生に学ばされたと思います。

しかし、気づいていただきたいのは、「速読」という行為がいかに「不自然」で「人工的」であることです。

そもそも何で人は文を読むのでしょうか?

言葉を読んで、情報を獲得したり、指示に従ったり、学を学んだり、さらにそういった知識の集まり(いわゆる科学)を応用していって、物事を発明したり、新しい表現を作ったり、大きく言えば、文明を築き上げるために言葉というものは必要とされてきました。

文字が作られる前の人は、口で発せられた言葉を理解して、文字という消されない限り永遠に残り続ける手段を身につけてきました。

こういった原始的な問題から見ていった時、「速読」というのはいつ、どのタイミングに必要になったのでしょうか?

私が思うに「争い」という「人命の危機の訪れ」があったから、速く読む技術というものが必要となり、速読を身につけることで、人より早く自分の時間を有効に活用でき、社会に貢献する「生きる術」として身につけられた技術なのです。

今の社会でも様々ある「生きる術」の1つとして「速読」というものが存在しますが、この背景について考えて「速読」とは「速く読む術」と考えるのは考えが浅く思います。


②言葉の役割

言葉の役割はものすごく単純なもので、コミュニケーションの手段で、言葉を理解して、それを具体的にも抽象的にも昇華されていき、現在の文明を作り上げました。

言葉には1つ1つ意味がしっかり存在しており、言葉としての意味から文法的な役割まで、伝えたい内容を伝えるために余すことなく文の一部として言葉が使われます。

つまり、言葉とは「意味を持ったまとまりで、他人に伝達する手段」だと理解することができます。

言葉が使われる場面では、ほぼ全ての言葉に何かしらの意味を持っています。そして他人と共有して、物事を進展させていっているんです。

この「意味の理解」こそが言語活動のキーポイントになります。


③速読という違和感の正体

速読は「不自然」とか「人工的」と評したのは、本来の言葉が持つ役割の向こう側に存在する付属的なものだと思っているからです。

言語活動は「意味を理解する」ことにあるのだから、そこに速いも遅いも存在しません。

そして、多くの学生が「速読を意識しろ」と言われた際に考える速読は「時間内に素早く読む」という行為であり、本来の言語活動から外れた行為をしようとしているわけです。

「速く読む」必要はないんです。ただし、「速く理解する」方は今の社会において必要とされている「生きる術」で、ただ文字通り読むスピードだけを速めた読み方ではなく、「読んで理解する速さ」こそが、私が思う「速読」です。

だから、私は学生に指導する際に、「速読」という言葉に釣られて速く読む意識をしてしまうのを未然に防ぐように、まずは「読む力」を鍛えさせようとしています。

その「読む力」こそが「精読」なのです。


④「精読力」の鍛え方

以前、大学生が私にこのような質問をかけられました。

「先生がお持ちになっている入門英文問題精講の本、僕も昔『精読』として使っていました。」と。

「入門英文問題精講」とは、簡単に言えば、「英文和訳に特化した本」です。

私の考えではありますが、そこに違和感を覚えました。

なぜなら、『精読』というのは「文章の内容を深く吟味すること」だと思っているからです。

そこに「英文和訳に特化した本」を『精読』といっていいのだろうか?と。

確かに、英文和訳をすることで、わからない英文内容が母国語である日本語に化されているため深く理解できるのは間違いないことです。

しかし、たいていの問題では「文脈」があまりなく、吟味するにあたって、若干の物足りなさを感じているからです。

幸い、私は英語講師であるため、そういった類でもなんとか話を展開させていくことはできます。

しかし、参考書は使う側によって使い方や考え方が変わってしまうため、その教材における『精読』というポイントから少しずれているのではないか?と思います。

私がこの教材を使っているのは日本語力を上げて、表現力の向上・文構造の理解力の向上として活用しているだけです。

私が『精読』力を上げるのなら、生の英語長文に触れて、まずは「読む」ことの基本的な姿勢を身につけさせます。

そして、そこに隠されている「論理」を見抜いて、筆者が本文で伝えたい内容を理解させ、その問題について生徒自身の意見や考えを引き出して、「読む」ことで得られる産物をゴッソリと掴むことを重視させています。

そのために、表現力・日本語力・論理力を高めるために「入門英文問題精講」を使っているのにすぎないのです。

私はその教材を極力(たまに言い間違いますが^^;)「英文解釈」と読んでいます。そっちの方がしっくりくると思うからです。


⑤『精読』の鍛錬の先にあるのが真の『速読』

さて、本題の速読の話に戻りまして、精読の練習はなぜする必要があるか、それは精読の練度が「速く理解する」という私が最も口にしたい速読力に影響を与えるからです。

「頭を使わなかったら考えが鈍る」とはよくいったもので、考えなしでものを読むことなんてできません。

もっと言えば、正しく考えないと、自分都合に物事を理解してしまう人間になってしまいます。

私自身、高3の時の現代文読解がまさにそのようなもので、『自分都合』な読み方で『他人の意図』を理解しない姿勢で読み続けてしまっていました。

その結果、国語の偏差値35の人間になっていました。

考えない人間はニ流で、読もうとしない人間は三流だと思います。

正しく考え、正しく行動に移せる人間は一流です。

これは学問に限った話だけでなく、スポーツや政治、経営などなど、様々な分野でも活用できます。

故・野村克也は私の大好きな人ですが、彼も考えることの重要性をはっきりと述べています。

彼の弟子の元日ハムの監督新庄剛も、チャラチャラしてそうで、実は物凄く考えている人間です。新庄はこれからも色んな球団から求められる声が上がるようになりますが、彼はきっと、今の監督業を終えたら野球界から本当に身を引くような気がします。

とにかく、考えて理解するという基本的な行為を忘れては、いくら「速読」に挑戦してはその本質にいつまでも迫れないでしょう。

速く読む読解技術なんかよりも、精読の練度を高めることこそが、言語活動の基礎に迫れ、自然と読むスピードが上がっていきます。

だから、意識的に「速読」をするのではなく、「正しい理解力」を高める練習を積んでいくといいでしょう。


速読という言葉はしばしば勘違いされます。

また精読という言葉の定義や教育の定義も人によってまちまちで統一的な言葉が生まれたらいいなと思います。

考える練習を積むことで人は一流になれますが、正しく考えて行動に移せるのは超一流です。

だからこそ、どんな言語活動でもいいので、他者の意図を読み正しく理解する力を持ち、自分の考えを持って、自己研鑽していくと、人は何にだってなれると思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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