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ガンではもう死なない選択が出来る?!③

術後、入院中はとにかくよく歩いた。
院内や病院内の散歩コースなど、元気な入院患者だった。
しかし、手術は明らかに私の身体にダメージを与えていた。
疲れやすく、傷の修復も遅めだった私の入院は一ヶ月近くに及んだ。
その間、病院食で動物性タンパク質と砂糖をとることをやめていた。
これが自分の体にとって良かったのか今となってはわからないが、その時の私は、必死だった。
動物性タンパク質をとることは癌にエネルギーを与えると言われる本を読んで、その考えを取り入れた。

帰宅してからは、癌を消したW氏の勧めもあった玄米菜食を始めた。
家族とくに夫の同意は問題なかったが、中学生と高校生の息子達の食事を別にすべきか悩んでいたとき、長男がてんかんを発病した。
てんかんは、血液がドロドロ血になると発作を起こしやすいと言われているのを知り、我が家は家族全員さらさら血を目指して、玄米菜食に切り替える結果となった。
当時、私のガン発覚から一ヶ月後に長男がてんかんを発病。次男と夫は丸々と太った身体になっていた。
理由は明らかだった。癌になる前の2年間私は、次男のPTA副会長という役目と外に仕事に出ていたため、食事に意識を全くおけなくなっていた。
週7日の内、1日キッチンに立てれば良い方で、ほとんど毎日スーパーや惣菜店のおかずやお弁当が並ぶ日々、外食のオンパレードだった。
そして下剤を使わないと排便も出来ず。疲れやすく体中にこりや痛みがあっただけでなく、ストレスもあって身体はドンドン疲弊していった。
次第に身体が辛くて眠れない。鍼灸の治療の日だけ眠ることが出来るようになって、そのうちその鍼灸さえも効き目がなくなった頃、鍼灸師だった叔父に
「おまえの身体はどこかおかしい!病院で検査を受けた方が良い」と言われていた。
その一ヶ月後、総会を終えPTAの2年任期を終えた翌週お風呂の中で自分の胸に異常なしこりを発見し、乳癌ステージ2Bが発覚することになった。

退院後は、玄米菜食をしながら、癌や手当法について学び始めた。
W氏が籍を置いていた、がん患者学研究所というNPO法人の勉強会にも参加し始めた。
退院一ヶ月後には合宿にも参加した。
そこで、癌を治すためには原因を追及し理由を排除していくことや心の問題を解決することについて学ぶことになった。
自分の中の、自己否定や考え方、ものの捉え方の癖、ずっと受け入れることが出来なかった母親に対する強い不信感や嫌悪感、嫁姑問題、反抗期の息子とのトラブル・・・
癌は、品物の山と書くと言われるが、本当に私にとっても問題が山積していた。
そして何より、手術で受けたダメージなのか、ガンの本質か?
私の身体には次から次へとトラブルが起こった。高熱、湿疹、内臓や歯周病始めとする炎症反応、下剤は使用しなくなったものの今度は下痢が続いた。私の身体は、必死に私に何かを訴えるように、症状が起きた。
午前中、半身浴、生姜のお湯で身体を温める生姜罨法やびわ場温灸をしてやっと午後普通に過ごせる日々、夜もまた身体を温める手当をおこなった。
それでも、少しでも疲れが出るとすぐに熱を出したり、体中湿疹が出たりする日々に、心の問題まで立ち向かう余裕もなくしていた。
がん患者学研究所での学びに限界を感じ始め、笑いヨガや他の食事法を探し始めた。
塩抜きのゲルソン療法は、私の身体には合わなかった。身体が冷えるだけでなく2日目でベッドから起き上がれないくらい不調になった。
断食もやってみたが、これも身体がきつくなるばかりで光が見えなかった。
酵素玄米の食事法で、下痢は止まったものの、子ども達からは不評を買った。
それまで、どうしても甘いものを完全にストップできないでいた私だった。アガペーシロップやメープルシロップを使ったお菓子がたまに無性に食べたくなって、食べ過ぎて、そのことを笑って許せず、罪悪感に見舞われ、体調が悪くなった。そんなことを繰り返していた2年間。

そんな時、雑穀甘酒料理を教えてくれるつぶつぶ料理教室に出会うことになった。

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