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天神キラキラ女子と貧困とドラマ「日曜の夜くらいは…」

すっかり高価になった映画を見に行こう。

土曜日。映画でも見に行きたいと妻と話す。
インディージョーンズ?友達から聞いた良い映画「山女」?川上未映子原作のアイスクリームフィーバー?

映画情報をスマホで探し、キノシネマに「マルセル 靴を履いた小さな貝」を見にいく。
映画はとても良かったけど、その話はまた今度。

マルセル 靴を履いた小さな貝

Ron Herman cafe 福岡店はキラキラの女の子でいっぱい

映画の前に時間が空いたので「確か映画館の隣におしゃれなカフェがあったよな」と思い出し、灼熱の国体道路をクラクラしながら歩く。
緑に囲まれた広々としたカフェ。
お洋服屋さんのやってるカフェらしい。

メニューもなんやら綺麗。(そして文字が小さく、老眼夫婦には地雷のよう)
初めてきたお店なので「別枠もの」から選んだ。
12時間たった今では名前も思い出せないけど、すごく綺麗な層ができてるレモネードを二種類。
カリフォルニアカフェらしいのでそれらしく、ね。

可愛い飲み物は無条件に心を上げる

ブランドもので身を固めた、ボディメイクもメイクも力が入った笑顔の女の子たち

右隣も左隣も女の子。綺麗にしてる。
僕の左隣の二人(妻調べによると)ディオールの10万円弱のピアスを装着
頭周りくらいのお腹!
楽しげに話してる。

右隣は3人の女の子たち。
パンケーキと言われる食べ物を食べてる。見た目すごく可愛いけど、僕にはちょっとわからないパンケーキ。
30分くらいしかないので今日は飲み物だけね。

天神や警固を歩く人たちは本当におしゃれ。街全体にドレスコードがあるんじゃないか?って思うくらい。
僕はもうおじいさんなのでこの街からは見えてないから平気だけど、ここに足を踏み込むには「気合」と「お金」がないといかん。

僕ら夫婦も低所得者ではあるけど。子供はもう自分で生活してるから、なんとかやっていけてる。今はね。

どちらもお昼ご飯が食べれそうなお値段(笑)

「日曜の夜くらいは…」というドラマを見て思ったこと

ほとんどTVドラマを見ないんだけど、岸井ゆきのが出てるっていうので「日曜の夜くらいは」というのを見てた。
主役の3人の女の子がそれぞれ抱えた荷物に感情を殺されながらも、出会い、幸せを求め、喜怒哀楽を取り戻すドラマ。
かわいそうな身の上ではあるけど、過激ではなく。
子供にお金をせびる親、ヤングケアラー、地方都市の鬱屈、男尊女卑…。それぞれのパーツに新しいものはない(逆にいうと世の中が悪くなってる分、架空からリアルに酔ってきてる)けど、そこから「一等宝くじが当たる」という事故の後、変わってゆく日々が描かれていた。

カフェという場所で起きることを考える

友達と楽しいひとときを過ごすのがカフェだと思ってた。
だって、一人の時は、若い頃は、いったことなかったから。
「喫茶店(その頃はそう呼んでた)」に入ることができるのは、余裕がある人だと思ってた。

でもこのドラマを見て、家でも職場でも、どこかのコミュニティでもなく、自分を一旦落ち着かせる場所としてのカフェって必要なんだなあと思った。

ただ、「カフェなんてオシャレすぎて」と思ってる人には最初の一歩はすごく勇気がいる。僕も結局彼女ができてからしか入れなかったし。

で、昨日のRon Herman cafeだ。
着飾った女の子たちの笑い声。子連れの若い夫婦。落としていくお金はかなりのもんだ。だからきっとお金持ち。

ふと思う。本当にそうなのかな?
僕はその場所にいる人たちのストーリーを妄想するのが好き(ジロジロは見ないよ。でもそれでも変態かもしれん。)

一生懸命働いて、友達と会うこの瞬間のために持てる力を出し切って来てる人もいるかもな。
土曜日のお昼。つらい毎日から解放されて、ともに別の場所で戦ってる戦友と健闘を称え合ったり、ちょっとしたマウントを取ったり、笑顔を張り合ったりしてるのかも。

ディオールのピアスも一張羅で、心から幸せになれる魔法のアイテムなのかも。

貧しさが見えづらくなったのかも

昭和40年代。生まれた頃は本当に貧乏な家があり、うちは標準的な低所得だった。ギリギリ誕生日やクリスマスはあった。
何日も同じ服で、匂いが臭い人もクラスに何人かはいた。

21世紀を迎え数十年。貧しさは消えない。
天神のカフェにくる人、こない人。福岡市の中でも住み分け圧力がかかっていて、目に見えないボーダーラインが引かれてる。

事務所のある六本松のあたりで見かける人はみんな「余裕のにおい」がする。でも少し離れた場所では髪の毛ボサボサで一人で学校に遅れて行ってる子を見かける。

ユニクロに行けば安く、それなりのものが買える。
割引のシールが貼られたものしか買えない毎日でも、ギリギリ生きていける。でもそれは「働けてる場合」だ。

天神のカフェの出場権を手にした女の子たちは何かしら「お金を手にする手段」を持ってるから戦える。
でも子供たちは?
親の稼ぎで生きていかなきゃならない。

その子供たちは天神にはいない。
だから僕らは一瞬「貧困なんてないのかも」という夢を見る。
貧困を可視化する政党を嫌う。

貧困とは
ゴミを拾う肌の黒い痩せた外国人でなく
来月を生きていけるか心配で、でもその心配から目を逸らして生きる僕らのこと

でも、それを認めたくはない。だって「貧困は自業自得・自己責任」だと教わって来たから。

答えは出ない。
貧しいとは思えても「貧しい」とは言われたくない。そこが一番大きな壁かもしれない。


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