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第七官界再考

尾崎翠の小説「第七官界彷徨」の舞台化公演が終わって早2週間。第七官とは結局何だったのか改めて考えてみることにしたい。
※書いているうちに気づいたが主人公・町子にとっての第七官ではなく、あくまで自分にとっての第七官の解釈ということを前置きしておく。

小さい頃は神さまがいて 不思議に夢をかなえてくれた
やさしさに包まれたなら(荒井由実)

ベタだけど笑、ユーミンの歌詞のように幼少期の頃でないと見えない感覚、世界があるのだと思う。いわゆる妖怪(座敷童とか)も子供だけ見える設定というのはここからきているのだろう。しかし、大人になるにつれて様々な知識、経験を積んでいくとそれに頼ることに慣れてしまって、いつの間にかこの名付けられない感覚を使う機会を失ってしまうのだ。

「第七官」を見つけるとはどういうことだろうか。自分にとって腑に落ちている状態であるとともに、社会的に他者とも共有できるよう、言葉によって大衆化された状態なのだろう。しかし、大衆化されてしまう時点で、それは第七官とはかけ離れたもののような気がする。目の前に第七官が何か教えてあげようと言ってくる大人がいたとしたら、きっと途中で探すことをあきらめてしまい立ち止まった地点を結論とすることにした、知ったかぶりに違いない。(おっと、誰かに怒られそう、、)

かくいう自分も社会人としての時間があっけなく過ぎていき、自分自身が大衆化されて社会に蝕まれていくことに恐れを少なからず感じている。演劇を始めたきっかけも、(なんかよくわからない)感覚がこのまま退化していくことに対して何らかの対抗手段を持ちたいがために始めたようだった気がする。
もう失われてしまったのかも、けれど取り戻せるのかもしれない。幼い頃に使えていたはずの瑞々しい感覚たち。

第七官が何かをいかにも分かった感じになってきたが、あくまで現在時点として、結論付けることはまだ保留としておこう。

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