何が私の背中を押してくれるか
スタートダッシュが得意な人の背中は、しょっちゅう何かが押してくれていて、、、
そう思ったのは、鹿児島時代に出会った「ぼく」という一人称がなんだか愛らしくて、よく似合う友達と電話をしたあの夜だった。
「ぼく」はその夜私の背中をそっと押してくれた。おそらく「ぼく」も意図せず私は「ぼく」に励まされたので机に向かう選択をした。そして自分のために自分の時間を作った。
「ぼく」は人生の分岐点にいて、露頭に迷っていて、行き詰まっていて、とにかくそんな言葉を並べてしまうくらい自身の人生と真面目に会議していた。
電話を終えようとしたとき「ま、がんばろ」と呟いた「ぼく」はすぐに「でも何を頑張ろう」と前言撤回していた。痛いほど気持ちが分かってしまってどうしようもなかった。
かと思えば、「ぼく、お米大好きなんだよね~。お米と結婚したい」なんてことを言っていた。
私「米なんて何粒もあるよ。選び放題じゃん」
ぼく「ええ~迷うなぁ」
私「やっぱコシヒカリにしなよ」
~二人で笑う~
「よし、じゃ切るか。ありがとね。おやすみ」
言葉を択ばずに言うと、非常に元気が出た。
そうやって私はしょっちゅう何かに背中を押してもらっている。こういう場合は、自己中なのか他己中なのかと考えて、またぐるぐるとただでさえ忙しい頭を回転させる。
自己中であれ他己中であれ、いいや。私は何かに背中ばかり押されていようと思う。
お風呂でいかつい髪をした自分の等身大と向き合った時と、二輪の愛車で田舎道を通るバイト帰り。この時間には感謝してもしきれない。
間違いなく、よく私の背中を押してれる時間になっている。
「お風呂を上がったら、あれもしよう。これもしよう。あれもしたい。これもしたい。」「お家に帰ったら、あれもしよう。これもしよう。あれもしたい。これもしたい。」
そんな時間に出てくるアイデアにいつもの自分の考えは敵わない。
あとはね、ノートの最初の1ページのようなものも私の背中を押してくれる。
だから月の始めや、終わり。四月や、一月。何にでも染まれそうな始まりの時は私が加速する。ノートの最初の1ページのようなものが押してくれた背中に残る感触が消えてしまう前に加速しておく。
一段と綺麗な字で書いてしまうように、うんとはりきって。
色ペンもこだわって配色したくなるように、うんとはりきって。
勿論、食べ物は私の背中を押してくれるが、きっとそれは五大栄養素とかなんかそういう奴らが体の内側から背中を押してくれるているはずだ。
名前も好きな色も知らない無名・無色の赤の他人こそ背中を押してくれることもある。
バイト先に来てくれた小学1年生の男の子は、「れもんのやつください」と精一杯の注文をしてくれた。その子にとって丈の高すぎるカウンターを恨みながら私はカウンターを飛び出し、お友達になった気分でやり取りをした。
「380円です」
男の子はスカスカのリュックを前に持ってきて、裸の千円を出してトレイに乗せてくれた。さっきまで保育園生だった子に「620えんのおつりです」というのはなんだか緊張した。
精一杯ドリンクを作った。一人で歩いて来たというその子に「学校は楽しい?」とこれまた浅はかな質問をしてしまった。大きめに一度うなづいたその子に「何の勉強が好き?」とさっきよりは少し気の利いた質問をしてみた。「じゅぎょうがすき」と返ってきて、22歳と6歳の会話はちぐはぐだった。
他のお客さんの接客を終えてすぐにテラスに出ると、あまりにも小さくてあまりにも大きすぎる男の子の背中が見えた。あの子が明日からもひらがなや数の勉強を頑張る姿を想像して、私の方こそランドセル背負ってスタートを切った気分だった。
ある時はあいみょんで、ある時は帰りがけにあるお宅に咲いた花で。
そんなものたちに背中を押されて、スタートダッシュだけは得意です。
どうも長距離は苦手なようで、走り続けるにはまた別の何かに背中を押してもらう必要があるみたいです。
よろしく、よーいどーん。
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