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題名はいつも、最後に考える

  結局なんだかまとまりのない文章になっているけれど、まあそんなものである。まとまりのある文章はまとまりが求められる場でのみ書かれるべきなんだと思う。

まとまりを求めていない場に、まとまりのあるものが突然出来上がってしまうとこっち(どっちだっていい)だって相当に驚くんじゃないかな。とりあえず、この場はまとまりを求めていない場所なので、まとまりのあるものを求めてやってきた人は違う場所に速やかに移動した方がいいのではないでしょうか。



 少なくとも、僕は6歳の時より知っていることの数が多くなっている。6歳の時の方が知っていることが多いなんてことは考えただけでもあまり良い気はしないよな。とりあえず東京と鹿児島は同じものではないし、日本と韓国は違う国だってことも知っている。何だっていいのだけれど、確実に僕は歳を重ねるに連れて知っていることが増えてはいるはずである。

だけど、それと同時に知らないことが多すぎることも知るようになる。

要してみると、いろんなことを知れば知るほど、知らないことの方が圧倒的に多いことに気付かされる。何というか、いろんなことが分からなくなっていく感覚になるという訳である。これはちょっと困ったものだよなと個人的には思ったりする。


だから、誰かに対して自分の持っているものを「アウトプット」「発信」(とりあえず周りに釣り糸を垂らしてみると、発信!アウトプット!言語化!という言葉がじゃんじゃん釣れる)的に披露するのにはそれなりに勇気が必要になる。少なくとも僕にとって。

なんでかはうまく「(いわゆる)言語化」できないけれど、無理やり「(いわゆる)言語化」するとしたら 

「自分より知っていることの多い人に対して変なことを言ってしまう恐れ」と
「自分より知らないことが多いかもしれない人に対して、自分が変な誤解を与えてしまう恐れ」が、あるからである。とりあえず。

(ここで一つ言っておきたいのだけれど、これを「やらないことの言い訳じゃん」と思った人はもしかしたらその通りかもしれないけれど、きっと僕とは違う星に住んでいる方なので何か息のしやすくなるものを用意しておくことをお勧めします。もし、このまま読むのであれば。)

まあ前者は自分が恥をかくだけなのでそんなに問題にはならない。だけど、後者の方はなかなかに大きな問題だよなと思う。

例えば、僕が今大学院で勉強して得た事(知識とか)を誰かに語るとする。だけど、僕は自分の勉強している分野のことを、世界中の誰よりも知っているわけなんてもちろんない。そりゃまあ、6歳児よりは知っているはずだけど、圧倒的に不完全なまま、不完全な状態で不完全なことを他人に伝えることになる。それはもう、誤解の生まれる余地しかない。さらに僕だって、誤解によって生まれたものをそれと知らずに、知った気でいるなんてことだってある訳だから、誤解のオンパレードになるかもしれない。誤解のオンパレードっていうのは、それはそれで面白くはあるけれど。

だけど、やっぱり自分の中にあるものを外に出す作業をしないわけにはいかない。だからその度に、「ああ、ここでまた誤解が生まれているんだろうな」と思わずにはいられなかったりする。

結構SNSとかで、自分の考えや持っている知識などをビシッと断言して披露する的なものを見かける。一応、「そりゃもうどうぞどうぞ、僕なんか気にせずじゃんじゃんやってください」と思っているけれど。もしも僕のことを気にされるようなことがあれば、それはたまったもんじゃない。


いろんなことを知れば知るほど、知らないことの方が多いことに気づくし、自分が知っていることが誤解の塊であるなんてことも考えられてしまう。それだけ、自分の持っているものは不完全である可能性が高いと思っている僕は、そういうのを見かけるとまあちょっと困ったりするわけである。個人的に。

だけどやっぱり(ここでも、だけどやっぱりを使ってしまっているのはちょっとだけ反省はしている)、断言する必要のある場が少なからず存在するので困ってばかりはいられない。それから、何かを断言できる人の方がなんだか良さそうだなと思ったりしてはいるのである。場面にはよるだろけれど。


PS.
そういえば、「スプートニクの恋人(村上春樹)」で、「理解とは誤解の総体である」と「僕(主人公)」が言っていた。

やっぱり、そんなもんなのだろうか。。


それから、僕はいつも
題名を最後に考えている。