母が【ケの日のケケケ(NHKドラマ)】を教えてくれた

番組ウェブサイト:https://www.nhk.jp/p/ts/4L2QJMZKY1/

母が急に「台詞の一つ一つからなぜか あなたの顔が浮かんできてしまったので知らせたくなってしまった」という連絡を寄越した。NHKの番宣で観た時はあまり興味は惹かれなかったが、母が何かいたく感動した様子だったので、これは見てあげないと失礼だと思って、すぐそこの実家へ録画を見に行ってきた。連絡から20日間のラグはすぐではないが。

感覚過敏の主人公を描きながら、自分の物の見え方や聴こえ方で困難を感じたことのない人が、物の見え方や聴こえ方は実は他人と一緒ではないのかもしれない、という気付きをこのドラマは与えてくれる。私もこの数年で世の中の音がすべて以前より半音高く聴こえるようになってしまったので、やはり正しい物の見え方や聴こえ方というものは誰にも決められないことなんだな、とすぐに理解できた。

このドラマのいいところは、ルールの存在をあくまで否定せず、部活という文化も否定していないところだと思う。ルールをすり抜けるのではなく、ルールに則りながら行動したりルールに疑問を持つ者の支持を集めてルールを変える側になったりする。おそらく十年前なら非公認で活動して、何かの問題が起きて取り潰しになるという見飽きたパターンになっていたはずだ。それは何もしていないのと同じだって分かってるよね? という原作者の声が聴こえてくるようだった。

もしかしたら、見る人の中にはそんなに現実うまく行かないよと思われるかもしれないが、ルールがルールであるということは、その仕様はオープンであって、攻略対象として捉えられている。このドラマは、主人公が学校を攻略するゲームのリプレイ動画でもあるし、実況動画でもある。ボスらしいボスは担任と進藤の先輩・皆見くらいしか居ないように見えるかもしれないが、ハードモードの家庭に比べれば学校なんて攻略は容易いということだ。

ここでヤングケアラーの松木を思い出して欲しい。父と兄が介護を手伝った可能性はあるのだろうか? 母を亡くして「らくになった」と言っていたが、家族との生活は続くし、多分それはイージーモードではない。人生の大半の日常くらい楽に過ごしませんかという主人公の問い掛けは0からプラスにしているように見えて、実はマイナスをプラスでトントンにしているだけなのだ。学校くらいイージーモードにさせろ。このメッセージはもっとあからさまに強調されたって良かったくらいだろう。

さて、母はなぜ私の顔が浮かんだのか? 小学校・中学校を思い出すと、父から「なぜ普通の人と一緒にできないのか」と言われたり、だったらと逆に私が他の生徒と同じように何かをしたいと訴えると「一緒にする必要はない」と言われたりしたような記憶がある。母もそこに居たと思う。「普通」にするメリットは確かにあるだろう。だからこそ「普通」は善意から持ち出される。その善意が苦痛だったのだと、20年越しに教えてあげたらいいんだろうか。それともシンプルに、学校が苦痛だったと告白すればよかったんだろうか。いつだって私たちには何事にもラグがある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?