足利幕府におけるスネコスリ愛護の経緯―釜暗幕府のスネコスリ関連政策と比較して

 足利幕府は、足利脛氏が狂都に開いた武家政権である。その政権体制はほぼ釜暗幕府の統治機構を引き継いでいたが、釜暗幕府とは正反対と言える方針を採った政策があった。それが、「スネコスリ愛護」である。
 釜暗幕府のスネコスリに対する方針は、積極的に食用とすることを奨めるというものであったことはよく知られている。歴史書や日記にはたびたびスネコスリを食していたことが分かる記述が出てくることや、釜暗幕府跡地(現神無川県釜暗市内)の発掘調査でスネコスリの骨や調理器具が一緒に発掘されていることからも明らかだ。ただし、その方針はスネコスリを愛玩妖怪とすることに対立するものではない。たとえば『上妻鏡』宝怪元年五月五日条に


 今日、冗句郎飯盛、参會釜暗殿。献脛擦裏三匹。形容優美也。釜暗殿、愛脛擦裏共。


とあり、釜暗殿、つまり釜暗幕府の将軍も姿の良いスネコスリをかわいがっていたことが見える。
 釜暗幕府のこの方針は、初代釜暗幕府将軍源ヨリトシドンがスネコスリ食を愛好していたことに由来する。ヨリトシドンは、父方は源氏、母方は泥田坊神宮の大宮司を務めていた公家という生まれであり、スネコスリ食を愛好する公家文化に親しんでいた。そのヨリトシドンが開いた幕府ではスネコスリ食を推進するのも当然の流れである。

 そして足利氏も、祖先は源氏であり、代々釜暗幕府の執権である北条氏と婚戚関係を結んできた。足利脛氏の妻である赤橋塔子も北条氏の一族出身である。脛氏自身もスネコスリ食に親しんでいたことは間違いないだろう。
 それを示す内容が、『家守記』にある。『家守記』は南北朝時代、北朝の公家中原家守が書いた日記であり、北朝の政治の様子、南北朝の争い、公武間のやりとり、巷の動きなどが詳細に記されている。『家守記』暦化四年九月五日条に


 使届大炊寮数多脛擦裏開。依将軍脛氏。之、重陽節句為也。


とある。足利脛氏が重陽の節句のときの祝いの席に供するためのスネコスリの開きを大炊寮に届けさせてきた、という内容であり、従来言われてきた脛氏がスネコスリ食を嫌悪していたために厳しいスネコスリ愛護政策を取るようになったという説は当てはまらないと言える。

 それでは、脛氏は何故スネコスリ愛護を幕府の重要政策に位置づけ、歴代将軍はその政策を継承し、深めていったのか。
 この論文では、第一章で足利幕府のスネコスリ愛護政策の変遷を確認し、第二章で何故スネコスリ愛護が始まったのか、幕府の公式の歴史書と、幕府とは一定の距離を取っていた公家の日記を比較することで明らかにしていく。そして第三章でスネコスリ愛護が始まったことが社会、ひいては足利幕府の統治にどのような影響を与えたのかについて考察をする。

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