信号機で語る恋 ~「エッセイスト」さくらももこの天才性

筆者すんどめパターソンは、漫画家さくらももこさんを、エッセイストとして敬愛する。
代表作『ちびまる子ちゃん』をはじめ、さくらさんの作風がエッセイを漫画にしたものであったことは、有名な話である。
その一連の漫画作品もすんどめは好きだったが、さくらさんがまさに字でお書きになったエッセイ作品も好きだった。
その魅力を一言でいえば、彼女は、「信号機で恋を語れる」天才だった。

すんどめは、さくらさんの『ひとりずもう』というエッセイを以前に読んでいる。
ここに、さくらさんの青春時代の描写がある。
すんどめの読んだ記憶が正しければ、さくらさんは青春時代、たまたま路上で見かけた見ず知らずの青年に一目惚れし、それからしばらく片思いをしている。
しかし、相手は自分の存在にすら気づいていない。

せめて信号機ぐらいには、彼から注目されたかった。
止まれ、とか進め、とか、彼に命令してその通り従わせてしまうなんて、信号機ってなんてすごいんだろうと思った。

というような表現があったと記憶している。
すんどめはこの表現に触れ、あまりの切なさに胸を詰まらせた。
若い日の純粋な恋慕という、多くの場合にはただ綺麗な、夢のような比喩でしか描かれないものを、さくらさんは、信号機という最も身近で、最も現実的で、最も具体的なものによって見事に活写してみせたではないか。
これにより、信号機の持つ現実性・具体性と、純情な恋との間の大きなギャップが、恋の成就の不可能性・非現実性を浮き上がらせ、われわれ読者に深く悲しい感銘を刻まずにはいない。
また、赤信号の前で当然に自転車を止め、青に変われば当然に発進する彼の背中を、路上ひそかに見つめていたであろうさくらさんの姿をも、ありありと思い浮かべることができる。
信号機という、子どもでも知っている非常に身近なものを用いることで、文章を究極にわかりやすくする工夫。
見習いたい。

ところで蛇足ではあるが、その後、このうら若き少女の小さな恋がどうなったか、気になる方もあろうから、すんどめの記憶でご紹介したい。
ただし、すんどめの記憶はあてにはならない。
ちゃんとしたことを知りたい方は、ぜひ書籍を購入して熟読を。
さて、若き日のももこちゃんは、面白いことに、彼に対して「失恋」ではなく「片思い終了」をする。
すなわち、はじめはあれこれと、王子様のような妄想を抱いていたさくらさんであったが、やがてその自分の妄想に対し、これまた妄想でもって絶望する。
わたしは一緒にいて楽しい人がいい、王子様のような育ちの人と私とでは話が合わないのではないか、結婚しても退屈な日々になりそうだ、などと考え始めるのである。
恐らく、一時的に盛り上がった恋心がごく自然に冷めたのであろう。
が、若き日のももこちゃんにとって、これは歴とした恋の終わり。
そこで彼女は、「ひとりで泣かなければならない」と考える。
それが青春というものだからである。
ところが彼女の周囲には、ひとりになれる所がひとつもない!
部屋もたしかお姉さんと共同で、とにかくプライベートな空間など何もなかったそうな。
そこで彼女は、ひとりになれる唯一の空間、家の風呂場へ行く。
ところがどうしたわけか、せっかくお風呂に入りながら泣こうとしても、涙が出てこない。
恐らく本質的にはこのとき、彼女は気づく。
いったいわたしは何をしているんだろう。
バカなことばかりやっていて、将来に向けての行動をまだ何も起こしていないではないか。
わたしは漫画家になりたいと思っている。
が、そのための具体的な努力を始めていない。
まわりの人間は漫画家なんて無理だと言ってわたしを笑うが、彼らの忠告を聞いて夢をあきらめ、もし不幸な人生を送ったとしても、彼らは責任をとってくれない。
ではやはり、何か描いて賞に応募するしかないではないか。
突如やる気になったさくらさんは、一作の正統派少女漫画を描き上げる。
しかし、自分で読んでもまったく面白くない!
自分の才能に絶望しかけた、そんなある日。
国語の時間に書いたエッセイが返され、先生の添削を読んで衝撃を受ける。
先生のコメントが絶賛の嵐だったからだ。
まるで清少納言が現代によみがえったようだ、というほどの勢いで褒めちぎられたさくらさんは、大きな希望を与えられ、そして風呂に入っていたあるとき、ついに悟る!
そうか、エッセイを漫画にすればいいんだ、と。
そのときシャワーから流れていたお湯が、さくらさんには五色の滝のように見えた、というような描写があったはずだ。
さらに。

片思いが終わったときにはあんなに泣こうとしても出てこなかった涙が、このときはひとりでにどっとあふれてきた。

うまい。
うまいなあ。
すべてが物語としてつながっており、こちらまでつい涙を誘われる。
この、信号機で恋を語るさくらさんの文章を思うとき、どうしても思い出さずにはいられない映画がある。
『仁義なき戦い 完結篇』である。
敵方のヤクザの幹部から、腹を割っての頼みごとをされ、好条件も提示されたベテランのヤクザ(主人公)が、次のようなセリフを言ったように思う。

信じられんのう。
娑婆じゃぁ青信号でも信じられんワシじゃ。
まして人の心ん中ぁのう……

この映画は、登場人物にその心理を抽象的な言葉でくどくどと言わせるようなことは一切ない。
どこまでも具体的で実際的な会話だけが、簡潔に続いていく。
そうしたシリーズの完結篇のいよいよクライマックスで、わずかに一言、これである。
長く続いたシリーズを通し、主人公の人生とはいったいどんな人生であったのか。
結局どういう人だったのか。
彼の生きた長い年月を、彼自身を、究極まで凝縮することに成功した、秀逸なセリフだとすんどめは思う。
その成功の秘訣は……
言うまでもなく、信号機という子どもにでも分かるモチーフを比喩に用いたからに、他ならない。

信号機にお風呂。
こういう小道具の選び方ができるような表現者になりたい。
さくらももこさんの教えは、忘れない。

(本文中の引用は、すべて記憶によるもので、不正確です。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?