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漫画みたいな毎日。「博愛主義でも平和主義でもない。でも、しあわせだと感じる人々が溢れる世界を望む。」

突然ですが、私は博愛主義でも、平和主義でもはありません。

どちらかといえば、好き嫌いもハッキリしている方だと思いますし、人に干渉するのも、されるのも苦手です。

自分の身近な人たちのことを考えるのに精一杯ですし、自分のご機嫌をとることに日々忙しいのです。自分ができる限り機嫌よく過ごすことが、家族の平和に繋がるから。

しかし、自分の事も含め、〈人間って、愚かで、どうしようもないよなぁ。〉そう思ってしまうことが度々あります。

それでも、ふと思うのです。

「いろいろあったし、これからもいろいろあるだろうけど、なんだかんだ言っても、まぁまぁ、しあわせかな。」

この世界が、そう感じる人々で溢れたらいいと。


その感覚がじわじわと浮かび上がって来たのは、知人が夫の鍼灸の施術を受ける為に訪れたことがきっかけでした。

治療が始まる前にお茶を飲みながら、知人の近況などを聞いていました。

少し前に長年勤めていた仕事を辞めたという知人の話には、終始怒りが込められていました。前職を、辞めるに至った理由、職場の上司や体制への不満や怒り。聞けば聞くほど、お怒りごもっとも、と思いながら彼の話に耳を傾けていました。

仕事を辞めてからも、彼の中の怒りは、未だ収まらない様子です。

「あいつら、あの組織から追い出してやりたい!」

「されたことは、絶対許せない!」

と、彼は強い口調で話を続けます。

彼は、真面目で、まっすぐな人なのだと私は感じています。面倒見も良く、我が家の長男の釣りの師匠でもある。他の同僚を思いやり、職場環境を改善しようと試みたり、口は悪いけれど、恥ずかしがりやで、優しい人だと思うのです。

話を聴きながら、彼の怒りは、何処から来るのだろう?と、ぼんやりと考えていました。


〈自分は、一生懸命仕事に尽力したのに、認められなかった。〉


今は、〈怒り〉という形を纏っているけれど、この事実に、悲しみ、深く傷付いている様に感じられました。

〈怒り〉は時として、原動力に成り得ることもあると思います。「なんで?!」「どうして?!」「あれは絶対におかしいことだ!」「あっちが間違っている!」と何につけても直ぐに怒りの感情が沸き起こる。

かつての私が、まさにそうでした。

その怒りの根源に何があったかと思い返すと、それは〈虚しさ〉や〈自分が受け入れられない悲しさ〉だったように思うのです。

怒りの矛先は、誰かに向いているようであって、実は、自分を痛めつける可能性が高い。

いつも怒っていた私は、しあわせだと感じることをどこかで拒否し、怒っている状態を自分で作り出していたのだと思います。怒りの感情で、周囲をコントロールしようとしていたのかもしれません。そういうやり方しか知らなかったのです。

知人の怒りを目の前にして、過去の自分と重ね合わせながら、彼が怒りを原動力とすることへの限界を感じ、どこかで違うエネルギーへとシフトしていく日がくることを願うのでした。きっとそんな日が必ず来る。


私の場合は、外に向かっていた怒りのベクトルが自分に向き、怒りが自分自身をしあわせを感じることから遠ざけていることに気が付きました。そして、〈自分がしあわせな状態とは、どんな状態なのだろう?〉と考えるようになりました。


夫が〈しあわせ〉について、このようなことを話していました。

「怒りは、能動的に幸せから遠ざかることになる。そして、受動的に不幸せ受け取ってしまうと悲しみが生まれるのかなぁ・・・。逆に、受動的な幸せは、幸運(ラッキー)で、能動的な幸せは、なんだろう?って考えたら・・・小さなことに喜びを感じられることなんじゃないかと、ふと思ったんだよね。」

私から見ると、夫は〈能動的しあわせ〉に近い人だと思います。どんなことも、〈できるだけ、よい方向に受け取ろう〉とする。しあわせが、能動的なものであるのだとすれば、意識して、しあわせな状態に近づくこともできるのかもしれない。夫を見ていると、そんな風に思えてくるのです。

それでも、世の中の不遇だと感じられる出来事、目を背けたくなるようなニュースを目の当たりにするたびに、〈人のしあわせってどこにあるのだろう?〉と私の考えは再びそこに戻っていくのです。

そして、たまに耳にする、けれど私にとっては、とても強烈に感じるこのフレーズが頭に浮かんでくるのです。

「人の幸運の総量は決まっている」

「幸運の全体量は決まっている」

この様な説を聞くたびに、本当にそうなのかな?と疑問に思うのです。

〈幸運の全体量が決まっていて、誰かが幸せになると、自分の幸せが減る。その逆も然り。〉

その説が、もし事実であるとなら、人は、人との関わりの中に何を感じ、何を喜び、何を見出して生きていくのだろう?

その説を信じるとすれば、しあわせそうな人をみつけるたびに、「あの人が自分のしあわせを搾取している」と感じてしまうのではないだろうか。そうであるならば、とてもじゃないけれど、自分以外の人のしあわせを喜ぶことなどできない気がします。

人が〈しあわせだ〉と感じる感覚もそれぞれで、そう感じる事柄もそれぞれだと思います。

できれば、みんな、みんな、しあわせを感じられたらいい。

そして、それぞれのしあわせを大事にしたらいい。

自分以外の誰かのしあわせも、そっと大事にできたらいい。

誰かを恨んだり、蔑んだり、排除したり、そんなことにエネルギーを使わず、自分がしあわせになることに、しあわせで在ることに、目を向けられたら。

きっと誰かのしあわせを羨むこともない。

誰かの足を引っ張ることも、貶める必要もない。

自分の中にしあわせのカタチを見つけたら、他人の在り方に口を出す気にもならないのだと思うから。

自らが、しあわせを感じられる状態で在ること。

ただ、その状態で存在すること。

そんな人々で溢れたら、穏やかな心持ちを手に入れている人がここにも、あそこにいる、そんな世界になるんじゃないだろうか、と考えている自分がいるのです。


私は、博愛主義でも、平和主義でもない。



人間の愚かさを、自分の愚かさを、どうにもならないものだと、感じている。それでも、やっぱり、世界が、それぞれのしあわせを感じている人で溢れたらいいなと思うのです。

絵空事だと言われるかもしれないけれど、しあわせを感じる人々で溢れる世界を望んでいる自分がいる。

幸福の全体量は無限に広がると信じている自分がいる。

みんな、みんな、しあわせになれたらいい。

しあわせを感じられる世界で在れ!




学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!