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活用形、こんな見方が面白い!【カタルシス古典文法①補足】

突然ですが皆さん、古文は好きですか? 好きだという人は、あまりいないのでは。単語や文法事項など、憶えることが沢山あって、苦手意識を持っている人の方が多いと思います。僕は普段、大学の教員養成課程で授業をしているのですが、国語の教員を目指す学生にさえ、古文が好きではない、苦手だという人はかなりいます。

どうしてこんなことになっているのでしょうか。それはひとえに、学んだことが「繋がっていない」からだと思います。活用などを呪文のように何度も復唱したり、語呂合わせを使ったりして憶えた古文の単語や文法。頑張って身に付けたにもかかわらず、それらの知識は断片的で、互いにどう関係するのか、よく分からない。だから、なぜそうなるのかも分からず、面白みが感じられない。もったいないですね。知識は、ネットワークができていないと活きてきません。僕は大学で事あるごとに、学生に対して「今まで身に付けてきた知識を繋げていこう」と強調しています。

先だって公開された「ゆる言語学ラジオ」ゲスト出演動画の第1回、第2回では、「た」と東北方言について、「コネドる」(コネクティング・ザ・ドッツする)をキーワードにしてお話ししました。関係すると思っていなかった点同士が繋がる気持ちよさ。第3回からは、古文の文法について、それを味わっていただきたいと思います。題して【カタルシス古典文法】。この記事は、第3回の動画について補足するものです。動画の視聴がまだの方は、こちらからご覧になった上でお読みください。

【カタルシス古典文法①】

今回は、なぜ古典語の已然形が現代語で仮定形になったのかを説明した上で、助詞・助動詞の接続と意味に関係があるという話をしました。ポイントを簡単にまとめておきましょう。

  1. 古典語では「未然形+ば」が仮定条件、「已然形+ば」が確定条件。
    ⇨「未然形+ば」が無くなったことで、「已然形+ば」が仮定条件に。

  2. 活用の整理の基準は一貫しておらず、複数の観点が混在している。
    ⇨古文に対するアレルギーを生むのは整理がうまくいっていない部分。

  3. 打消・願望―未然形のように、意味的な共通点を持つ表現は同じ接続。
    ⇨受身・使役―未然形/完了・過去―連用形/推量・推定―終止形

それでは以下、動画の内容に関する補足をしていきます。


受験の役には立たない?

今回の【カタルシス古典文法】では、数回にわたり、特に活用について取り上げます。バラバラの知識をコネドりつつ、古典語と現代語もコネドる。それによって、古文の面白さを知っていただく。これが目標です。まさに今、古文の勉強に苦戦している高校生の方はもちろん、古文アレルギーを抱えたまま大人になった方にも、ぜひ話を聞いていただきたいと思います。

ただし、今回取り上げる内容は、いわゆる「ここ、テストに出るぞ」というポイントではありません。教科書や文法書に載っている話も色々出てきますが、複数の事柄に共通してどのような原理が働いているのか、それらがどのようにまとめられるのかなど、周辺的な話が中心です。大人になってからもう一度、古文について考えようという方はともかく、高校生の方は、もっと大事なところがうまく理解できるような説明をしてほしいと思うかもしれません。それで、「受験の役には立たない」話だと言いました。

ですが、本当にそうだろうかとも思っています。周辺的な事柄まで含めて勉強していくのは、要領がよくないように見えますが、それらを知ることで中心的な事柄の意味や位置付けが分かり、理解が深まります。知識がネットワークを結ぶことで抜け落ちにくくなり、新たに得た知識が既存の知識とどう繋がるのかも分かるので、学ぶことが楽しくなる。逆に、中心的な事柄だけを勉強していこうとしても、知識がすぐに抜け落ち、残らない。呪文のように憶えた助動詞の活用は出てきても、それが何だったのか思い出せない。授業で絶対にやっているはずのことをやっていないと思ってしまう。これらはまさに、要点だけを憶えようとした結果ですよね。また、知識同士の繋がりも分からず、学びの楽しさが感じられない。効率のよい勉強の仕方を求めるあまり、かえって効率が悪くなっているのではないでしょうか。自分の志望大学の入試にある科目に絞るという勉強の仕方にも、それを感じます。試験までの短い時間ではやむを得ないところもあると思いますが、長い目で見れば損をしているなと。

「こんなことを勉強して、何の役に立つの?」よく聞かれる言葉ですね。この考えも大事なことだけを要領よく勉強したいというところから起こっていると思います。高校の国語の授業で古典を学ぶ意味は何かという問題が取り沙汰されていますが、これに対しては、人によって色々な考えがあるでしょう。一つには、過去の人達の考えに触れることで、現代に通じる知見が得られるということが挙げられます。ですが、作品の内容だけでなく、使われている言葉の面でも古典を学ぶ意味はあります。日本語が長い歳月をかけて変化してきた結果、現在の姿になっているとすれば、古典語と現代語は、大きくかけ離れているように見えても繋がっている。古典語に由来する特徴が現代語に見られることもあるし、方言にも古語が沢山残っている。だから、古典を学ぶことで、我々が日頃使っている言葉についても理解が深められる。そのことが分からないのは、やはり一つ一つの知識の間にある関係が見えていないからでしょうね。

そもそも、役に立つから勉強するというものでもないと思います。今は何の役に立つのか分からなくても、関係する知識を身に付けていくことで、後になってその意味が分かることも多いはず。知識が次々に繋がっていく楽しさを知れば、学ぶこと自体が喜びになる。何のために、などということは考えない。「ゆる言語学ラジオ」のサポーターコミュニティに集った方々を見ていると、それを強く感じます。役に立とうが立つまいが、興味関心の赴くまま、貪欲に学びを楽しみ、学んだことを皆に話している。

効率のよさを追求したり、意味を考えすぎたりすることで、勉強は無味乾燥なものになってしまう。寄り道や無駄と思われることが学びを豊かにしてくれます。受験勉強とそれ以外の勉強を分けて考える必要はありません。だから、今回の内容は、意外と「受験の役にも立つ」話だと思います。受験勉強を単なる苦行にせず、大いに楽しんでください!

脱線にもほどがある

寄り道や無駄が学びを豊かに…そう言ったものの、少しやりすぎました。皆さんに謝らなければいけません。今回の【カタルシス古典文法】、前後編2回の予定だったのですが、全3回になっています。実は、第1回の動画の内容、ほぼ丸々脱線した話です。台本では、導入として簡単に触れ、すぐ本題に入ることになっていたのですが、想像以上に膨らんでしまいました。これは、パーソナリティーのお二人それぞれとのやり取りによる結果です。

まず、古典語の已然形が現代語の仮定形になったのはなぜかという話。これについては、全く取り上げる予定はありませんでした。堀元さんに、ウォーミングアップとして活用形には何があったかを挙げてもらったところ、「未然、連用、終止、連体、仮定、命令」。古文の話と言って始めたので、高校で習う文語文法(古典文法)の活用形が挙がると思いきや、中学校で習う口語文法の活用形! 出鼻をくじかれつつも、そこは冷静に古文の活用形は少し違うとし、仮定形が已然形になっていることを答えてもらったのですが、話を進めながら思いました。古典語の已然形が現代語の仮定形になった理由が分かっていない人は多い。大学の授業で学生に尋ねても、まず答えられない。これは話をしておくべきだろうと。高校の古文の授業で習ったことには、このようにそういうものだと教えられ、なぜそうなっているのかが分かっていないことが沢山あります(先生はきちんと理由を教えてくれたのに、それが頭に残っていないという場合もあるでしょう)。堀元さんも已然形と仮定形について「そう習った。教科書に書いてあった」と言われていましたね。今回の【カタルシス古典文法】では、このようなことを色々取り上げ、なぜそうなっているのかを知っていただこうと思います。

また、助詞・助動詞の接続と意味が関係しているという話。これについても軽く話す程度で、と思っていたのですが、水野さんの高校時代の話を聞いて、つい熱が入ってしまいました。助動詞の接続を憶えた時に、ある活用形に付くなら意味に規則性があるはずと思った。その観点から考えてみると、未然形についてはうまくいったが、連用形についてはうまくいかず、挫折したと。独力でそこまで辿り着いたのは素晴らしいなと思いました。と同時に、本当にもったいないなとも。連用形についても規則性があるのに、あと一歩というところまで行きながら、「連用形」という用語がよくないせいで諦めてしまった。高校生の水野さんの前に僕がいたら…。遅ればせながら、答えに到達させてあげたい。到達させてあげなければ。そう考えて、丁寧に説明しました。

このように、どちらの内容も急遽時間をかけて取り上げることにしたのですが、おかげで大事な話ができました。堀元さんと水野さんの出方によって、話が予想外の方向へ展開していくことで生まれる面白さ。それが「ゆる言語学ラジオ」の醍醐味だと思います。

ヴォイスは格の調整役

さて、ここから動画で理解が難しかったと思われる部分について説明していきます。受身や使役の助動詞は未然形接続だと話したくだりで、受身や使役は「ヴォイス」という文法カテゴリー(同種の意味を表しつつ対立をなす表現のグループ)にまとめられるとしました。日本語では「態」と訳されます。英語の授業で出てきた能動態・受動態の「態」ですね。「ゆる言語学ラジオ」では初めて登場する用語なので、動画でも簡単に説明しましたが、ここでもう一度、説明しておきます。

動画で水野さんが、ヴォイスは「動作をどの視点から記述するか」に関わる文法カテゴリーだと言われていますが、これはつまり、「出来事に関与するもののうち、いずれを中心にして表現するか」ということです。次の現代語の例で考えてみましょう。

元の文は動作の主体である勇者、受身文は動作の対象である姫、使役文は使役者である王様を中心にして表現しています。これらは、格助詞「が」の付いた形(「ガ格」と呼びます)で示されていますね。

元の文の述語「助ける」に「られる」を付けて受身文にすると、動作主の勇者が中心となるガ格からニ格に格下げされ、対象の姫がヲ格からガ格に格上げされます。同様に、元の文の述語に「させる」を付けて使役文にすると、新たな関与者の王様が使役者としてガ格で示され、動作主の勇者がガ格からニ格に格下げされます。

学生に質問しても答えられないことが多いのですが、格助詞の「格」とは、名詞の述語に対する関係を指します。主体を表す主格、対象を表す対格などの「格」ですね。上で見たように、述語に受身や使役の助動詞を付けると、それに伴って、名詞に付く格助詞が交替します。そのことによって、各々の名詞と述語の関係=格を変え、いずれかの名詞を中心にする。これが受身や使役というヴォイスの表現の働きです。

これと同じように格関係を変えるものとして、可能・自発・受益などの表現があります。これらも広い意味でヴォイスの表現に含まれます。

ヴォイスの表現については、このように説明できますが、受身や使役が一つのグループをなし、未然形に接続するということを理解していただければ充分です。堀元さんは、ヴォイスを知らないので納得感がないと言われていましたが、受身と使役が同種の表現にまとめられるということは、直感的に分かると思います。受身は他者からされる、使役は他者にさせるという意味を持つ表現で、ベクトルの向きが逆と言えますよね。そう考えると、両者が共に未然形接続であることに面白さが感じられるのではないでしょうか(この点で、人物を知らなければ面白さが感じられない「レオ・シラードがスペイン風邪の第一号患者だ」という話とは少し違うと思います)。

なお、古文の受身の助動詞「る・らる」と使役の助動詞「す・さす」には、未然形接続であること以外にも共通点があります。一つは下二段型の活用をすること。もう一つは尊敬の意味も持つことです。高校生の方は、この三つの共通点を併せて憶えておくとよいと思います。

しんがり務めるモダリティ

また、推量・推定の助動詞は終止形接続だと話したくだりで、堀元さんにその理由を聞かれ、一旦、出来事をまとまった形で述べた上で、そこに話し手の判断を加えるからだとしました。この点について、もう少し詳しく説明しておきます。これは言い換えれば、判断の対象となる出来事の内容が出揃った後、最後に判断を表す要素が出てくるということです。次の現代語の例で考えてみましょう。

  • 堀元さんは英語母語話者に説明をさせられていなかっただろう(ね)。

「ゆる言語学ラジオ」名物、Mr. Horimoto案件ですね。堀元さんが英語母語話者から日本語の納得いかない点について質問攻めに遭っていないか気になったが、おそらく大丈夫だと考えている(或いは、大丈夫かを聞き手に確認している)状況を想像してください。日本語では、このように助動詞などの文法的な要素を、述語に次々と付け加えていくことができます。ここまで長くなることはあまりないかもしれませんが、文法的には全く問題ない表現ですね。述語に付く種々の文法カテゴリーの要素については、配列順序に規則性があり、それを図に示すと、次のようになります。

【図】述語の文法カテゴリーの配列

個々の文法カテゴリーの表現について考えると、現代語でも、それらが接続する活用形は、基本的に古文と同様です。

  • ヴォイス(使役・受身)―未然形接続(例:読ませる、読まれる)

  • アスペクト・テンス―連用形接続(例:読んでいる、読んだ)
              ※五段活用の場合は音便形

  • 肯否―未然形接続(例:読まない)

  • モダリティ―終止形接続(例:読むだろう、読むね)

肯否の「ない」を外して考えると、未然形接続→連用形接続→終止形接続の順に要素が配列されます。終止形接続であるモダリティの「だろう」は、テンスの「た」の後にも付くことができ、そこまでに表現された客観的な出来事=命題に対する話し手の主観的な判断を表します。これは、その他の不確実な判断を表す形式「かもしれない」「にちがいない」「ようだ」「らしい」「(する)そうだ」などについても同様です(「た」の後に付けない「(し)そうだ」は例外)。テンスまで表現されれば、出来事としてはまとまった形になるので、「だろう」をはじめとする不確実な判断を表す要素を付けずに言い切ることもできます。先ほどの例で言うと、「~説明をさせられていなかった」で文を終えた場合は断定という判断を表します。何も付けなくても、最後に判断を加えることになるわけですね。このように日本語では、より客観的な意味を表す要素から順に配列され、最後に文全体の内容に対する主観的な判断を表す要素が置かれます。現代語について見てきましたが、これは古典語においても基本的に同様です。古文の推量・推定の助動詞が終止形接続である理由は、以上のことから説明されます。

なお、古文の推量の助動詞のうち、「む」やその打消の「じ」は未然形接続です。これらは、出来事がまだ実現していない、非現実であることを表すもので、そのような出来事が事実とは捉えられないところから推量の意味を生じさせていると考えられます。つまり、これらは本来、出来事自体がどのようなものかを表す形式で、不確実な判断を直接的に表す、終止形接続の推量の助動詞とは性格を異にしていると言えるでしょう。

また、未然形接続→連用形接続→終止形接続(客観的→主観的)の順に要素が配列されるのであれば、テンス・アスペクト(過去・完了)の助動詞が連用形接続だと話す前に、ヴォイス(使役・受身)の助動詞が未然形接続だと話すべきでした。予定では、この順になっていたのですが、水野さんが未然形が打消の「ず」や意志の「む」に付くのは理解できる一方、連用形は用言に付くので、あまり法則性がない、という話をされたので、打消の「ず」などを取り上げた後に、すぐテンス・アスペクトの助動詞を取り上げました。話の順番が前後していると思った方がいらっしゃるかもしれないので、付け加えておきます。

次なる展開は…?

さて、今回の動画では、中学校や高校の国語の授業で教えられている学校文法においては、活用の整理の仕方がMECEではないという話が出てきました。「未然形」「已然形」が意味による名付けであるのに対して、「連用形」「連体形」「終止形」は文中での働きによる名付けになっている。「命令形」は意味、或いはそれが述語となった文の類型による名付けですよね。このように整理がうまくいっていないことで、生徒が理解しにくいものになっている。そういった部分が学校文法には沢山あります。つまずいてしまうのは生徒の責任ではありません。次回以降の動画についても、この補足記事でそんな話をしていきたいと思います。

次回の動画では、いよいよ今回話せなかった本編の内容に入っていきます。先だっての「た」と東北方言の回で、「た」の語源は「たり」、さらには「てあり」に遡れるという話をしましたね。それと関連して、今回は、完了の助動詞「り」の語源が「て」を介さず連用形に直接「あり」が付いた形だという話をしました。これらをはじめとして、古典語では、いたるところで「あり」が活躍しています次回は、この「あり」の活用であるラ行変格活用(ラ変)にスポットを当てます。おっ、ラ変くんがやって来ましたね。では、本人から次回予告をしてもらいましょう!

さ~て、次回の【カタルシス古典文法】は?

ラ変です。「あり・をり・はべり・いまそかり」、古文の時間に憶えましたよね。この呪文、僕の召喚魔法なんです。だけど、そのことを忘れている人も多いようで…。ちょっと切ないですね。もっと皆さんに知ってもらえるよう、頑張らなければいけません。さて、次回は

  • ラ変型助動詞に潜む「あり」

  • 助動詞の意味に「あり」の存在あり

  • 消えたラ変と仲間達、どこへ行った?

の3本です。

次回もまた、見てくださいね~。ンガググ(今の若い方々には「じゃんけんポン!」がお馴染みでしょうが)。

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