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両親と過ごす今年の夏、お盆

母が体調不良で具合が悪くなり、先月から1週間くらいの入退院を繰り返しています。
元々のメニエールの疾患があったのですが、このところの気候に体がついていかれず、体調を一旦崩してしまったら回復が難しいみたいです。
体力がなくて無理が効かないのと、入院中はステロイド剤を点滴していたので、自宅にいる間はコロナ感染にはとにかく気を使ってます。

母の入院中と自宅療養中、父も家事をやっているのですが、3日に1度は私も様子を見に行って、買い物や掃除の行き届かない場所のお掃除を手伝ってきます。

明日からお盆です。

祭壇を作ったりご先祖さまの送り迎えの準備をするのも、体が動かなくなると細々したことが大変そう。
祭壇のお花の水を変える事だって体に問題がない時はなんでもないことでけど、今はどれもこれも改めて見ると大変そうなことばかり。

「もう、出来ないことは少々手間を省いったってご先祖さまは怒んないよ。
毎日毎日、お線香あげて手を合わせているんだもの、もし自分が仏壇の向こう側から見守ってるって想像してみなよ、迎えてくれるだけで嬉しいなって思わない?」

って父に言ったら、だまーーってました。(🤪)

ふざけてる訳じゃなくて、仏教徒であれ神道であれ、いずれの信仰にしても信じる心が大事だと私は考えています。

仏式行事と思うから形式を重んじて堅苦しくなってしまうけど、要は自分の親やおじいちゃんおばあちゃんの「たましい」が自分と共に生きてると感覚的に感じられてるなら十分だと思う。
ご先祖さまの生前を偲ぶことと、ご先祖さまが繋げてくれた私の今日の命を大切に生きることが大切であって、それが仏教の供養っていうことだ思ってます。

死んでる人が大事なんじゃなくて、今生きてる人が大事。

日本は信仰の自由が認められている以上、両親の信じてきたものや、昔からのしきたりや行事を守って来てくれた生き方を尊重するし、そういう生き方を両親が大事にして来たことは立派だと思います。

見ている限り仏教の規範を守ることが重要になってしまって、「こうでなくてはいけない」と縛られてしまうところが悲しいなぁとも思います。

と反発しつつ、気がつくと両親がやってきたことや風習文化や行事ごとも子どもの頃からお手伝いしたり彼らの後ろ姿を見てきてるから、自分もお盆に迎える支度があれやこれやと出来ることに、継承ってすごいなって思う。

両親を気遣いながら、たわいもないことをワアワア言い合ってる日常も、いつかは懐かしく思う日が来るんだろうか。
あの時によくやり方を聞いておけばよかった、と思う日は来るんだろうか。

と、少しさみしさも覚える今年のお盆です。


ご先祖さまはあの世から帰ってくるし、県外から久しぶりなお客さんも来るし、帰ってくる側も迎える側も、懐かしくて賑やかな田舎のお盆です。





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