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やりたいことがない

意思決定において「やりたいこと」を重視しろ、と言われることが多いですよね。説明が面倒なんで、僕も「やりたいこと」をやれと言います。実際は「命懸けでできること」が大事だと思っています。それが「やりたいこと」でなくてもいい。よく対比に出るのが「やるべきこと」ですが、どっちにしろなんにしろ、命懸けでできていれば大して問題にはならないです。

僕は東大中退でITベンチャー出身ですが、岡山の山奥で森林管理の仕事をしています。この経歴だけ見たひとには「さぞいろいろやりたいことがあって辿り着いたのですね」みたいなことを言われます。全くそんなことはありません。細かいことは省きますが、基本的にずっと流されて生きています。特段、これをやりたい!と思ったことはないです。

でも、人生については自覚的でいたい、という欲求はあります。どうせ死ぬのだから、命懸けで生きていきたい。死ぬ前の5秒も、いまこの瞬間の5秒も、きっと同じ5秒で構成されているはず!と、意識して生きていきたい。全然実践には程遠いのですが、こういう欲求はけっこう強いです。何もせずとも、時間の経過自体が常に命懸けなのだから。

こういう話をすると「やりたいことがない人生なのに、命を懸けることなんてあるの?」と怪訝な顔をされます。確かに、一見すると矛盾しているようですが、これはシンプルに「やることに命を懸ける」ことで解決されます。もちろん、これには「やりたいことじゃなくてもやる」という補則がきます。でもやりたいことがないので、どうでもいいことです。

やりたいことがない自分にとって「それがやりたいことであるかどうか?」という問いは意味を持ちません。しかし一方で、「それはやることであるかどうか?」という問いは実践的な意味を持ちます。これが「やることに命を懸ける」ことの良いところです。

「やりたいことに命を懸ける」場合は、やりたいことが存在しない場合、行動の指針が立ちません。そして、やりたいことを持っているひとは、そうそういません。待ち受けているのは「やりたいことを見つけることに人生を割かなければならないが、その『やりたいことを見つけること』自体はやりたいことでは全くない」という地獄です。避けるべきルート。

やりたいことがあれば別ですけど。まあやりたいことがある人は、こんな問答など気にせずにやりたいことをやっているので、無意味な想定です。

しかし、「やることに命を懸ける」の場合は、自分の意識とは無関係に、命懸けであるべき対象が自動的に生成され続けます。人間は、存在し続ける限り、何かしらを「やる」以外の選択肢はありません。例えば「何もしない」場合においても、それは「何もしない」に命懸けであれ、ということになります。時間がある世界に生まれた以上、詮無いこと。

では「やること」をどう決定するか。何だっていいんです。やりたいことがないのだから。その意味で、やりたいことがあるひとよりも自由です。もちろん、やりたくないことがあるなら、やりたくないことを避けてもいい。仮に決定しないとしても、それは「決定しない」をやることになるのだからひとつの決定です。そこに対して、命懸けであれば大丈夫。

なんていうか「やりたいこと」を持っている人たちは輝いてるんですよね。だから憧れたりもする。分かる。僕もいつか新しく「やりたいこと」が出てきてそれを目指すかもしれない。それでもいい。でも別にないうちは、それを探すことよりも、とりあえずその瞬間に命懸けておく、みたいな感じで気軽に命懸けで生きることが僕の「やりたいこと」です。

ルフィがドッカンバッカンやってる隣で、村人Cみたいなやつが覇気持っててもいいと思うんだよね。

やりたいことがなくても、命懸けでやることはできる。
生まれてきたくて、生まれてきたわけじゃないですから。

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