最終話「終点」上
美しい燦爛たる秋の山々が並び、少し肌寒く感じるそよ風が吹きつけている。
けれど太陽に当たれば、その暖かさによってとても過ごしやすい天気ともいえた。
そんな山道をゆらりふらりと、木漏れ日の下を一人で歩く若者がいた。
二十歳前後といった所だろうか。
紅葉を見に来たにしては軽装、リュックも背負わず手ぶらで歩く彼を、すれ違う人達は不思議そうに見つめながら通り過ぎていく。
若者が今居る場所まで来るには、麓から最低二時間程はかかる地点だった。そのため、周囲の人々は変わり者を見るような目や心配そうな目で、警戒心を抱きながらも、通り過ぎていく彼の後ろ姿を見つめていた。
だが、誰一人として、ここまでの道程を軽装で来た彼に対し、優しく声を掛ける者は居なかった。
紺色のベレー帽に、白い長袖、黒色のジーンズは、紅葉の山道で異彩を放っていた。まるで街中を歩いているのと変わらない風貌は、別の場所から無理矢理飛ばされたのかと思う程に違和感を覚える。
それでも、若者は周囲の人達を気にする様子もなく、自分のペースで歩いていた。時折り、頭に乗せているベレー帽を取っては、その中を覗き込む仕草を見せながら。
山頂へと向かうのであろう山道の途中、気が付けば若者以外の人は居なくなっていた。道中にある散歩コースで基本的には皆が曲がってしまうためか、山頂へと続く道へと歩く人は少ないようだ。
若者は葉に囲まれたフレームのような視界の向こうに広がる都会を眺めた。人々が居るのだろうが、細かすぎて見えない。辛うじて車の行き来は確認できるが米粒程度である。
若者は見飽きたニュース番組を見るような面持ちで、つまらなさそうにため息を吐くと、再び山道を歩き出した。
枯れ葉とまだ青々とした落ち葉が混ざり合う地面に目を向けていると、木々の間を一筋の光の道が若者の視界に映り込んだ。
木の葉が揺れるたびに光もまた揺れ動き、道は幻想的な雰囲気に包まれている。
「……」
周囲を見回し人が居ないことを確認すると、彼は人工的な道から整備されていないその煌めく道へと入って行った。足元に出来る木漏れ日を観察しながら、彼はどんどん奥へと進んでいく。
目的地もない彼は、山に誘われるように一歩、また一歩と、落ち葉を踏みしめる。
目印も付けずに三時間ほど歩き続け、歩き疲れた彼は開けた場所へと出た。
太い立派な大樹が立っているが、それを中心に周囲の木との距離がかなり開いている。ひとりぼっちにも感じるその大樹へ若者は近づくと、大樹を悲しげに見つめた。
大人が二人、いや、三人手を繋いでようやく一周できるほどの太い幹はどれ程長い時をこの場所で生きてきたのか想像も出来ない。
ゆっくりと大樹の下に腰を下ろしてようやく若者は一息ついた。地表に出ている大樹の根を優しく撫でながら彼は小さく呟く。
「さすがに疲れたな……、いや、ここまで歩くとは思っていなかったよ。少しだけ休ませてもらおうかな」
ため息をしながら大樹にもたれかかり、彼は仮眠をとった。
木の葉の重なり合う音とともに、目を瞑り眠ろうとする彼の頬を、優しく心地良い風がそっと撫でていく。
「……お前はやさしい人間だな」
夢うつつ、意識もぼんやりとしている中、もたれかかる大樹の中から不思議な声が聞こえた。
一瞬、彼は目を少しだけ開けて驚いてみせたが、また何事も無かったかのように再び仮眠をとろうとした。
ただ、先程の声がやはり気になるのか、彼は声の主に問いかけた。
「えっと、僕のことを言っているのかな?」
多分、空耳だろうと何の気なしに呟き、彼は誰も居ないのに何をしているのだろうと少しだけ微笑んだ。
「……他に誰が居るんだ?」
彼の問いかけから少しだけ間が開いてから、先程の、響き渡るような重低音の声が、彼へと質問を投げ返した。
彼は見上げて大樹の揺れる木の葉を見つめた。
「もしそう思うならそれは誤解だよ。僕は優しくなんかないからね」
悲しげな瞳を隠すように目線を落とし、彼は返事をした。頬を撫でるようなふわりとした風が、思い詰めた表情の彼を優しく包み込む。
かさかさと音を立てる葉の隙間から光が差し込み、彼は帽子を、視界を遮るように顔へと被せた。
「そうか、なら他所へ行ってくれないか? 俺は優しくないやつは嫌いなんだ」
嫌悪感も無く響くその声に、彼は軽く微笑みを浮かべた。
「歩き疲れてしまってね、少しの間だけでも休ませてくれないかな?」
大樹は「うぅぅ……」と低く唸り、嫌悪感を露わにする。それに対して、彼は残念そうに続けて話しだす。
「駄目、か。うん、邪魔をしてごめんね。すぐに立ち去るよ」
「待ってくれ」
「……?」
重い腰を持ち上げて帽子を被り直す。服に付いた落ち葉を軽く落とす彼に、大樹は提案を持ちかけた。
「ゆっくりしていくなら、休む代わりに何か話でもしてくれないか? 毎日ここに居ることに飽きているんだ」
「話?」
「何でもいい。楽しい話でも悲しい話でも、物語を聴かせてくれ。何十年もこのままで面白いことが何もないんだ。誰も話し相手が居ないから、時々羽休めをしていく鳥達と少しだけ話をするくらいなんだ」
無機質だが、大樹は悲しそうに語った。
彼は少しの間、目を瞑って考えた後、申し訳なさそうに大樹に謝りをいれた。
「ごめん、そういった話は持ち合わせていないんだ」
帽子の傾きを少しだけ直し、彼は次の行き先を模索していた。
休む為の代わりのものが無いのだからここから離れるしかない。彼は山頂まで登ってみようかと思い立つ。そして、くしゃりと落ち葉が音を立てる。
「なら、お前の話をすればいいだろう」
大樹の提案は歩き出した彼の足をその場に留めることに成功した。
「えっと……僕の話を?」
彼は反転して大樹にそう話しかけた。
「そうだ」
「…………」
彼が考え込む間、辺りには木の葉の擦れ合う音だけが響いていた。彼は一点だけを見つめ続けたまま微動だにしない。
「お前の話も無いのか?」
彼は地面に生える一つの花をじっと見つめていた。そのまま数分間、周囲には木の葉の音のみが聞こえ続けていた。
「うん、そうだね、一つだけ……あるかな……」
ようやく開いた彼の口調は少し重たげに感じる。だが、大樹にはそんな人間の繊細な感情の変化は解らないのか。
大樹は少し嬉しそうに彼へと話しかけた。
「おお、あるのか、ぜひ聴かせてくれ」
「僕の事ではないんだけどね、ある青年の話をしようか」
「ぜひとも」
「それじゃ、君の体を少し借してね」
そう言うと、彼は程よい高さの根っこに頭を預けて横になった。
「これまで何度も人を救ってきた青年が居た。自分よりも他人を優先して、困っている人が居れば助ける。一円の得にもならないし、何かお礼が返ってくるということもなかった。それでも、青年はずっとその行動を繰り返していたんだ」
「ふむ」
「それでね、なぜそんな面倒な事をするのかと、尋ねられた事が何度かあったんだ。青年は過去の清算をしていると答えた。傷付けてしまった人たちがいるから、その罪を償うためにと、固く決心していたよ」
「ふうん、人間とは面倒な生き物なんだな」
「あはは……、僕もそう思うよ」
大樹の感想に笑う彼は、話の続きを自然に語り始める。
「それでね、青年はある日、恋の相談をされたんだ」
「恋とはツガイになることか?」
「ツガイ……」
ツガイという言い方に彼は一瞬止まると、不意に笑った。
「何故笑うんだ?」
「ごめんね、ツガイなんてあんまり言わないからさ」
大樹は少しの間黙ったまま彼への返事をしなかった。
拗ねたのか怒ったのか、彼はあまり気にしていない様子で目を瞑っている。
風は心地良く流れ続けている。あまりの気持ちよさに、若者の意識が遠のいていく。
「……」
「まあいい、それで、続きは?」
気持ちよく眠りにつく手前、大樹の声に彼はハッとして、軽く咳払いしてから続きを話し始めた。
「他愛のない話だよ。青年は相談者の答えをすぐに見つけることが出来た。青年はその答えを相談者に伝えた。すると、相談者はその答えを放り捨てた。言葉は宙を舞いながら砕け散っていった。相手の為に紡いだ言葉は無残にも捨てられたんだ」
彼は掴んだ枯れ葉を手の中で握り締め、言い終わると同時に手を開くと、粉々になった枯れ葉が宙を舞っていった。
散り散りになった枯れ葉が元の形に戻ることは一生無い。砕け散った破片は元には戻れない。
「なぜ相談者は青年の言葉を捨てたんだ?」
彼は呼吸を整えるように、静かに深呼吸をしてから質問に答えた。
「簡単な理由だと思うよ。青年は恋というものを知らなかった。恋という感情、恋をした時の心を理解したことがなかったんだ。経験の無い者に語る資格なんてない。恋をしていない人に助言されたら、恋をしている者としては素直に受け取れないだろう。自分の方が経験があるんだからね。それも近しい年齢の人間に言われれば素直に飲み込めないだろう?」
「ふうん、人間は複雑だな」
「複雑すぎて解けないし分からない。人間って面倒なんだ。一緒に居るだけで疲れるよ」
「お前もその人間だろう」
大樹の言葉に心地良さそうに寝転んでいた彼の表情は一瞬陰りが見えたけれど、大樹がそれに気付くことは無い。
「そうだね。だから人間を辞めようかと思ってね」
彼は皮肉を込めて不敵に笑っているが、大樹はその言葉に対して真剣に問いかけた。
「お前は人間を辞めて何になるんだ?」
「辞めたあと?」
「ああ、そうだ」
人間を辞めた後、何になるか。辞める時点で次は無い。命を代償に人間を辞めるしかないのだから、次は何になりたいかなんて考えもしなかった。
「次、かぁ…………」
彼は虫や草木、動物、色々なものを思い浮かべたけれど、答えは出せなかった。
「何になるか、か。うーん、僕は逆に何になれるんだろうね」
「お前たち人間は自由だ。地上を歩ける、海を渡れる、空を飛べる。何処でも自由に生きられるじゃないか。何にでもなれるだろう」
「……そう、だね。考えてみるよ」
ぎこちない微笑みをしながら彼は頬をかいた。人間を辞めるということが死ぬことだということに大樹は気が付かない。生と死の関係を大樹は知らない。
「まあいい。それで、その青年はどうしたんだ?」
「えっと……」
その問いかけには間が生じた。
揺れる葉をじっと見つめたまま、ゆっくりと時間だけが過ぎていく。ゆらゆらと一定の感覚で揺れる葉っぱが一枚、ひらりと風に乗って飛んでいく。
人を変えることはできないけれど、誰かの心に刺さるように、私はこれからも続けていきます。いつかこの道で前に進めるように。(_ _)