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たかはしを量産すな

7月20日(土)の昼

ティーバーをみてると必ず、価値観で出会うマッチングアプリ「ウィズ」のCMがススっと流れてくる。しかもそのCMは全部で4パターンぐらいあって、CMソングも別々にある。価値観での出会いに力が入っているなウィズ、と思いながらみている。

初々しさのさめやらぬカップルを、このままふたりの幸せが続いていてほしいな、とぼんやり願う。

ただし、幸せが続いてほしいとは言ってみたものの、恋は楽しいこともあれば悲しいこともある。怒りもつらみもひっくるめて恋なのだ。恋って職人が綿密につくりあげて作ってくれたハンコみたいな「恋」じゃなくて、なんか、なんか、朝顔に水あげて様子みるみたいなああいう感じがする。

そういえば、小学生のときに育てろと先公から命を受けセッティングした朝顔は、夕方にはもう枯れていた。あのときのわたしに恋を育てる力はなかった。

でもこのCMソング、歌詞の中に「恋の国」というフレーズがあって、まだかさんもわたしも「そいつはどうなの」と思った。恋は恋の国が建国してから生まれるものではないのだ。

7月21日(日)の昼

まだかさんと助六寿司を食べながらテレビを見ると、横山由依が出ていた。
わ「この人、AKBの人だよね」
ま「そう。横山さんはね、あの人、高橋…」
わ「ああ、高橋一生?」
わ「あ、高橋海人だ」
わ「あ、わかった、高橋克典かな?」
高橋姓で思いついた高橋をあげていったところ、

ま「うるさいなー。たかはしを量産すな。」
という回答だった(正解は高橋みなみであった)。

このときの自分は、日本各地に点在していた高橋を厚木に引き寄せる「口寄せ巫女 たかはし」だったと思う(こういうスナックありそうだな)。私はもう知らんうちに恋の国に足を踏み入れていたのか。

たかはしの量産をやめろ

7月23日(火)の昼

ブランキージェットシティの浅井健一が3ヶ月だけやっていたというラジオ、聴いてみたら彼、とても気さくで面白い人だ。ちょうど中村達也がゲストの回で、達也いわく「浅井さんは面白いんだよ」。ベンジー「達也は三番目だね」とのことだった。照井さんが一番面白いそうだ。よく浅井さんを称してピュアと言われることが多いと思うのだけど、そのピュアたるゆえんをベンジーの生の声と紡ぎ出される言葉から感じられて、楽しいラジオだった。

やっぱり声っていいよな。このまま人のからだが消え失せて、「人間は声だけで存在するいきもの」なんかになったらいいな。そしたら、人はその人をどのように想像するのだろうな。

その流れで「悪いひとたち」という曲のことを思い出し、同じようなタイミングで谷川俊太郎の「がっこう」という詩を見つけた。自分の中ではこのふたつはなんか似ていたのだった。

がっこう

がっこうがもえている
きょうしつのまどから
どすぐろいけむりがふきだしている
つくえがもえている
こくばんがもえている
ぼくのかいたえがもえている
おんがくしつでぴあのがばくはつした
たいくかんのゆかがはねあがった
こうていのてつぼうがくにゃりとまがった
せんせいはだれもいない
せいとはみんなゆめをみている
おれんじいろのほのおのしたが
うれしそうにがっこうじゅうをなめまわす
がっこうはおおごえでさけびながら
がっこうがもえている からだをよじりゆっくりたおれていく
ひのこがそらにまいあがる
くやしいか がっこうよ くやしいか

谷川俊太郎「がっこう」

せかいをぶちこわしたいという気持ちを、実際に行動に起こすのではなく、言葉でもって昇華させていく。

ただの文字の羅列なのに、読んでいるひとたちがみんな、心の底にたまっていた何かを満足させることができる。

ここにはそんな力があるような気がする。

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