シャーベッツの時計

 この程度ですんだなんて奇跡じゃない? お見舞いに来た人たちは口をそろえてそう言った。右足の骨折に数か所の打撲。全治三週間なので決して軽い傷ではないが、それでも幸運としか言いようがない。何しろ乗り合わせていた夜行バスが谷底へ転落したのだから。少なからずの人が亡くなってすらいるのだ。親友の菜月は半ばあきれたような顔で言った。あんたって、ほんと、どこまでラッキーなの。まるで神様に守られてるみたい。
 そう、あたしのこれまでの人生は、すべてがラッキーだった。何かしらふっと都合のいいことが起こって、どんなことでも結局うまくいくのだ。先日受けた映画のオーディションもコネも何もないのに一発で合格。意識が戻って、いちばん最初にしたことが、鏡で顔を点検したことだ。女優としてこれからというときに、大事な顔に傷でもつけばすべてが台無しになる。むろん顔は無傷で、あたしは胸をなでおろした。ただ、転落の際にぶつけたらしく、ときおり頭が痛んでぼんやりして、過去のことが思い出せないことがある。それが少し気がかりだった。医者によると、一時的なものなので心配はないとのことだ。きっと大丈夫。あたしは神様に守られているのだから。事故で死んだ人の写真を新聞で見た。どれも笑顔なのがかえって哀れだった。彼らはきっと自分がなぜ死なねばならないのかわからないまま死んでいったのだろう。運のない人って、ほんとうに、かわいそう。
 入院して数日後、ベッドで雑誌を読んでいると、仕切りのカーテンにふわりと影が起きあがるのが映り、端から白い腕がのぞいた。隣のベッドの人らしい。「よろしければどうぞ」。差し出されたお菓子をお礼を言って受け取ろうとしたとき、手首に巻かれた時計に気づいた。ピンクの文字盤に「SHABETS」のロゴ。懐かしかった。学生の頃、女の子の間で大流行した時計だ。あたしも欲しかったけれど、どの店も品切れで結局手に入らなかった。お菓子を口に運んでみると、控えめな甘さが絶品だった。うれしくなって、カーテン越しにしばらく話をした。彼女も例のバス事故の犠牲者とのことだった。声が不自然にくぐもっているのが気になったが、感じのいい人だった。年齢もあたしと同じだったせいか、話がはずんだ。翌日から、彼女は毎日、あたしにお菓子をくれるようになった。そして、消灯時間までカーテン越しにいろいろな話をした。
 何日目だっただろう。いつものように彼女の手からお菓子を受け取る際、時計の文字盤のガラスが割れていることに気づいた。そして、針がいつも同じ時間を指していることにも。三時十四分。バスが谷底に落ちた時間だ。なぜそんな壊れた時計をいつまでもつけているのだろう。とたんに、頭がすごく痛くなった。シャーベッツの時計をつけたその白い手首を昔どこかで見たことがあるような気がしたのだ。あたしは手を伸ばしてカーテンをめくろうとした。やめて!。鋭い声とともにカーテンが乱暴に閉じられた。一瞬だけ垣間見えたのは人の顔ではなく。ぐるぐる巻きにされた包帯の隙間に光る二つの目だけだった。同い年の女の子が顔を怪我。かわいそうだと思う前に、自分のラッキーさに感謝した。その白い手首をどこで見たのかどうしても思い出せなかった。床にお菓子が動物の死体みたいにいつまでも転がっているのが気になったが、ベッドから出られないあたしには拾えない。
 その夜、夢をみた。あたしは大学のキャンパスを歩いていた。少し離れた木の下に女の子が立っている。白い手首にはシャーベッツの時計。顔ははっきりしないがすごい目であたしをにらんでいるのがわかる。彼女はあたしが嫌いなのだ。あたしに負けたくなくて、あたしがどうしても入手できないシャーベッツの時計を定価の何倍ものお金を払って手に入れた。でも、彼女の名前も自分との関係も何も思い出せない。もどかしさに狂いそうになったところで、目が覚めた。鼻の先にふたつの目が揺れている。包帯ごしに熱い息があたしの頬に触れる。あたしにしたこと、覚えてるわよね?。くぐもった声と同時に、ロボットみたいに伸ばされた手があたしの首に巻きつきしめあげてくる。身をよじろうとするが、つり下げられた右足が空しく揺れるだけ。息が苦しい。あたしが彼女にしたことって、いったい何?。必死で考えても思い出せないまま、頭がぼんやりするだけだ。自分がなぜ死なないといけないのかわからないまま死ぬ。神様に守られているこのあたしが? 意識が次第に遠のいていく。こんなのありえない。あたしはどんなときでもラッキーなはずなのに。

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