【小説】ルカがはじめて世界を憎んだ日(#1)
もしかすると、あたしの声は他の人とは違ってたとえば、犬にしか聞こえない特別な周波数なのだろうか。
もしくは、あたしのしゃべることばは自分では日本語のつもりだが、口から出る段階で、幼児みたない、ばーとか、あぱあという意味のない音に何らかの力によって変換されているのかもしれない。
その疑念がルカの頭に浮かんだのは、小学校五年の夏だった。物心ついて以来何度もそういうことがあったのだが、法則としてルカが認識したのはその時、つまり、焼き場で骨が焼けるのを待っている時だった。死んだのは親戚の一人で、会ったこともない人だ。「ケイスケさん」と呼ばれているので男の人なのだろう。
焼き場に併設された安っぽい食堂で、ルカは、気が変になりそうなほどの退屈にひたすら耐えていた。
隣には母親がいて、少し離れたテーブルの端に父がいた。いつもそうであるように、父と母はこういうときに絶対に並んで座らない。目の前の、フレームがばかでかい眼鏡をかけたハゲのおじさんだけが見た記憶があるが、他は全部知らない大人ばかりで、家のローンがどうとか健康診断の数値がどうとか、上の子どもの何とかくんが、え、もう大学生?早いねえ、こっちが年いくはずだわ。とか死ぬほどどうでもいい話が飛び交っていた。
おりに入ったお弁当が並んでみんながそれを食べ終わってもう終わりだと思っていたのに、続いていくつもの大皿とビールの瓶が運ばれてきた。ルカの近辺の皿は、どれも、黒い豆や芋やレンコンの煮たのや甘くねとねとする小魚といったおせち料理みたいにまずそうな品ばかりだった。さっきのお弁当はべたべたしたご飯がまずくて大半残したのでルカはまだお腹が空いていた。ウインナーや卵焼きなどの子どもの好みそうな皿は、向かいの白いマネキンみたいなおばさんが自分の娘用にキープしていた。ルカの母も焼豚や唐揚げ、焼き鳥の皿を抱え込んでいた。ただ彼女の場合は、娘であるルカに与えるためではなく、自分が食べるためだった。ルカの母は、獣肉類を異常に好んだ。マネキンおばさんの娘はルカと同い年くらいの女の子だった。背中まで垂れた長い髪は美容院できちんと手入れされているのだろう、見るからにやわらかかそうでつやつやと光り、喪服としてあつらえられたと思われる黒のワンピースは高価そうだった。ルカは小学校の制服だった。みんな洗濯のために二着以上持っているのにルカは一着しかないので、ずっと着どおしでよれよれだった。
「ほら、ミクの好きなウインナーあるよ」
おばさんが、ウインナーをミクというらしい娘の皿に乗せた。ミクちゃんは、当たり前みたいなすました顔でウインナーを口に入れた。ルカもウインナーが食べたかった。ルカの前の皿にはルカの母によって放り込まれた、里芋、レンコン、高野豆腐という坊さんのおかずのような地味なラインナップが山盛りになっている。ルカの母はといえば、ウインナー、唐揚げ、エビフライを自分の皿に山盛りにしてくちびるを油だらけにしてぱくついていた。ルカが食べたいものではなく、自分が食べたくないものをルカの皿に放り込んでいるのだ。
里芋を箸でつまんで少しかじってみた。水っぽい食感と生臭い味が気持ちが悪く。そっと皿の上に吐き出した。あわてて母の方をうかがうが、新たに運ばれてきたローストビーフをゲットしようと必死の母はルカなど見ておらずほっとする。ふと顔をあげると、前の眼鏡のおじさんがにやにや笑いながら、
「ルカちゃんは何が好き? 食べたいものを言ってごらん。おじさんが取ってあげる」
寝ているのではないかと思えるほど針のような細い目が、ルカには仏のようにやさしく映った。名前も自分との関係すら知らないが、おじさんは狭い食堂にひしめく数十人の人間の中で、ただ一人、ルカの存在に興味を示し、声をかけてくれた。ルカはうれしくなり、勇気を出して「ウインナー」と答えた。授業で当てられたときのように声も震えずにはっきりと言えた。なのに、
「この子ね、ニンジンが好きなの」
なぜか母が横から口をはさんできた。するとおじさんは、「そうか、ニンジンか」と、野菜の煮物の皿から、ニンジンをつまんでルカの皿に載せた。自分のことばは誰にも理解されないのではないか。謎の現象をはっきりとルカが認識した瞬間だった。「ウインナー」と答えたルカの声は絶対におじさんに聞こえていなかったはずはないのに、おじさんは、それを「なかったこと」にして、母の答えを採用し、ルカにニンジンを与えたのである。そもそもルカはニンジンを嫌いというわけではないが別に好きでもないし、そんなことを口にした覚えもない。母は自分の都合のいいようにルカの性格や嗜好をねつ造する。
少し明るくなったルカの気持ちはまた沈んでしまった。ルカは、目の前の皿のニンジンをかじったり、窓の外をぼんやり眺めて時間が過ぎるのをひたすら待っていた。一人で黙っているのはルカだけだった。ぼんやりしているくらいなら本の続きを読みたかった。どこに行くのにも本を持ち歩くルカのリュックには三冊の本が入っていたが、今読むときっと母が怒る。「私は幽霊を見た!」「UFOと宇宙人」「地獄の子守歌」という三冊は、ルカが読む本のほとんどに気持ちが悪いと顔をしかめる母に見られた場合を考えて配慮して、おとなしめのラインナップをチョイスしたつもりだった。
窓の向こうの、コンクリートの壁の建物のてっぺんにある煙突から、薄く煙が出ているのが見えた。「ケイスケさん」のからだを焼いた煙だ。ルカは鉄の扉の向こうに「ケイスケさん」の棺桶がすべりこんでいく情景を思い出した。他にも鉄の扉がいくつかあったのであの煙は「ケイスケさん」だけではなく他の人も混じっているのだ。時計を見ると、一時半だった。係のおじいさんが鉄の扉を閉めてから、もう一時間以上が過ぎていた。
人間の体を燃やすのに、それほどの時間がかかるなんてルカは想像していなかった。「地獄の子守歌」で炎の中に放り込まれた罪人は次のコマでは骨だけになっていたのだ。
さっきまできげんよくウインナーや唐揚げを頬張っていたミクちゃんもさすがにお腹がいっぱいになってすることもなくなったのか、退屈そうな顔で大きな目をくりくり動かしている。マネキン顔の母は、向かいのおばさんと演歌歌手の話をしているし、左の父親はビールで顔を真っ赤にして隣のおじさんとGNPとか不動産価格をめぐる議論に熱中している。どっちの話もミクちゃんの興味をひくわけはなく、ミクちゃんは、ヒマをもてあまし、両脚をテーブルの下でぶらぶらし始めた。初めのうち遠慮がちだった脚の動きは繰り返すうちにテンションがあがってきたのか、徐々に暴力的になり、やがてはテーブルが揺れ、皿ががたがた音をたてた。うっとおしいので、誰か注意してくれないかと、周囲を見回すが大人たちは話やお酒に夢中で誰も気にもとめていない。突然、右膝に衝撃と鋭い痛みを感じ、ルカは小さく声をあげた。ミクちゃんの靴の先が勢いよくぶつかったのだ。膝を押さえて痛みが去るのを待ちながら、ミクちゃんの方をうかがう。ミクちゃんは脚の動きを止め、大きな目でじっとルカを見つめている。まるで動物園のカバを見るかのように物珍しげで、まるで今初めてミクの存在に気づいたかのようだ。蹴飛ばしたことを、あやまりもしない。自分が悪いくせに、何の引け目も感じている様子もなく堂々としている。ミクちゃんはとてもきれいな顔をしていた。大きな目にきゅっと持ち上がった鼻に形のよいくちびるはまるでアイドル歌手だ。怖いような嫌な気持ちになってルカは思わず目をそらせて、すぐに悔しくなった。まるで自分にやましいことがあるかのように目をそらせてしまった。悪いのは向こうなのに。もう一度、勇気を出して、ミクちゃんの方を見ると、隣の母親の袖を引っ張って、「ねえ、まだ? まだ焼けないの?」。まるでホットケーキが焼けるのを待っているみたいな表現がおかしく、ルカは笑いを押し殺す。それに気づいたミクちゃんがまたルカを見たが、相変わらず何の表情もない。また視線をそらせながら、ルカは、ミクちゃんがどうしてそんなに堂々としていられるのかを考えていた。顔がかわいいからだろうか。ミクちゃんの母親は、「もうちょっとだけ待ってね」とやさしくミクちゃんの髪を撫でながら、ちょうどその時運ばれてきたデザートの皿から小ケーキを取ってミクちゃんの前に置いた。ミクちゃんがお母さんに大切にされていることは間違いなかった。自分の母は、唐揚げを頬張りながら、プリンに手を伸ばして自分の皿に載せている。ルカもミクちゃんと同じ、いつ焼けるのかという疑問をずっと心に抱いていたが、なぜ一番近くにいる肉親である母に聞かなかったのかというと、無視されるか、うるさいね黙って待ってなさいと一蹴され、最悪頭でもはたかれて終わりだということがわかっていたからだ。小ケーキを食べやすいように切り分けている母親の隣で、ミクちゃんは相変わらず当たり前のような顔でフォークを指先でぷらんぷらん揺らしている。よくわからないが、ミクちゃんが堂々としているのと、お母さんから大切にされていることは何か関係があるような気がした。ミクちゃんはケーキを食べながら、お母さんに色々話かけているが、そのひとつひとつにお母さんはていねいに的確に応答していた。ミクちゃんの声は誰にでも聞こえてそのことばは誰にでも理解されるのだ。あたしとは違うのだ。ルカは暗い気持ちになり、いたたまれずに立ち上がってトイレに行った。
トイレは床がねとねとで嫌な臭いがした。ルカは個室に入って鍵をかけ、別に便意もないのでふたをしたまま便器に腰かけてしばらくぼんやりしていた。とても静かだった。どこにいても誰かがそばにいてうるさかったりいやなことを言ったりするがトイレの個室には絶対に誰も入ってこない。完全に一人きりになれる唯一の場所であるトイレの個室をルカは好きだった。家でも、母のきげんが悪いときトイレにこもって過ごすことがあった。
(#2)につづく
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