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【小説】ルカがはじめて世界を憎んだ日(#2)

 トイレから戻ると、ミクちゃんは本を開いていた。ルカは目を疑った。リュックにあるはずの、「私は幽霊を見た!」だった。椅子の下に置いていたリュックはいつの間にか母の膝の上にあった。ルカの非難がましい視線に気づいた母は、「ミクちゃん退屈そうだから、見せてあげたわよ」
 そもそも、こいつ、本なんて読むのかよ。心の中で毒づきながら、ルカは、わざと乱暴に椅子に腰を下ろした。ルカには、本が好きな子と、教科書以外の本などただの一秒も開いたことがない子を一瞬で見分けることができた。今のところ、その見立てははずれたことがない。ミクちゃんは百パー後者だった。
「この本、気持ち悪い」
 ミクちゃんは、始めの口絵のページが終わって文字だけになるやいないや本を放り出した。後者のタイプはろくに読みもしないで本に必ずケチをつける。「ほらごらん、気持ち悪いんだって」母が、勝ち誇ったようにルカの顔をのぞき込む。
「うちのクラスにもこんな本ばかり読んでる男子がいる。全然しゃべんなくて、スマホで死体とか事故現場とかの気持ち悪い画像ばっかり見てるの。まじでキモい」
 母が代わりに「UFOと宇宙人」を手渡した。イラストと写真もおとなしめで母がよくルカの読む本を評して言う「ゲテモノ」的な色合いが薄いからだろう。ルカは、唐揚げやウインナーの油が付着したミクちゃんの指がページを汚さないかと気が気ではなかった。
「ルカちゃんは、大きくなったら何になるの」
 ビールで顔を真っ赤にしたおじさんが細い目でルカをのぞきこんでいる。ルカは、またか、とうんざりした。大人ってなんでみんな同じことばかり聞くのだろう。ルカが、この質問が嫌いなのは、何度も聞かれたということ以上に、状況によって答えを変えなければならないのが面倒だからだ。ルカは、ぐるぐると脳内を検索し、すぐ近くに母親がいるとき用の答えの中からチョイスし「ゲームのプログラマー」と答えた。
 おじさんの細い目がルカのことばに反応する前に、
「公務員だよね」
「公務員。そりゃまた、小学生にしては地に足のついたしっかりした希望を持ってるねえ」
 例によってまた、ルカのことばはないものとされたのであった。
「しっかりしてるというより、ほら、この子、愛想がなくて人と話すのが苦手だけど、勉強だけはできるから」
 細い目のおじさんがまた何か言っているが、それは、意味を伴わないただの音としてルカの耳から耳へと通過して消えたが、はい、その通りです、という顔をしてうなづくふりをした。どのみち何になりたいかなんてわからないし、大人たちの機嫌を損ねない答えを返しておけばいいのだ。
「ミクちゃんは? 大人になったら何になるの」
 おじさんたちの意識が自分から離れたのにほっとしながらも、代わりの話題がミクちゃんであることがルカは少し苦々しく思いながらミクちゃんの様子を上目使いにうかがう。とうに「UFOと宇宙」には飽きたらしく、本は皿の間に中途半端に開かれたまま死体のように放り出され、ミクちゃんはと言えば、椅子の上に乗って、激しくからだをくねらせ、小声で歌を歌いながら、
「アイドルになる」
 大人たちがにわかにどっとわきたつ。
「そうか、アイドルか~」
「ミクちゃん、かわいいから人気出るよ、きっと」
 ルカは、こころに墨汁を流しこまれたようにいやな気持ちになる。それは、ミクちゃんがかわいいと言われたことに対してではない。多少はないといえば嘘になるが、ミクちゃんがかわいいのは、ルカの目からも見ても確かだし、それほど大きな比重を占めていない。ルカだって、別に、かわいくないわけではないのだ。目も鼻もくちびるも、別に作りが悪いわけではない、と鏡を見ながら自分でも思う。ただ、ルカはこれまでかわいいと言われたことがないのはどうも物理的な作りの問題ではないようだ。いつだったか、団地の同じ階のおばさんが家で母親と話しているのを耳にしたことがある。おばさんによると、ルカは「一度見て目をそらすともうどんな顔だったか思い出せない」顔なんだそうだ。
 ルカが、いやな気持ちになったのは、ミクちゃんが歌っているのが、ルカの大好きなアイドルグループ「あわだまエンジェルズ」の一番お気に入りである「それってヤバくない?」だったからだ。しかも、ミクちゃんが歌いながら踊っているダンスが、目も当てられないほどへたくそなのにもかかわらずミクちゃんはしごく自慢げで、周りの大人も目を細めて何かすごいものでも目の当たりにしているかのように観覧しているということに起因していた。ちなみに、ルカは、映像を見ながらその独特のダンスを死ぬほど練習したので、何も考えずにホンモノよりもホンモノっぽく完璧に踊りこなすことができた。
 できた。それは嘘ではない。
 ただ、それは。家で母の目を盗んで部屋でこっそり一人で踊るという限定的な条件下での話だ。
 もし仮に今、ここで、「じゃあ、ルカちゃんも踊ってみてよ」と言われてその場を与えられたとしたら、ルカは、おそらく、ミクちゃんよりもボロボロにしか踊れないだろう。そのようなシチュエーションを想像しただけでルカは恐ろしくなるのだ。ということが、ルカにははっきりとわかった。ということも、ルカがいやな気持ちの要素のひとつだった。
 大人たちにはやし立てられていい気になっているミクちゃんを上目使いに眺めながら、ルカの意識の見えない部分からみそ汁の底から立ち上ってく煙のようにある思念が浮き上がってきた。
 あたしもひょっとしたらほんとうはアイドルになりたいとか思っているのではないだろうか。ルカはその思いを必死で打ち消そうとした。自分がそんなことを考えているというだけでたまらなく恥ずかしかった。ただ、プログラマーや公務員にはなりたいと本当はみじんも思っていないことは確かだった。ルカは、さっき、ミクちゃんがウインナーや唐揚げを母親から皿に取り分けてもらいながら、まるで姫のように当たり前のような顔をしていたことが、ルカが決して口にすることができないアイドルになりたいという希望を平然と口にし、このボロボロなダンスを自慢げに踊ることができるということにつながっているような気がした。
 ルカは、ミクちゃんを見ないように視線をそらせて、周囲を見回した。おそらくルカが生まれるずっと前から存在するのであろうこの焼き場は焼き場という特質上なのだろうが余計な装飾がどこにもなく、壁は汚れているのかもともとそういう色なのか気持ちが沈むような灰色と茶が混じったようで、ルカの向かいに十二ヶ月が一枚に印刷されたカレンダーが貼ってあるのだが、全体の色合いや傷み具合から、どう見ても今年のものではないようだ。ヒマにまかせて目をこらしてみると、仏像が何体か並んだ版画みたいな絵は、小学生の時の道徳の教科書の挿絵のように、いやなオーラを放っていた。絵の下に増島硝子店と印刷されているこのカレンダーがかなりの昔から貼ったままになっていることは添えられた電話番号の桁数でわかった。三桁の市外局番なんていつの話だ。
 ミクちゃんは、おだてられて本当のアイドルになった気でもいるのか、歌と踊りにさらに熱が入った様子だ。ルカは、「UFOと宇宙人」が気になってしかたがなかった。読まないのなら返せ。ルカの声に出せない叫びはむろん届くわけもなく、皿と鉢にはさまれて無造作に開かれたままの口絵のページがぐにゃりと曲がってしまっていて、本になど縁も愛情もないミクちゃんや周辺の大人たちは気にもとめていないことが、ルカはまるで自分自身が陵辱侮辱されているかのように身が引き裂かれるような苦しみに耐えていた。
 ドアが開いて、係員らしき丸刈りの男が顔をのぞかせた。火葬が完了したとのことである。全員どやどやと腰をあげる中、「UFOと宇宙人」に手を伸ばそうとするルカの腕を母が乱暴に引いた。「なにぐずぐずしてるの、行くよ」。そしてルカは信じられない光景を目にした。ミクちゃんのママが、「UFOと宇宙人」をミクちゃんのバッグに突っ込んだのだ。
 生まれて初めてほんものの人骨が見られるのをルカはひそかに楽しみにしていたのだが、その期待は裏切られた。想像していたのと全然違ったのだ。理科室の標本みたいな「骸骨」を想像していたのだが、「ケイスケ」さんの骨は、灰の中に散らばったはっきりとした形のないかけらでしかなかった。その時点でもうルカは興味を失ってしまったので、参列者たちが一人ずつ並んでお箸みたいな鉄の棒でもったいぶった手つきで骨のかけらを壺に入れていくちんたらとした作業が、食堂の退屈な時間がそのまま引き延ばされたような苦行でしかなかった。ルカの脳内は、「UFOと宇宙人」のことでいっぱいだった。ミクちゃんは、大人たちの群れに混じって骨を拾っていた。肩から斜めがけしているピンクのバッグをルカはじっと見つめた。その中に「UFOと宇宙人」が入っているのは確かで、本はルカのものなのだから。返してもらって当然なのだが、ルカには言い出すことがどうしてもできなかった。誰かに何かを要求したり断ったりすることを、ルカは異常に恐れていた。
(#3 完結につづく)


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