優しさという責任について

電車で高齢者や妊婦に席を譲り、悩める友人の相談に乗り、仕事の場で困っている顧客の課題を自らの知識と経験で解決する。恋人が欲しがっていたプレゼントを買い、娯楽施設で子供が一人で泣いていたら親が見つかるまで付き添い、親戚の子には玩具を買ったり遊んだりしてやる。
僕たちは日常の中で自然と優しさを発揮する。

しかし「優しさ」とはなにか。
なぜ人(もとい動物)は、他者に対してコストやリスクを背負ってまで、優しさを発揮するのか。

思うに、優しさは大きく二つに分けられる。
それは優しさの主体が、行為者と被行為者のどちらにあるかということだ。
そして前者は利己的であり、後者は利他的な行為である。
どういうことか。
それを理解するには事例を追ってみるのが早道だろう。
時間のある方は、冒頭の例をどちらに割り振るべきか是非考えてみてほしい。


↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓



↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓



↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓


冒頭の例を分けてみると、下記のようになる。
・主体が行為者にある(利己的優しさ)
①仕事の場で困っている顧客の課題を自らの知識と経験で解決する。
②恋人が欲しがっていたプレゼントを買う。
③悩める友人の相談に乗る。

・主体が被行為者にある(利他的優しさ)
④電車で高齢者や妊婦に席を譲る。
⑤娯楽施設で子供が一人で泣いていたら親が見つかるまで付き添う。
⑥親戚の子には土産を買ったり遊んだりしてやる。

それぞれ解説してみる。
まず前者について。
①は簡単で、その目的が仕事の評価とその延長線上にある金銭であることははっきりとしている。
これは明らかに利己的な行為である。
②の目的は恋人が喜ぶことであるが、その実態はその延長線上にある、恋人が抱く自身に対する評価の向上だ。
一般的に、恋人という関係性は長く続くことを目的としており、そのためには恋人が自身に対して一定以上の評価を抱いていなければならない。
プレゼントという行為はその評価を得るための手段であり、行為は利己的である。
③もまた②と同様に、相手との関係性を続けるための手段としての相談に乗る行為であり、その意味では利己的であると言える。
が、後述するように利他的行為の側面もある。

では後者についてみてみると、いずれにも共通項があることがわかる。
それは、被行為者が行為者に対して、守るべき弱者の立場にあるということだ。
④の高齢者も妊婦も、例えば僕のような二十代の健康な肉体を持った人間と比較すれば電車という不安定な空間において座るべき保護対象であるし、⑤の子供も、考えるまでもなく救うべき弱者である。
⑥についても、一年に一度会う程度の子に好かれようが好かれまいがどうでもよくとも、弱者が欲するものを無碍にできないという感覚は経験的に理解できよう。
前述した③についても、相談という場においては相談する者(被行為者)は相談される者(行為者)に対しては弱者であり、やはり救うべきという感覚が行為者を刺激する側面がある。

つまり、後者の優しさを発揮するトリガーは、行為者から見た弱者の存在への気づきだと言える。
ハイデガーの弟子に当たるハンス・ヨナスは「責任という原理」にて下記のように述べている。

道徳法則が道徳的な行為へと動機づけるのではない。
世界の中にはそれ自体としてよきもの(An-sich-Guten)がありうるが、これが私の意志に向かい合い耳を傾けることを求めてくる。こうした呼びかけこそが、道徳法則にかなうような仕方で、道徳的行為へと動機づける。
(中略)
この呼びかけの声がこの私にまで届き、私を触発し、その結果として私の意志をも動かすことができるようになるためには、私の側でも、この呼び声に触発されるだけの能力を備えていなければならない。

ハンス・ヨナス「責任という原理」加藤 尚武 監訳 一五二頁

弱者への優しさを発揮するためには、道徳法則というルールやマナーのような外的な「為すべし」ではなく、被行為者の呼びかけに触発された内的な当為である「為すべし」が重要であり、そしてそれは呼びかけに耳を傾ける姿勢を僕たちに要求する。
しかし、その呼びかけを聞き取ることができたとしても、必ずしも優しさを発揮できるわけではない。
「責任という原理」から続けて引用する。

......呼びかけに触発される可能性を備えているので、人間は潜在的にはすでに「道徳的な存在者」であるということである。それがゆえにまた、人間は不道徳的にもなりうる……

ハンス・ヨナス「責任という原理」加藤 尚武 監訳 一五四頁

呼びかけへの優しさという行為は、潜在的な可能性として僕たちの中に内包されている。
それは裏を返せば可能性を無視することができるという意味でもあり、つまり弱者を利用して利己的な欲求を満たすこともあり得る、ということだ。
没価値的な科学の価値観や有用性のみを基準とする技術の価値観、金銭的価値のみが重要視される資本主義が支配的な現在においては、寧ろ利己的な「為すべし」を無意識に選択してしまっている状況に、心当たりがない者は存在しないと言い切っても良いだろう。
しかし僕たちが弱者の呼びかけを無視した時、僕たちの心を満たすのは罪悪感だ。
それは僕たちがノブレスオブリージュを怠ったことへの罪の意識であり、それは逆説的に優しさが責任の感情であるということでもある。

……呼びかけが、私たちの感情の中に応答を見いだすということが、私たちの道徳性の本質には含まれている。これは、責任の感情にほかならない。

ハンス・ヨナス「責任という原理」加藤 尚武 監訳 一五二頁

興味深いことに、利他的優しさの対象は人間のみではなく、動物、場合によっては植物に感じることもある(例えば無慈悲に重機で伐採される森の植物を見て、心を痛めない者は少ないだろう)。
これが遺伝子のバグなのか、それとも進化の過程で得た武器なのか、それを群淘汰説や血縁選択説といった大枠で説明できても、そのディテールは誰にもわからない。
でも、確かなことはある。
弱者に対する責任の実感だ。
人間は理性によって今の地位を築くことができた。
しかし理性は感情(情念)の奴隷であり、人は感情(情念)なしには何も成し得ないと言ったのはヒュームだ。
少なくとも僕は、弱者に対する責任の実感に対して鈍感でありたくないし、優しさを後者のような責任を果たす行為として発揮していきたいと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?