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歌集 文

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短歌の本について書いた文章。感想文であったり、評であったりします。歌集のほうもぜひ手に取ってください。
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なにひとつぶち壊せずに四十年……

前に『崖にて』の文章を書いたのだが、そこに書けなかった大好きな歌があったのだった。 お好み焼きは協力プレー。お好み焼きのことを思う時、そこにはいつも友達がいる。部活帰りに一緒だった友達とお好み焼き屋さんに行った。ホットプレートを使って焼いた。家ではそんなに作らないから、みんなひっくり返すのが上手くない。ちょっとした緊張と意外とうまくひっくり返せた時の喜びは、年をとるごとにぼんやりしていく友達の顔と一緒に、お好み焼きの上で光を放っている。 北山あさひの作品には、ごはんがたく

運命について思いはじめる

ある日仕送りで瓶詰めの梅干しが届いた。1リットルくらいの瓶に詰められた梅干し。梅干しを食べる習慣がなかったので、しばらくそれを台所の炊飯器の横に置いていた時期がある。ざっと三年くらいの時間が経って、瓶は埃をかぶっていた。 大学に三年通った秋のころ、ご飯に乗せてみようとふと思い立って蓋を開けてご飯に乗せる。口に運んで、舌の上に広がったのは「森の味」だった。森の味ご飯。森の味、森の匂いというのは、落ち葉の匂いであった。昔住んでいた家の近くに、ノコギリクワガタがたくさん取れる林が

リベラルは間違ってるんだと思う

日々のほとんどを覚えていられない。思い出せるのは、心に溜まったわずかな砂で、それはその人自身とよくつながっている。思い出すときにひとは良い文章を書く。 『ねむらない樹』という短歌の雑誌があって、丸山るいさんと、toron*さんの二人の先輩がテーマ「わたしの短歌入門」で作品を寄稿していたので、ジュンク堂書店で手に取った。良かった。竹中優子さんの文章も良い。読みきったところで冒頭の気持ちが出てきた。 ところでわたしは雑誌のいい読者ではなくて、雑誌を頭から最後までを通して読んだ

とめどないエンドロールに拍手をおくる - 2020年と『ナムタル』の声

II新型コロナウイルスが広がり始めた頃、私は大学生として岡山県に暮らしていた。卒業論文のための実験を残すのみだったので、当時新しい試みとして開かれたオンライン授業をほとんど受けずに済んだのだった。 昼の三時に風呂に入った。飲み会や外食が激減した。何もかもがまともにできるような状態ではなかったので、卵焼きをほそぼそと作った。普段はうっかり外食してしまうのだが、この年の4月の食費は25,000円を切り、ささやかに嬉しかったことを思い出す。 短歌を読み始めたばかりで、その頃はた

ほんとうに好きな仕事は体に悪い

労働力資本を売りはじめて、しばらくが経つ。ヴェイユが『工場日記』をつけたのは89年前。昼食をできるだけ早く食べて日向ぼっこをし、できるだけ「のろのろ」と歩いて会社に帰るという記述を見つけた時は、おどろいた。それは私が昼休みにやっている動きのまさにそのままだった。 日本で労働者として生きている。労働現場の摩訶不思議さ。みなし残業、業務内容が決まっていない状態での採用など、労働者側に不利な慣習がある。平均給与は20年以上上がっていない。物質的には豊かになっている。にもかかわらず

角曲がるたび、風に出会う頬

『風とマルス』を開いたときに、堀静香さんの文章をふと思い出したのだった。 そういえば、もっと若い頃、10代のときは風なんて気にも留めなかった。今よりずっと周りが見えていなくて、部活の疲れや友達と歩く帰り道、無意味な長電話が生活に自然に組み込まれていた。なにか、触れている時間そのものに価値があったと思う。 何も考えなくても、時間の輝きを感受できていたのかもしれない。しかし、大人になった今振り返るとき、見えていなかったものごとを思う。例えば、それは吹く風のことで、私がスポーツ

星のように疲れていたり

タワーレコードの前で待つ友人を見て「星のように」疲れている、と思う。人間には想像も及ばない時間を持つ星を喩えに使って、友人の疲労感を表している。それにしても、星。うつくしく巨大なもの。微妙な日常を切り取っていく『輪をつくる』のなかでも象徴的な一首だ。 竹中が詠み込んだ物事のなかで、最大の魅力を放つのは「疲れ」の描写である。 疲れは生活と切っても切り離せない。失恋、支出、家族との関係。どのように歩こうと付いて回る。この歌集の中には様々に表出した疲労感が収められていて、観察と

国士の気配が漂ってくる

わたしたちが通った岡山大学のキャンパスはなかなかに広い。からっとした風が吹き、夕陽の青さや赤さがよく見える。大学も、大学のまわりも平坦で自転車があればどこにでも行けた。映画館、音楽、美術、喫茶店、大きな公園はひととおり揃っていて、過ごしやすい場所だった。 初めて話したとき、長谷川さんはすでに大学を卒業していた。当時流行っていた音声通話アプリで、共通の知り合いづてにたまたま初めて喋って、同じ大学に通っていたと知る。その何ヶ月か後に、長谷川さんが岡山に寄った折、からあげ屋さんで

へたくそなハンドサインを

短歌のおもしろさに気づいた2019年に、まほぴさん(岡本真帆)を知った。固定ツイートになっていた作品を好きになった。いまも輝きは褪せない。親近感もすごかったのである。傘をなくしつづけてきた人生はこの国にあふれていて、その孤独なたましいたちに届く歌だ。 京都のごはん処で、丸山るいさんの名前をはじめて聞いた。まほぴさんから。まほぴさんが京都にいて、たまたま一緒にお酒を飲める機会があったときに。当時、わたしは津中堪太朗と文学フリマで売る『硝子回覧板』という短歌の本をつくっていて、

顔面溶けてあなたにもなれる

そういえば、又吉直樹さんが「人を好きになると、その人そのものになりたいと思う」と言っていた。そのものになりたいという願いは、大きさだけでいうと最上級に近い。はじめて聞いた時はいまいちピンと来なかったのだけど、軽重を問わなければ誰もがもっている感覚のようにいまは思う。 現実的には、わたしは「あなた」には成れないことはわかっているのだけど。だから、わたしたちはあなたの好きな音楽を聴いて、小説を読み、映画を観る。あなたを、あなたたらしめているものを共有することで、ほんのわずかでも

奪われるための眼だった

『おおきく振りかぶって』を読んだことがない。この短歌は、野球マンガ『おおきく振りかぶって』に寄せられた、連作「サードランナー」のなかの一首。詳しい文脈はわからない。しかし、この短歌はとても美しい瞬間を切り取っているように思ったし、そのときの熱がよく伝わってくる。 「奪われる」という始まり方。目を奪われるという慣用句のまさにその瞬間。「おおきく振りかぶるとき」というのは、タイトルから来ていることばだ。ひらがなに開かれた文字と、オーバースローのはじまりの動作へと収束していく語順

ちちははの壊れし婚にしんしんと

思わず叫びたくなる。家族って、結婚って、何なのだろう。結婚や、子どもを持つか持たないかの選択に口出しをしてくる人がいる。わたしの場合、家族からそのような話を展開されるケースが最も多い。人生が結婚や生殖に回収されてしまうのは当然なんでしょうか。幸福だと信じてやまない善意が、暗い口を大きく開けている。 北山あさひの作品には救われた。と、言っても良い。救われる、という言葉の軽薄さが拭えませんが、すみません、だけど、救われた気持ちになったのは本当なのだ。同じような薄暗い空気を吸った

群青の火が点くように

『イマジナシオン』の帯には、歌人の山田航から「短歌が魔法だったことを思い出してしまう」というコメントが寄せられている。toron*のつくる短歌を、現実を変形させる魔法として捉えるならば、上記の作品がこの本のなかで最もうつくしい魔法だと思う。直喩によって最短距離を走ってくる魔法。いまから飛び立つ子どもたちへ向けて、卒業式にて弾かれる校歌。彼らの未来や、未来に向かっていく身体や心を飾る比喩として、なんとあざやかな言葉だろう。 ぼくが短歌をはじめたとき、最初に手に取ったのは『短歌

山羊と家具屋の理想像

山羊をほとんど知らない。 実家のまわりには動物園がなくて、車で行ける範囲にもなかった。住んでいた場所には、電車が通っていない。祖父の家までの道、車で通る場所に、山羊を飼っている家庭があった。幼い頃に車窓から観た覚えがある。いつしか山羊をそこで見ることは無くなってしまった。山羊のランニングコストが高いのか、単純に飼育に飽きてしまったのかはわからない。 今も昔も、暮らしから遠い動物だ。土佐犬と同じくらい。例えば亀は近くの田んぼで拾ってくることができたし、鷺は観たことがある。牛