美辞麗句陶酔組批判 〜Let it go〜

昨日、ある著名人の訃報にSNS界隈で様々な反応が見られた。

故人の生前の生き方や考え方についての批判や評価についてあれこれ論じるのはここで差し控えたいと思う。

ただ、彼の死について寄せられるコメントの中で「ありのままで生きられる社会」「自分の生き方を自分で決める自由」などの美辞麗句が並んでいることに違和感を覚えた。これだけには一言申したい気持ちがある。
なぜ自分はこういう表現に引っ掛かりを感じるのか。

こういう謳い文句は「一見」美しいが、どうにも空虚で薄っぺらく感じてしまう。なぜなのか。

それはおそらく一人の人間の「死」に対する言葉としてあまりに軽薄だからだ。
そして、何より一人の人間の死を「社会のあり方」という漠然としたものに責任転嫁している安易さによるものだろう。
要は「社会が悪い」と一方的に断罪しているのだ。

おそらく「ありのままが受け入れられる」「自分の人生は自分で決める」を軽薄に口にする人たちは、「それが受け入れられない社会」というものを自分の中で一方的に設定している。
妄想の中で一方的に作り上げた「社会」というなんだかもやっとしたものが、「自分らしく」生きる人々の邪魔をしている、という設定なのだろう。でなければそういう言葉はまず出てこない。

一人の人間がうまく生きられず、不幸になるのを「社会」のせいにする。これは果たして健全な思考と言えるのだろうか。
自分が自分らしくありのままで生きられないのは、幸せになれないのは、困窮しているのは…みんな「社会が悪い」から。
そうやって何でもかんでも「社会」のせいにする先にある未来は一体どのようなものなのだろう。己を省みることなく自己実現のみに奔走し、他者への尊重と配慮を欠いた寂しい世界になるのではないだろうか。

そもそも「社会」というものにひとくくりにしてそこに責任転嫁する粗暴さを私は軽蔑する。物事はそう単純に割り切れるものではない。
社会とは、一人一人がいろんな考えを持っている、その集合体だ。美辞麗句に陶酔している人たちが設定している「社会」もそういう意味ではあながち的外れではない。私も近い考えだ。しかし安易に「社会」を批判するものではない。その点で美辞麗句陶酔組とは意見が異なる。
一人一人違う考え方がたくさん存在する中で、ゆるりとしたコンセンサスのようなものがあり、もしそれが一人の人間の生き方や考え方にネガティブな反応を示すのだとすれば、もしかしたらそういう生き方考え方は社会的に受け入れられないものなのかもしれない。それを「受け入れない社会が悪い」というのは、社会の中で自然と醸成されてきた「ゆるりとしたコンセンサス」を否定するにも等しいことなのだ。
これを「同調圧力」と捉えるか、「社会規範」と捉えるかはそれこそ人それぞれである。
仮に、その「ゆるりとしたコンセンサス」が間違っているのだとすれば、それ相応の説得力でもって対峙すべきは「社会が悪い」と主張する人々自身の方なのだ。それを一方的に「社会が悪い」で終わらせるのは無責任が過ぎるというものである。

誰しも人生の選択は自由だ。法律に反しない限り自己実現のチャンスは与えられている。
そしてこれは一番大事なことだが、大前提として己の人生に責任を持つこと。自分の思うように生きる上でそれは義務である。
またそれを批判する自由もある。
自分の自由を貫く結果責任は常につきものだ。その責任を取る覚悟がないものが自由を語るべきではないし、ましてや批判する自由を制限する権利もない。無論、誹謗中傷は論外、である。

一人の人間の死と生き方考え方そのものについてよりも、その死について自己陶酔めいた論を展開する人々に対してイラッときたので書き散らしました。

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