台湾旅行記_1
台湾旅行から帰ってきてちょうど1週間が経った今日。嗅覚も70%くらい回復したので最終日の災難を振り返ってみようと思う。
まず嗅覚が〜などと語っていて一体何の話なんだと思っただろう。私は台湾最終日の木曜朝起きた瞬間から喉の痛みを感じていた。まずい、何かにやられている。そう思ったが最終日は佛光山という仏陀の馬鹿でかい像が鎮座する仏教紀念館へ行くという、この旅で私が最も期待しているイベントが控えていた。へこたれるわけにはいかない。喉の痛みを友人にも打ち明けず、その地獄の1日は始まった。
友人と2人、私たちは卒業旅行で台湾に訪れていた。気ままな4泊5日の台湾旅行。1日目は台北散策、2日目は九份、3日目は高雄で観光を楽しんでいた。4泊とは言っても5日目の朝6時45分発の飛行機に乗るため、4日目の夜に空港入りし空港で一夜を明かすというなんともハードなスケジュールだった。観光の最終日となる4日目の午前10時半ごろにホテルを発ち、新幹線左營駅まで電車を乗り換え移動した。そこのコインロッカーにスーツケースや荷物を預け、まずは駅構内のベーカリーで小さなパンを二つ購入した。1つは中に肉が入った肉まんのようなパイ、もう1つは中にチーズが入ったガーリックパンだった。
食糧を調達し、佛光山行きの12時発のバスに乗り込み、音を立てないように肉まんパイをバスの中でもそもそ平らげた。喉は痛かった。
30分ほどで目的地に到着し、私たちは数々の案内人によって紀念館じゅうのあらゆる体験をさせられ(させていただき)、巨大仏陀を間近で拝み、満足した気持ちで帰りのバスに乗り込んだ。14時22分だった。新幹線左營駅に到着し、コインロッカーに預けた荷物を取り出し、新幹線で台南駅へと向かった。新幹線に乗るのはこれで2度目、1万円で購入した3日フリーパスの使い方も慣れたものであった。
台南駅に到着した。おそらく15時半ごろだったと思う。そして思い返せば、ここから既に地獄は始まっていたのである。
まず、台南駅周辺でのやりたい事リストは2つだった。1つ目は、奇美博物館でアートに触れること。2つ目は、台南市のグルメ、特にここまでの旅で食べ損ねていた胡椒餅を食べる事だった。まず奇美博物館に向かうため、台南駅で荷物をコインロッカーに預けなければならない。しかし、駅構内のおよそ2カ所に存在するコインロッカーのうち、1つも空きが見当たらない。これが最初の不運である。駅員さんに聞いてみても、駅構内にはこの2つしかないらしい。地元の人に訊ねると、駅の隣の三井デパート(めちゃくちゃ日本語)にはコインロッカーがあるらしい。言われた通りに三井デパートに向かおうと駅を出てみるも、大きな車線の向かい側にデパートは見えた。めんどくさがりことISFPである私と友人は顔を見合わせたのち、すぐさま踵を返し歩き出した。台南駅に荷物を預けられない。そう判断した我々は、奇美博物館に荷物を預けられるんじゃないかと名案が浮かんだ。検索してみると、やはり預けられるらしい。なーんだ、そうじゃんそうじゃん、よくよく考えたら博物館にコインロッカーがねえわけねえよなあなんて語りながら奇美博物館へ向かった。向かおうとした。しかし、行き方がわからない。申し訳ないと感じながらもまた同じ駅員さんに訊ねると、奇美博物館へと直接向かうバスがすぐそこから出ているらしい。駅員の指さす方を見ると、そこには3台の観光バスと、デカデカとした字で「奇美博物館」の文字があった。我々は本当にめんどくさがりなのである。こんなデカ字にも気づかない、いや、目を向ける気もなかった。シエシエ〜あはは〜と言いながらバス乗り場へ向かい、バスの後方座席へと乗り込んだ。
今振り返れば、このあたりでもう既にかなり疲労が溜まっていた。これまでの3日間毎日2万歩歩き続け、その日も佛光山でかなりの体力を消耗している。今日の食事は小さな肉まんパイひとつだけ。我々はバスの中で沈黙を貫いていた。どれくらいバスに揺られていただろう、15分ほどであろうか、窓の外に奇美博物館が見えたのだ。奇美博物館は西洋風の造りで、そのオブジェはこの台湾という土地に突如出現したヨーロッパであった。私たちは興奮した。おっ、あるじゃんあるじゃんなどと言い私たちは喜びを露わにした。
だからなのか。私たちはすっかり忘れていた。
バスの停車ボタンを押すことを。
奇美博物館の片鱗が見えてから数十秒、なぜかバスが博物館から遠ざかっているように感じた。しかしこの時点では、少し遠回りしたところに停留所があるのかななんて馬鹿げた考えのもと、ゆらりゆらりとバスに身を任せていた。だがバスは走り続ける。何分経っても止まらない。ここでようやく気がついた。私たちは停車ボタンを押していないのだ。
まったくの馬鹿である。これまでのバス利用時には他の乗客が停車ボタンを押し、自分たちで押した経験がなかったために「バスを降りるためには停車ボタンを押さなければならない」というこんなにも基本的なことを、あろうことかすっかり忘れていた。慌ててバスの停車ボタンを押したが、次の停留所で止まるようだった。まあ、次で止まるならいいよね、気づけてよかったよ、ナイス!などとキャッキャした。このようにたいへんポジティブな思考を持ち合わせているからこうなるのだろう。はー危ない危ないと胸を撫で下ろし、バスが停まるのを待った。だが少しして異変を感じる。
バス停まるの遅くないか!?一駅だぞ!?明らかに一駅の距離が長いのである。慌てて車内を見渡すと、ある異変に気がつく。
停車ランプが光っていない。
頭をフル回転させて数分前の記憶を辿った。確かに私たちは停車ボタンを押した。停車ランプは光った。なのになぜ、停車ランプは消えているのか。
また乗り過ごしたのである。
本当の馬鹿なんだね九大生ってのは。あんな人里離れた山の中のキャンパスで過ごしてるから頭のネジの3つや4つぶっ飛んだんじゃねえのか?そう思わないでいただきたい。そもそもキャンパスには4年間バスで通っていたのだから、バスを止めるために停車ボタンを押すなんて簡単な原理は痛いほど理解している。先の押し忘れは別として。
では何が原因か?これに関しては500パーセント台湾のバスに非がある(嘘ですごめんなさい)。
台湾のバスは、運転手はまず喋らない。日本のように、次の停留所がどこだとか、停留所に着いたアナウンスさえしない。そのため、私たちが降りるべき停留所にバスが止まったとき、無音なのだ。無音とは、ドアの開くバカでかいプシューという音もないということである。普通ドアが開いたら分かるじゃんと思うかもしれないが、私たちの乗っていたバスはいわゆる市バスではなく、観光バスのような作りをしていた。市バスであれば後方座席には段差があり、後ろからでも前方のドアはみることが可能だ。しかしこの観光バスには、まず運転手の隣にしかドアがない。加えて、バスの前方から後方まで段差がなく、全ての席が同じ高さなのだ。ゆえに後方の座席に座る私たちは、前方に座る乗客を見ることはおろか、運転手隣に位置するドアを見ることが不可能なのである。つまり、ドアが開いても気づかない。だから停留所に止まった時、私たちは信号か何かで停車しただけだと思っていた。思い返せば、なんか1人途中で男の人が車内を前方から後方の私達の席の方まで歩いてきてたよなあ...。おかしいとは思っていたけど、あれが新たな乗客だった、すなわちバスが停留所に止まったという合図だったのか...。本当にわかるわけがない。台湾のバスは改善してほしい。
そんなこんなで奇美博物館から2駅離れた停留所に降り立った。ここから博物館へは少し距離があったため、タクシーで向かうことにした。タクシーに乗ること2,3分で博物館に到着した。時刻は午後16時30分だった。
博物館の本館まではおよそ2〜300mほどの長い1本道があり、世界の神々の彫刻たちがこんなポンコツな九大生を迎えてくれた。さまざま写真撮影をすること15分、16時45分にようやく本館に入場した。
チケットを購入しようと受付に向かう。閉館時間は18時30分。約1時間半は展示を見て回ることができる。バスを2度乗り過ごしたとはいえ、当初のスケジュールの範囲内であった。受付のお姉さんにニーハオと言ったところでお姉さんが衝撃の事実を宣った。
閉館時間が17時半ですがよろしいですか?
なんて?17時半?はにゃ?
スーツケースの持ち手を握る指指が震える。
事前に調べた時、閉館時間は確かに18時半だったはずだ。なんか勝手に営業時間短縮していやがる。ということは、展示物は30分強しか見れないということになる。
私たちは、チケットを購入しなかった。
もういいや、帰ろうぜなどと言いながら私たちはまた新幹線台南駅に戻ることにした。脅威の飲み込み力である。諦めるスピードなら九大随一と言っても差し支えない。奇美博物館から台南駅に向かうには、まず保安駅まで15分ほど歩き、保安駅から直通で台南駅に電車で向かうことにした。10kgあるスーツケースをガラガラと引きながら、でこぼこの歩道を15分歩いた。やっとの思いで保安駅に到着し、すぐさま電車に乗った。あーもう早く空港行ってゆっくり休みてえなーなんて思いながら電車に揺られた。揺られること10数分、何気なくマップを開いてみた。台南駅とは逆方向に向かっていた。
ちょっと待ってくれないかい??急いで友人にやばいと伝え、とりあえず次の駅で降りた。説明しよう。保安駅から発する電車は途中で二手に分かれる。台南駅へ向かうものと高雄方面に向かうものがある。なぜか私たちが乗った電車は高雄方面に向かってしまっているのだ。二手に分かれる中洲駅まで一旦戻り、中洲駅から台南駅まで乗り換える必要があった。なんという手間だ。仕方がないので一度中洲駅に向かうことにした。
中洲駅、すなわち今来た向きと逆方面の電車に乗るため、ホームを移動した。保安駅もそうだが、この駅も逆方向に向かうホームは線路の反対側にあるため、歩道橋みたいな通路を歩かなければならない田舎特有のめんどくさいタイプの駅だった。逆サイドにたどり着いた。しかし、降り立ったところは駅の出入り口に通じているだけで、ホームに降り立つことができない。いくら探しても突破口が見つからなかったため、秘技、駅員さんに聞いてみるを繰り広げた。駅員さんは親切に私たちを案内してくれた。薄々これじゃないかと思っていた小さなトンネルのような場所へ駅員さんは歩き出した。最悪だった。なぜならそこは下り階段だ。私たちは10kgのスーツケースを引いている。しかももう20分くらいはこいつを引き続けているのだ。まじかよと思いながらスーツケースを持ち上げ、駅員さんの後に従った。もちろん、ホームへ上がるためには階段を登った。
ようやくホームにたどり着いた...と思った瞬間である。電車がもう来ているではないか。急いで階段を駆け上がり電車に乗車した。駅員さんは降車駅の名前を叫び続けてくれた。ホームへの行き方も分からないポンコツが一度で名前を覚えられるはずがないと悟ったのだろう。駅員さんの声を背に、私たちは中洲駅へと出発した。
バスの降り忘れを2度経験した私たちは、絶対に降り忘れるまいと血眼になって電車の駅表示を凝視していた。駅員さんの努力もあり、幸いにも中洲駅できちんと降りることができた。目的地で降りる。こんな簡単な動作が異国の地台湾ではこんなにも難しい動作になってしまうのである。海外旅行は恐ろしや。おそロシア!今だからこんなにふざけていられるが、この時点での私たちはもうかなり疲弊していた。頭脳戦、体力戦があまりにも多すぎる。ここ1週間、どちらの能力も全くと言っていいほど使っていなかった私にとって、この事態はかなり苦しいものだった。しかしそれは友人も同じことだ、と言い聞かせることでなんとかこの状況を打破することに注力した。
中洲駅に到着し、台南駅へ向かう電車のホームを探した。例にもれなくこの駅も線路の反対側に目的地行きのホームがあるようで、田舎特有の歩道橋をまた渡るのであった。今いるホームからエレベーターに乗り込み、歩道橋まで上がり、歩道橋を渡った後にまたエレベーターに乗り今度はホームのある1階に降りる。1階へ向かうエレベーターに乗っていると、エレベーターの外では電車が閉まるアナウンスが流れていた。エレベーターが開く、とほぼ同時に電車のドアが閉まり電車は発車した。よく見ると、台南駅に向かう電車であった。ちょうど行っちゃったね〜なんて言いながら、もう立っていられないくらいに脚が疲れ果てていた私たちは、椅子に座って電車が来るのを待った。そして電光掲示板を見て絶望した。次の電車が来るのは50分後である。もう1回言おう、50分後である。つまり、さっきちょうど見送った電車になんとしても乗らなければならなかった。だって発車間隔が50分なんだから。歯が5本ほど砕け散ってしまうのではないかと思うほど強く、悔しさのあまり歯を噛み締めた。なんなんだ、この仕打ちは。なんなんだ、このクソ田舎は。ずっと思っていたが台南市の駅全部九大学研都市駅とか周船寺駅と同じくらい田舎じゃねえか、なんなんだ台南市って。そのくせ台湾第3の都市みたいな顔しやがって。嘘をつくな。2度とデカい顔をするな。と言いたくなるほど精神状態は崩壊していたが、私たちは50分耐え忍んだ。
ここで、「また電車逃しちゃったりするんじゃ...」とお思いの方もいらっしゃるだろう。こんなことを書かなければならないほど、ここまでの旅行記によって九大生の生活力に対する読者からの信頼度は失墜している。結論から言うと、この電車は逃さなかった。君たち、九大生を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。50分の待ち時間という衝撃は、絶対にこの電車を逃すまいという執念に変わったのだ。中学校3年間所属していた剣道部のモットー「執念」がここにきて役に立ったのである。こまめに時間を確認し、やっと台南駅行きの電車に乗り込むことができた。時刻は18時50分だった。
台南駅に着いてから、空港の最寄り駅である桃園駅に向かうため、新幹線を利用した。結局台南駅に到着したのは19時過ぎだったが、次の新幹線が来るのが19時33分だった。遅すぎるだろ、と思ったが、自由席なので早めにホームに向かうことにした。新幹線のホームへは長いエスカレーターで上る必要があり、すぐさまエスカレーターに乗ってホームに降り立った。しかし何かがおかしい。見渡すとどうやらこのホームは高雄行きの線路である。危なかった。また高雄に送り返されるところだった。こんなに苦労して、一瞬で高雄に送り返されてはたまったもんじゃない。あまりにも心の綺麗な日本人なため、佛光山の仏陀が私たちを近くに留めようとしているのではないかと一瞬本気で考えた。すぐにホームを下り、空港行きの新幹線ホームに到着し、定刻通りに新幹線に乗り込んだ。私たちが乗った新幹線は台南駅から桃園駅まで各駅停車のため、1時間半かかった。桃園駅には21時到着予定だ。
ここでお気づきだろうか。私たちは台南市でのやりたいことリストを2つ掲げていた。1つ目は奇美博物館へ行くこと。2つ目は台南グルメ、または胡椒餅を食べること。奇美博物館へ行った後、台南市のグルメ街で食べ歩きをする予定だった。しかし、散々台南という土地の公共交通機関に振り回された私たちは(自分らが悪い)、台南市でグルメを堪能するという旅の醍醐味をすっ飛ばすほど疲れていた。早く空港に行きたかったのである。しかも台南市のグルメ街は新幹線台南駅から電車で10駅ほど離れたところにある。もう電車を乗り換えるのが嫌だった。乗り換えという作業に恐れ慄いていた。沖縄県から福岡県に出てきて4年が経つ。最初は電車の乗り方も分からず、ましてや乗り換えなんてといった具合だった。それが四年生となった今、東京や大阪での電車も1人で卒なくこなせるようになっていた。はずだった。この台湾旅行で、私の4年間の電車成長記録が思いっきり覆された。海外旅行は己の小ささを実感させるとはよく聞く言葉だが、こんな形で己の小ささ、愚かさに気づくのは私くらいではなかろうか。本当に合ってる??この言葉の一例として。と若干の不安を覚える。
話を元に戻そう。私たちは1時間半もの間新幹線に揺られていた。さすがにお腹の空いた私たちは、日本から持参していたスナック菓子を2人で分け合って食べた。本日2食目である。思い返せばこの旅は運動量に対して食物の摂取量が全く割に合っていない。この旅行中、私は全く食欲がなかったこともあり、1日に3食ギリ食べているか食べていないかの食生活を送っていた。それもパン1つで1食カウントだ。旅行から5日ぶりに帰宅し自宅の鏡で顔を見て、少し痩せた...?と思ったほど食べずに歩き続ける旅行だった。台湾に行って仏教徒レベルが格段に上がったのではないだろうか。この日の2食目を噛みしめながら、目的地の桃園駅に無事に到着した。しかし、桃園空港第1ターミナルへ向かうには、桃園駅から空港ターミナル駅まで電車に乗らなければならない。私たちは何度も行き先を確認し電車に乗り込んだ。その結果、今度はスムーズにターミナル駅に到着した。21時半だった。
スナック菓子半分でこの1日の胃袋のキャパシティを埋め尽くすことなどできず、流石に腹が減った私たちは、空港内の食事屋で食事を取ることにした。しかし、ほとんどの店が20時に閉店する。B2Fのフードコートに行ってみるとどのお店も暗かった。しかし、構内地図にはマクドナルドが24時間営業していると書かれていた。もうこの際台湾料理じゃなくてもいいから何かを胃に入れたい。この旅行3度目となるマクドナルドの利用をすぐに決定した。しかし、マクドナルドが見当たらない。桃園空港第1ターミナルには、どの店がどこにあるか、具体的な地図などない。何階にどんなお店があると列挙された掲示物があるのみだ。おまけにフードコートは0時半まで消毒作業をすると貼り紙に記されており、フードコート入ってくるんじゃねえよといったスタッフからの圧をひしひしと感じた。仕方なくフードコート入り口から全体を見渡してみてもマクドナルドは見当たらない。もういちど掲示物を見てみると、4Fに他の食事屋が4つ、5Fには日本でもよくお馴染みの数字で構成された名前のコンビニがあった。もうマクドナルドは諦めてそれらを目指すことにした。
長いエスカレーターで3Fに上がった。どうやらエスカレーターはB2Fから3Fのみあるようだったので、エレベーターで3Fから4Fを目指した。4Fに着くと、すぐにハンバーガー屋さんや台湾料理店など4店は見つかったが、全て暗くすでに営業を終了していた。それらのテーブル席に着き、休憩所として利用する客が2〜3人いるだけだった。これは想定の範囲内である。私たちの本命はもはやコンビニだ。食べられればもうなんでもいい。温かくなくていい。私たちは5Fを目指すことにした。乗ってきたエレベーターにまた乗り込む。そして、また異変を感じる。そう、5Fのボタンがないのだ。どういうことだろうか。第1ターミナルはB2Fから5Fまであり、なぜか5Fのみこのエレベーターが通っていない。4Fは食事屋しかない狭いフロアであったため、一旦エレベーターで3Fまで降り、5Fに通じるエスカレーターや別のエレベーターを歩き回って探した。しかし、3Fには各航空会社カウンターがずらりと並ぶばかりで、エスカレーターなど見当たらない。
ここで私たちは特技の諦めるを披露した。5Fに通じるエレベーターを探すより、B2Fにあるはずのマクドナルドを探す方が遥かに楽だと悟ったのである。一度コンビニに行くことを諦め、もう一度マクドナルドを探しにエレベーターに乗り込み、またB2Fへと向かった。先ほどのフードコートとは反対側を探し回ってみるも、小さな銀行があるだけだった。仕方なくフードコート方面に歩き、消毒中の貼り紙を一度見なかったことにしてフードコートに足を踏み入れ、ずんずんと歩みを進めた。しかし見当たらない。その辺にいた空港職員であろうおばさんにマクドナルドはどこか、英語で訊ねてみた。するとおばさんは、3Fに行きなさいと言った。かなり強い口調で言われた。先ほども言ったように3Fは各航空会社のカウンターが並ぶ出発口だった。これを一瞬思い出したが、空港職員が言うならそうだよね...と、若干疑いながらまたエレベーターに乗り込み3Fに到着した。しかし、どう考えてもマクドナルドがあるような雰囲気ではない。出発専用ですと言わんばかりの雰囲気だ。絶対に違うよねと言いながら、またエレベーターでB2Fへ向かった。だが景色は変わらない。消毒作業中のフードコートと、反対側には小さな銀行。考えても分かるはずがなく、もう歩く体力も残っていない私たちは、エレベーターすぐ近くにいた先ほどとは違う空港職員にマクドナルドの場所を訊ねた。すると、フードコートをまっすぐ行って左に曲がってくださいと言われた。耳を疑い、もう一度訊ねた。だがまた同じことを言われた。先ほどフードコートを探し回ってマクドナルドを見つけられなかった。もうこの階にはあるはずがないとまで思っていた。しかもさっきの空港職員には嘘をつかれた。自分で訊いたくせに空港職員の発言がもはや信じられなくなっていた。しかし、この人以外に頼る人はいない。私たちは再度フードコートに足を踏み入れ、一段と真っ暗な左方向に曲がった。
マクドナルドは、そこに、あった。
あんなに探し回ったマクドナルドが、こんな隅に、すぐそこに隠れていたのに私たちは呆れてゲラゲラと笑い出した。しかし喜びも束の間、例にもれなくマクドナルドも0時半まで消毒作業中だと貼り紙があった。驚きと、嬉しさと、落胆と、いろんな感情でぐちゃぐちゃだった。マックだったらもっと主張しろ、フードコートのセンターを獲りに行けよ、世界で戦うにはお前しかいないんだよ、と控えめなマクドナルドに多少の怒りを覚えた。仕方ない。やっぱりコンビニに行こう。諦めることに抵抗がないこの懐の広さだけは認めてもらいたい。もし諦めスピード選手権大会なるものがあるとすれば、私たち2人が九大代表に選出され、全国大会の決勝戦で対戦する未来がはっきりと見えた。私たちなら、日本を、獲れる。そう確信した。
そしてまた私たちはエレベーターで3Fに向かった。ここから5Fへと通ずる何かが、絶対にどこかにあるはずなのだ。メンタルは崩壊寸前だった。しかし、探し続けた。航空会社カウンターの端まで行ってみると、またエレベーターがあった。これか!?と思い近寄るも、やはり5Fには通じていない。落胆した。しかし諦められない。ご飯が食べたい。こんなにモノが溢れ、簡単に手に入るこの令和の時代に、まさかこれほどまでご飯を食べたいと懇願することがあろうとは。恐るべし台湾。恐るべし桃園空港。さらに端へと歩みを進めると、明らかにこれまでのいかにも出発口のような雰囲気とは違う、落ち着いた空間が広がっていた。床や壁の色も無機質な白から温かなブラウンに変わり、観葉植物やソファが置かれている。休憩スペースのようだった。そして、その左端に、上に通じるエスカレーターがあるのを捉えた。
大歓喜だった。エスカレーターを見つけるだけでこんなに喜べることがあろうとは。大声を出して喜びを分かち合い、すぐさまエスカレーターで5Fへと向かった。5Fに足を踏み入れる。そこは天国だった。目指していたコンビニは明るい。営業中だ。そしてこの階も温かなブラウンを基調とした空間で、観葉植物と広いテーブルが9つほどあった。ほとんどのテーブルで韓国人や中国人が食事をしており、ようやく物が食べられる嬉しさが込み上げてきた。すぐさまコンビニでおにぎりをひとつ購入した。友人も何か買っていたが、何を食べていたか全く思い出せない。それほどまでにこの時は自分の胃を満たすことで頭はいっぱいだった。空いているテーブルのうちひとつに腰をかける。座ったのなんて何年ぶりだろう。脚がじーんとする。時刻は既に22時半を回っていた。空港に到着してから1時間、食べ物を手に入れるために歩き回っていたのだ。桃園空港はもっとデザインを改善したほうがいい。友人がコンビニで支払いを終えるのを待つことなく、私はおにぎりのプラスチックの包み紙を素早く外し、かぶりついた。今までで間違いなく1番美味しいツナマヨおにぎりだった。ものの1分で平らげた。喉の痛みを感じたがそんなことを感じている場合ではない。会計を終え何かを食べている友人をテーブルに残し、第二陣の買い出しに向かった。3つで1パックのいなり寿司と、クロワッサンパンを購入した。友人にいなり寿司を分けながら、食べ物に感謝した。食べ物って、こんなに美味しいんだ。ビバ日本料理!そんなことを考えながらいなり寿司を完食し、パンを半分食べた。
お腹が満たされた私は、すぐさまベンチに横になった。幸せだった。なんて長い1日だったのだろう。幾度となく道を間違えた。しかしその度に修正し、空港まで辿り着いた。諦めるスピードは日本天下獲れるレベルだと自負しているが、日本に帰国するという目標だけは最後まで諦めなかった。当たり前か。しかし、異国の地をさまようことで、なんやかんや成長したのだと思う。親切な心を持ち、ポンコツを見たら助けてあげなければという良心を持ち合わせる台湾人に5〜6回ほど話しかけられる経験の中で、特に英語のスピーキングレベルが上がった。時には見ず知らずのおじさんと3時間ほど高雄の街を散策した。時にはホテルのフロントスタッフに香港の人だと間違えられた。時には九份から台北へ向かうバスを1時間弱待った。しかし全部全部、いい思い出なのである。結局胡椒餅は食べられなかったが、食べることのありがたみを知れた。ちなみにこの旅行記を書いている現在、味覚がない。韓国語で表現するならば味覚がオプソである。つい4日前までは嗅覚もなかった。韓国語で表現するならば嗅覚ドオプソッソである。幸い現在嗅覚は70%ほど回復しており、匂いで物を食べるという貧乏芸人顔負けの新たな食生活を確立している。皆さんは、毎食毎食、ご飯ギリギリまで顔を近づけ、必死に匂いを嗅いだ経験があるだろうか。私はそんな生活をおよそ3日続けていた。そう、おそらくコロナである。最初は喉の痛みと激しい咳の症状、微熱に見舞われたが、帰国後3日ほどでそれらはほとんどなくなり、代わりに嗅覚と味覚を失った。あんなに臭い臭いと全ての夜市で喚き散らかし、吐きそうな思いをしていた臭豆腐の匂いも、今となっては恋しい。本当にこの台湾旅行を通して、食べることのありがたみに痛いほど気付かされた。もはや生きていられることは当たり前ではないのだ。便利な生活は、バスや駅ホームの乗客に配慮した設計と、24時間営業の外食店の存在の上に成り立っているのである。そして、早く体調が良くなりますようにと事あるごとに仏陀に懇願するほどには、私の仏教徒レベルも上がったことも揺るぎない事実である。
追記
桃園空港で3Fにマクドナルドがあるってホラ吹いた空港職員、多分McDonaldの発音をDepartureと聞き間違えたのかもしれない。私の発音が終わっている。2人ともスーツケースをガラガラ引いているし、マクドナルドなんてすぐそこにあるんだから、まさかマクドナルドを訊ねているなんて思いもしなかっただろうね。すみませんでした。あと、中洲駅の名前だけ記憶が曖昧です。Dayuanという名の駅だったかもしれない。
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