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歯医者が技工を捨ててから #5

いつの頃からだろう?
歯科医院に技工室が無くなってしまったのは。

私が開業した昭和61年(1986年)、37年前(令和5年現在)は、歯科医院に必ず技工室があった。
しかし、当時既に歯科技工士を雇用する医院は少なく、
自ら技工を手掛ける歯科医も皆無と言って良い状況だった。

私の技工室

分業制の方が効率も精度も良いから、との理由なのだろう。
「工業製品としての入れ歯」と見れば、確かにその通りだ。

ところが、我が師:片山恒夫曰く
「歯医者が技工を捨ててから、日本の歯科医療のレベルが大きく後退した」と・・・。
全ての技工を自分で手掛けて来た片山の言葉には、迫力があった。

私も、大学卒業直後から、当時「最先端」と言われる治療法を学んでいたつもりであったが、
片山の口からは、その「最先端」のハズの治療法に関する諸々が、昭和初期には語り尽くされていた事が語られた。
例えば、テレスコープ義歯という技法。
適応症から設計のポイント、使用材料の選択法、メインテナンスの注意点等など、戦前には解決済みであったとの事だった。

コーヌス・テレスコープ義歯

今も昔も島国日本の強固な護送船団システムの中には、都合の良い情報しか伝わってこない。
そんな状況の中でも、手を動かし、創意工夫を凝らして治療を続けて来た先人の記録を見ると、
現代歯科医療は本当に進歩しているのだろうか?
と疑問に思う。
器具・機材・機械は進歩してきていることは確かだが・・・。

「片山恒夫スライド写真集」と堀江銈一著「堀江式総義歯調整法」

学生時代から、技工は大好きだった。
学んだ理論が、最終的に自分の手を通して入れ歯や冠になって、患者さんの身体の一部として馴染んでいく過程に触れる事が楽しかった。

片山恒夫の教えを守って、ずっと診療と一緒に技工を続けていると、臨床と技工を切り離すことは出来ないことを痛感する。
技工は治療の一部だ。

例えば、
歯周病に罹った歯を守り、抜かずに残す為には、ありとあらゆる技工のテクニックが要る。
弱った歯を安静に保ち、狂った噛み合わせを正し、歯肉を痛めることなくブラッシング出来る様に環境を整備する・・・。
歯周病の改善にあわせて、来院の度に歯肉の色や形は変わり、歯は動き、噛み合わせは変化し、部分入れ歯は全く合わなくなる。
これらを毎回毎回改善し、手直しを繰り返して治療を進めていくわけだ。

そして、以外と見落とされている事が、
「噛ませない技術」だ。
治療中は、弱った歯の実力に合った噛み方をしてもらわなければならない。
その歯の実力に合った噛む力加減、食材と調理法、一口のサイズ、初めに噛む場所等などを
考えなければならない。
この点は、ブラッシングの方法と共に、後日詳しく解説しよう。
長くなりすぎる。

インプラントがカジュアルになった今、弱った歯を残す苦労は不要になってしまったのだろうか?
歯科医と技工の距離は益々遠くなった様だ。
分業制を否定する訳では無い。
しかし、分業制という名の「丸投げ」になってはいけない。

病気や怪我で手や足の切断を余儀なくされた患者さんの治療では、
外科医は切断の後、断端の処置までを受け持つ。
以後は義手、義足の製作と装着&生活指導は医師の手を離れる。
一方、歯を失った後の対策は、残った歯の保全も、義歯の製作も日常生活指導も治療の一環、延長なので
歯科医の仕事である。
ここが歯科の特徴であり、本来分離分業不可能なはずだ。

未だに40年前と同じに、
「早く抜いたほうが良い入れ歯ができる」
と言っている歯科医や技工士が居るようだ。
人生60年時代と100年時代を、同じ考え方で治療を進めようとしているのだろうか?

ある技工士さんの講演会で
「私は歯科医と話はしない。模型を見ればどんな入れ歯を作れば良いか分かるからだ。」
と言い放っていた。
そこに患者さんは不在、人間不在だ。
病んだ患者さんと硫酸カルシウムの塊である石膏模型という物体を同レベルで見ている無神経さが理解できなかった。
「歯医者ごときにアレコレ言われなくても、石膏模型を見れば分かるんだよ!」
気持ちは分からないでもないが、
技工士さんにこんな事を言わせないためにも、
歯科医が技工を理解し、技工に触れる必要があると感じる。
法律で患者さんに触れることを禁じられている技工士さんが、治療現場に歩み寄るには限界がある。
歯科医が技工を取り戻すことは不可能な今、
そして、
大学教育でも技工が軽視されている今、
せめて、最低限、技工士さんと歯科医が同じ土俵で患者さんに向き合うことが必要と思う。

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