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親切な人

 ほんの一年ほど仕事の都合で東京のはずれのアパートに住んだ。
まだ田舎臭さの残る町で駅は新しく綺麗だったが、どこか倦んだような商店街を抜けると所々畑があったり、空き地にロープを渡しただけの駐車場があったり。主婦達が、そこここに立ち止まって話し込んでいるようなそんな所だ。アパートは木造の二階建てで一番奥が私の部屋だった。

窓を開けると砂利敷きの駐車場の向こうにどうやってサッシをはめ込んだのだろうと思う程歪んでひしゃげた、でもそこそこ大きな家があってそのすぐ脇がゴミ置場だった。それは引っ越してすぐの事。
前はアパート専用のゴミ置場があり、いつでも分別さえしてあれば出せるようになっていたがここでは決められたゴミ置場に捨てに行く。
カラスが来るというのでゴミ収集日の朝に出さなければならない。
わかっていても私はいままでの癖で夜にゴミを捨てに行き網をのけゴミを置いた。そして鬼の形相のお婆さんに捕まった。歪んでひしゃげた家の人らしい。

「あんた!どこの人?こんな時間に捨てられちゃ困るのよ。分別はしてあるの?だいたいここに捨てていいのは町内会に入ってる人だけなのよ。町内会には入ってるんでしょうね?」
矢継ぎ早に怒鳴られて竦み上がっていると森田さんがやってきたのだ。
三十前後の主婦だと思う。ニコニコとして優しそうな人だった。
「どうしました?高野さんのお婆さん」
「あー森田さん。この子。今ね、ゴミを捨てようとするから怒ったのよ。まったくこれだからアパートの住人は嫌なのよ。しかも町内会にも入ってないらしいの」
森田さんは「まあまあ」と言いながらそういえばお婆さん。最近は血圧の方は大丈夫?とか何とかいいながら巧みに話をすり替えお婆さんを機嫌よく追い払ってくれた。そして帰る道々ゴミの捨て方とか、アパートの人は町内会に入らなくてもいい事とかを教えてくれた。
その後も道端で会えば笑いかけてくれたり駅の反対側のスーパーが一人暮らし用の惣菜を揃えているとか、向かいの奥さんは自転車をちょっと置いただけで文句を言うが顔を見た時に挨拶をする人には何も言わない。とか細々と気にかけてくれるのだった。
そんな風に森田さんが親切にしてくれているので最初に私を怒った高野さんのお婆さんも最近は愛想よくしてくれるようになった。
森田さんは高野さんのお婆さんのお気に入りらしい。
ゴミ置場で高野さんのお婆さんに捕まると決まって嫁の愚痴を言い、最後はいつも「森田さんのようなお嫁さんが良かった」で終わるのだった。

 ある朝、ゴミを出しに行こうとドアを開けると隣の部屋の人が壁に隠れるようにして階段の下を覗いていた。
通れないのでしかたなく「どうかしました?」と聞いてみる。
「ゴミを出したいんですけど。ちょっと苦手な人がいるから」と言葉を濁す。私はてっきり高野さんのお婆さんがまた見張っているのかと思い、一緒になって下を覗くとそこにいたのは森田さんだった。
「苦手な……ひと?森田さんが?」
「そう。あの人、あなた苦手じゃない?」
「全然。どちらかというと高野さんのお婆さんの方が苦手かも」
「あのお婆さんは口は悪いけどよくいる年寄りじゃない?でもあの人。その森田さん?あの人はちょっと」
「……ちょっと、なに?」
「怖い」
「こわい?」
「そう。こわいの」
私は見間違いかと思ってもう一度下を覗く。
やっぱりあの親切な森田さんだ。


「あっいなくなった。ごめんなさいね。じゃ 私先に行くから」
その人はそう言って慌ててゴミを投げるように出し駅の方に駆けていった。いつもニコニコと誰にでも愛想がよく親切なあの森田さんを怖いと言う人がいるなんて。私は首を傾げながらそれでも毎日に追われているうちに忘れた。


 その時の事を思い出したのは暫くしてまた仕事の都合で違う場所に移ることになり引越しを数日後に控えた夕方の事だ。
荷物の整理があるからと早退させて貰ってまだ陽のあるうちにアパートの近くまで戻って来るとそこかしこは夕日とは別の赤で染まっていた。
近所の人達が幾人も遠巻きに見ている。パトカー?なんだろう?違う。救急車だ。救急車は歪んでひしゃげた家に横付けにされていた。高野さんのお婆さんの家だ。近くまで行くとちょうど救急車が出る所で周りの人達の話が耳に入ってきた。
「最近、血圧が下がらないで具合が悪いって言ってたわねぇ」
「急に倒れたんですって。それでそのまま階段から落ちたって」
「骨折もしてるみたいよ」
「いくら気丈にしていてもけっこうな歳だものねぇ」
そんな話をしながら立ち去っていく人の間から背を向けている森田さんを見つけた。森田さんに聞いてみようと近づき肩を叩こうとして私は手を引っ込めた。振り向きざまに聞こえた声はきっと聞き間違いだ。森田さんは私に気がつくといつもの笑顔をみせた。
「あら?今日は早いのね。今ね高野さんのお婆さんが倒れてね大変だったの。脳溢血みたいだけど。大丈夫かしら」
ことさら心配そうに顔を顰める。私が顔を強張らせたまま何も言えずにいると「どうしたの?顔色が悪いわよ」そういいながら何か手伝えることがあるか聞いてみるわといって歪んでひしゃげた家に入っていった。
私はのろのろとアパートに向かって歩き出す。頭の中で数ヶ月前の隣の部屋の人の言葉と、今聞いた森田さんの声が交互に浮かんでは消えた。


「あのひと、こわい」
「くそばばあくそばばあくそばばあ」


数日後、予定通り引越しをしたが、この時の言葉はしばらく耳について離れなかった。

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