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チチキトク、渡航と看取りの夏から2年。当時の日記がリマインダーで上がって来たのでnoteに転載しておこうと思います。長いし赤裸々ですよ、てへぺろ。

★写真は私が3歳、兄貴が5歳、高尾山ハイキングに家族で言った時のスナップだと思います。私の人生最初の記憶が、確かこの日だったと思います。

最近のブログやSNSは年次記録のリマインダー機能が標準装備で
どうやら、2年前の今日あたりは、チチキトクの報せに翻弄されていた模様です。ひっそり書き留めてあった日記をnoteに改めて転載して遺しておこうと思います。やや赤裸々でコッパズカシイ部分ありつつ
自分の目とマインドとスピリッツの感じたままに記録しました。
これは私の個人的な記録で、例え家族であっても世界は違う風に見えていたかもしれません。ただ、私自身はここに記録した時間をしっかり生きた、と思っています。今でも時々、いないはずの父と会話が成立してる瞬間があります。

===以下、2018年夏。日記ブログより抜粋。===

チチキトクの知らせを受けて、取るものも取り合えず
トルコ、カッパドキアから息子ちゃんを伴って飛んできました。

来ました、が、父の容態は安定期へ。
私が移動中は身体につけている心電図やらの機械がピーピーピー鳴って
そのまま逝く感じだったのを「陽子が来るわよ!ちょっと待って!」とか言いながら
家族中で引き止める様な雰囲気だったのだとか

が、私が到着して
翌日病院へ行ったら、目を開けている。
意識があるわけない、と言う話だったのに
明らかに私を見返してる。
熱も下がり心拍数も安定し、酸素濃度もほぼ100%。

二日目に行った時は弟嫁もいたのだけど
私が父の顔を見ながら
ウトウトしてそうだったので「お父さん眠いの?」と声を掛けると
かすかに首を振った。
誰も信じてくれないんだけど、これは弟嫁も見てて証人がいる。

意識は無いようで実は在るな。
結構分かってるな。

母は、逆に
「また嘘を言ってると言われちゃう。」と
父のこの安定を素直に喜べない様子。
何度かキトクの連絡がありつつ、その度持ち直してきた父。
実際、
ワタシもその実モヤモヤしてる。
設定滞在期間に父が「逝かなかったら」どうしよう。
なんと言う事を考えているのか?
しかし現実問題も同時進行なのだ。

もう一度往復とか絶対不可能。
親子二人分、私の年収分くらいの航空券代を払って来ているのだ。

さて、父。

意識があるかないかは分からないなりに
病院ではカテーテルと点滴に繋がれて
天井を見上げるだけの状態。
ベッドは床ずれ防止システムみたいなもので
定期的に少しずつ右に左に傾く。

ただ、それだけの24時間をただ毎日繰り返している。

口からものが食べられなくなって半年近く。
点滴だけでは水分もカロリーも十分ではないので骨と皮だけになっている
呼吸してるミイラのような様相。
まだ口が利けたときは、「腹減った」と言っていたらしい。

戦時中のひもじさを経験したせいで
この世代特有の感覚なのか食には貪欲な方だった。
その父が80年を経て、また「腹減った」と言いながら、死に掛けている。
数ヶ月前に、様子見で日本に単身来た時は
まだ意識がしっかりしてた。
私に
「困っちゃったな、本当に、家に帰れなくなってしまった。」とつぶやいていた父。

昨晩、
時差の影響で夜中に目が覚めてしまって
まんじりと夜明けを待つ間

ふと、肚落ちして納得がいった。

私が、ここに来た理由。
父の死に目に間に合ってしまった理由。

父がまた私に憑依してる。

「父を家へ連れて帰ってこよう。」

「最期にお腹いっぱい食べさせてやろう。」

ええ、ええ、無理は承知です。

何処からどんな許可取って
どんな手配をすればいいのか分かりませんが
無理を通せば道理は引っ込むはず。

私が無理やり父を家に連れ帰って
そのせいで父が亡くなっても
父が私を恨むわけがありません。

母や兄弟が私を責めるわけがありません。

それを出来るのは、強引に進められるのは、私しかおりません。

さっき、病院へ言って
父にそれを宣言してきました。
「家に連れて帰ってあげるからね。」

心なしか父の目に灯がともった様な気がします。

まず、実家の父の介護部屋を業者を入れて、今週末に最大断捨利をします。
母にも、部屋の中のものは基本捨てる方向なので
絶対捨てられたくないもののみピックアップするように伝えました。
父の衣類など、今後もう二度と着ないので
形見分けしたい、と思う服と、死装束以外は捨てて貰います。

それが済み次第
父帰る、決行です。

最期は点滴さえ拒否して楽に逝って貰いたい。
病院から自宅までさえ命がもってくれたらいい。
その時は呼べるだけ縁故親戚友人知人に声を掛けて
自宅にお見舞いに来て貰おう。
賑やかなお祭り好きだった父の最期は自分の部屋で賑やかに迎えさせてやろう。

どうかそれまでに
間に合わせよう。

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途中経過を書き出しておきます。
長くなるかも。

前回記事で父の自宅看取りへ大きく舵を切りました。

迷いがないかと言われれば無いとは言い切れませんが
それを圧倒的に上回る確信が自分の中にあります。

朝方、母と話して
地元の行政がやっている在宅医療専門の病院に問い合わせて貰いました。
自宅でずっと母が父を看護してきたので長年お世話になってきた施設です。
電話で「今、入院してるのですが自宅へ引き取りたいと思っているのですが、どうしたら良いでしょうか?」と尋ねます。

以前は頻繁に通ってくださっていたケアマネージャーの方がいたのですが
この1年余りは入退院の繰り返しでケアマネージャーより
主治医とのやり取りがメインになっていたので暫くご無沙汰してしまっていたそうです。

病院としては、まずケアマネージャーに担当して貰って諸々の手配が出来る、との事。

今度は、以前お世話になっていた介護サービスのケアマネージャーに電話します。

ケアマネージャーは担当できる患者数の上限が決まっているので
人気のあるケアマネージャーは既に手がふさがってしまっている可能性があって、また、新たなケアマネを見つけて貰うのに時間が掛かったらどうしようか、と心配しましたが
ラッキーなことに長い付き合いのケアマネがそのまま担当してくれることになりました。

そこから私が電話を代わって
ハジメマシテ、からご挨拶。

父が点滴だけで植物状態で入院してること
意識があるのかないのか判断出来ないこと
それでも本人は以前から家に帰りたがっていたこと
このまま機械やら点滴やらに繋がれたまま天井だけ眺めてあと1ヶ月長生きするよりリスクがあっても自宅へ連れて帰ってきて自宅で看取りたいことを伝えました。
何度も危篤を繰り返しているので、
一日遅れで間に合わなかった、と言う様なことが無い様に
最速で何曜日なら連れて帰って来れますか?と畳み掛ける。

ケアマネは一瞬戸惑った様な間のあとに
順序として、まずは今入院している病院の主治医の先生と話す必要があること
それで、退院が決定されれば、今度は病院のソーシャルワーカーから
ケアマネに連絡が入ること、その時点で、在宅での担当医が決められて、
搬送の為の介護タクシーの手配が叶うことを教えてくれました。

では、まずは入院中の病院の先生と話すのが始まりですね、と確認すると、
そうだ、と。

ただ、お嬢さんのおっしゃる趣旨はよく分かりましたので
平行して介護タクシーの手配や、こちらの受け入れ態勢も準備しておきます、と言ってくださったので
勇気が出てきて
「多分、自宅へ帰ったら、点滴も外して頂くこともお願いすると思います。」と言うと
また数秒絶句してから
「分かりました。ご家族様がそう望むのであればそれにも対応出来ると思います。」と言って頂きました。

そのあと、自分の方の通院の用事もある母が別の病院へ向かったので
私は息子ちゃんと父の病院へ向かいました。

病院へ到着すると、ちょうど看護婦さんが清拭をしているところでした。
「すみません。主治医の先生とお会いしたいのですが。」と看護婦さんに伝えると
「先生は外来で診察中なので、もし、先生とお会いになりたいのであれば、
事前にお約束いただかないと対応出来ないんですよ、すみません。」とおっしゃる。
「そうですか、でも、父を退院させて家に連れ帰りたいと思っていまして、
その搬送の相談をしたかったのです。」と言うと
ここでも看護婦さんが絶句。
「少しお待ちください」と言ってナースステーションへ戻っていく
暫くして、看護婦さんが戻ってきて
「外来終わりで先生いらっしゃいますが、お時間が掛かります。
お時間は大丈夫ですか?」と言うので「大丈夫です」と言って待つことにしました。

そうすると、暫くして病院のソーシャルワーカーの女性がやって来ました。
30歳前後のキリ!とした感じの細身の女性です。
ハジメマシテから始めて
じゃあ、食堂をお借りしてお話しましょう、と場所を移動して机を挟んで座りました。

そこで、また、今朝方、ケアマネさんに話したのと同じ話をします。
この状態であと10日長生きしたからと言って父は喜ばないと思うので
無理を承知で家に連れて帰りたい。
ケアマネさんから主治医の先生の許可が必要だと聞いています、と伝えました。
ソーシャルワーカーの女性は、私の話を細かくメモを取って
「では、先生と話してみますが、ご家族の他の方はなんておっしゃてるんですか?」聞く
「今は、母と話していますが、兄貴と弟はこう言う判断はしないタイプの人なので自宅へ連れて帰れることが決定すれば、私から彼らには『宣言』します。」と言いました。
ソーシャルワーカーの方は
「それでは、今伺った趣旨でお話は進めていきますが本当に良いのですね?」と確認してきます。
「お願いしましす」と伝えました。

そこまで話して病院は辞去してきました。

=====

病院の出口で息子ちゃんとハイタッチ!
「お祖父ちゃんを家に連れて帰るぞイエーイ!」と息子ちゃんも笑顔。

自宅へ帰って、トルコから持ってきたコンピューターを開いて仕事をしていると、自分の受診しごとを終えて帰って来た母がやって来ました。
「あんた、病院へ行ってナニ言ってきたの?」と言う。
「え?朝、ケアマネさんと話したみたいな話よ。お父さんを自宅で看たいって。」と言うと
母が言うには
母の携帯に病院のソーシャルワーカーの人から電話があり
「私はお嬢さんとは初対面です。今まで奥様とご次男しかお会いしておりません。まだご紹介も頂いていないお嬢さんからいきなり今までご説明してきた療養方針とは全く違う退院を、といきなり言われて大変困惑しています。
他のご家族とも至急面談してご意思を確認したいと思いますので、
お嬢さんだけではなく息子さんも同席頂いてきちんとお話出来ませんか?」と
言っていたのだとか
母が言うには大変な『剣幕』だった、と
アンタがまた何か訳の分からない物言いをしたんでしょ!と言う。

ええーええーええーーーーーーーっ
ついさっき話して帰って来たところで、ソーシャルワーカーの女性とはかなり和やかに私の言う趣旨を理解して貰えてる印象だったけど?
息子ちゃんもそばに居たけど、ああ、これでお祖父ちゃんを家に連れて帰れるねってハイタッチして二人で喜んで帰ってきたとこよ、と言うのだけど

とにかくそれでは
会社勤めの兄貴を急に呼び出すのは難しいかと思うので自宅自営業の弟に来て貰おう、と言うことになり弟へ電話。
母は一足先に病院へ向かう。

弟へ電話して、事の経緯を説明。
私以外の兄弟にも同席して貰って主治医の先生とソーシャルワーカーと
話し合いをすることになったので出てきてくれる?と聞くと
「なんで、そう言うことになるの?」と言う。
「え?自宅へ引き取るの反対なの?」と聞くと
「反対じゃないけど、なんで、オレがその話し合いに同席しなきゃならないの?」と言う
「え?ただ、病院側としては私以外の家族の意思も確認したいからじゃないの?とにかく同席してくれればいいから、時間に病院へ来て。」と言うと
「同席したら、オレが同意したことになっちゃうじゃないか!」と言う
「え?だから反対なの?」と再度聞く
「反対じゃないけど、なんでその話し合いにオレが同席しなきゃいけないんだよ。」と言う
「お願いだから、家族として来て。来てくれるだけでいいから、同意とか反対意見とかもし、アナタに何か考えがあるんだったら、その場で何でも言ってくれていいから。」と言うも
「だいたいお母さんは何て言ってるの?」と言うので
「お母さんとは話してるよもちろん。一緒に連れて帰って来るために動いているんだもの。」と言うと。
「お母さんはまだ迷っているよ」と言う。
「迷いがない人はいないよ。
 でも、もうこの状態でいたずらに長引かせることより
 自宅で看取ってやった方が絶対良いと言う確信があるの、今、ワタシがこっちに滞在してるうちに最期をちゃんと看取ってやりの、話し合いの場で何言ってくれてもいいから、時間に病院へ来て!」と言うも
「そんな医者や他人の前で自分の気持ちを吐露したり
 お母さんに吐露させたりと言うのは出来ない相談だよ。」と言う
「いいから来て!時間に病院へ来て!」と言って電話を切った。

電話を切って玄関まで下りたら先に出て行っていたはずの母がまだ居た。

弟の反応を話すと
「誰だって責任を取るって言う話では動揺するものだよね。」と言う。
お母さんは迷っているって言ってた、と言うと
「数週間前に抹消血管でもう点滴の針をさせる血管が見つからなくなって
 鼠径部の動脈へ針を刺すことになって、それに同意するかどうかの書面にサインさせられたの。それにサインすると言うことは、点滴で続く限りは延命すると言うことになるんだと思うのよ。そのことを言ってるんだと思う」と。

病院へ到着して
ナースステーションへ呼ばれると
主治医の先生、ソーシャルワーカー、担当看護師の方がたが
打ち合わせ机に座って待っていらっしゃる。
普段そこで作業などしてらっしゃるはずの他の看護婦さん達も
所在無さげにステーションに居て10人以上の人がこの話し合いを聞いてる様な状態になっている。

まず、主治医の先生から
この病院での療養プランや先生のやって来たケアの内容の説明。
20分くらいの時間を掛けて実に丁寧に分かりやすく話してくれた。
延命拒否をしているとは言え、
その中で許されるあらゆる手を尽くして
父の命を永らえる為に心を砕いてくださっていたことがよく分かる。

ありがたい。

ここでも、ネックになったのは鼠径部への点滴の差し替え。
これは、当初、延命治療の拒否を前提に転院してきた条件から微妙に外れていて新たに、延命の方向へ向かったことになるので今回のいきなりの退院の意向を伺っていささか面食らっている、とおっしゃる。

なるほど、医療関係者からの見え方と言うものはそう言うものなのだな、と
改めて知る。

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医師から父の今までの療養方針の流れを全て聞いて
ここから
「さて、ご家族のお考えを伺いたい」と言う流れになり私が口火を切った。

今回、父が危篤と言うことで海外から急ぎ駆けつけました。
来て見れば容態は安定し直しまして、ほっとする反面
父の変わり果てた姿にはご想像通りショックを受けました。
今、このまま点滴を受けながらあと1週間十日、もしくは1ヶ月長生きしたからと言って天井と壁を見つめるだけの24時間をタダ重ねていくだけで父が喜ぶとは全く思えません。数ヶ月前にまだ意識があった頃には、目の前で不自由な身体を押して病院から無理にでも自宅に帰ろうとする父がおりました。
もちろん当時はもっとしっかりしておりましたので、娘の私からしても一日でも長く生きていて欲しいと言う思いから、可哀想ですが縛り付けるようにして抱きかかえてベッドへ戻してやることしか出来ませんでした。

口からモノが食べられなくなって2ヶ月経ちます。
点滴だけでは必要十分なカロリーが摂取出来ずお腹が空くのでしょう。
元より胃ろうは拒否しておりましたので仕方ありません。
戦時中ひもじい思いをした世代のせいでしょうか、父は食に対して貪欲な人でした。その父が今、再び70年、80年経て、またお腹を空かせて死に掛けています。そんな思いをしてまで、もう一日、もう一週間、天井を眺めながら長生きする意味が娘の私には分かりません。私が感じていることは父も同じと言う風に私の中で確信があります。

あんなに帰りたかった自宅へ返してやって、点滴や注射も薬もなしに
食べたいもの何でも食べさせてやって、友人知人家族親戚を呼び集めて
お寿司でもとってビールで乾杯させてやります。
それで誤嚥性肺炎で亡くなっても私は父に恨まれることは絶対にないし、
私自身も全く後悔致しません。

と一気に語り終えました。
ナースステーションが静まり返ってしまいました。

主治医の先生が
「お嬢さんが後悔するとか、お父様に恨まれる、と言う話は全く次元が違うお話で判断をするのは、ゼロ親等の奥様であるところのお母様です。」と冷静に諭す。

母は促されるも私が話している間から泣き出してしまっていて話せません。
「分かりませんわかりません。」と繰り返すばかり。

弟が、
「お姉ちゃん、いくらなんでもビールだお寿司だ宴会だって、ここで言う話じゃないでしょう。」と

弟が主治医に聞く
「もし、今、何か口からものが入って誤嚥を起こすとどうなりますか?」と

先生は
「喉につまりますから、所謂『窒息死』をすることになります。」とおっしゃる。

まあ、意識がないんですから
私だって無理に喉に何か突っ込んでやれ、と思っているわけではありません。プレ陰膳ですわよ。目の前に並べてやるだけのつもりでしたわよ。
ふん、だ。

先生が静かに話し始めました。
「ご家族様の特にお嬢さんのお考えはよく分かりました。ひとつの見識として、素晴らしいと思います。ただ、私は医師ですので、そうですか、と言ってお父様の点滴を外せる立場にはおりません。お父様と同じ状況でまだ先数ヶ月立派に生きていけてる患者さんがこの病院には実際に沢山いらっしゃいます。お父様の様な状態になったら諦めて良い、と言うそう言う考えは到底持てないのが医師と言う立場です。ただ、もし、ここから在宅医療、看取りに切り替えて、在宅医療の専門施設で担当医が決まり、その担当医の先生と十分にお話して、その先生が結果ご家族の意向に添う処置をしても、この病院を出てしまった患者さんの話ですから私が感知することではありません。ただ、この病院内では私は出来ません。もしやって、医療裁判になったら確実に医師側が負ける事例です。」とおっしゃる。

弟が質問
「もし、点滴が外せたとして、先生の見立てではどれくらい父は持つのでしょうか?」

「点滴を外せば、水分が一切補給されなくなりますのですぐに脱水症状が始まります。その先は日にち単位の時間になると思います」と。

「それは苦しいことなんでしょうか」と言うと

「そんなに多くの事例がある訳ではないので、苦しいのかそうでないのか私からは何ともこうだ、と決定でお伝え出来るものではありません。」と言う。

私が口を挟む。
「点滴やめて枯れていく老衰は辛くないよ。安楽死に近い穏やかな『死』だよ。」と言う。

弟が「お姉ちゃんがナニ知ってるって言うんだよ!」と言うと
先生が続けてくださる。

「今、医学界でも、そのことについて活発に論議されていますが実際に、病が進行していく中で、『その時』が近づいた患者さんにどれくらいの点滴が適当なのか、まだ結論が出ていません。確かにご長女様がおっしゃる様に老いの先に点滴の量を減らしていく、身体の水分が減っていく、と言う方が明らかに穏やかな最期を迎える傾向にあり、医師たちも試行錯誤をしているところです。」とフォローしてくださる。

他にも、定期的に熱を出していて、その度に抗生物質を点滴に加えて熱下げていたが点滴がないと、それも出来ないので処置が出来なくなる、と看護師さんがおっしゃる。

「熱が出たら氷枕と氷嚢をぶら下げてやります」と答える私。

自宅に帰ったら24時間体制になる。
お母様が耐えられるのか?ご家族様がそれをフォローしていけるのか
もし、苦しんだ様子になっても救急車を呼ぶ、と言うこと、この病院へ戻る、と言う選択肢はありません。その覚悟が持てますか?とソーシャルワーカーの女性が問う。

すかさず、弟が
「オレは責任持てないよ。」と発言する。

「母に24時間看ろとはもちろん言いません。私は今、父の看病をする為だけに日本に来ています。全面的にその覚悟も看護の責任も私が引き受けるつもりです。帰国の飛行機も父が逝くまで延長し続けます。母は、今まで15年も父を一人で看て来ました。母にこれ以上押しつけ続ける方が酷です。今、子供も孫も全員いるタイミングでどうしても帰りたかった家に父が帰って来れるのですから、なんの文句も言いませんし、どんな姿になってもちゃんと看取ってやりたいと思います。」と言いました。

母が
「そうねぇ、お父さん、やっぱり帰りたいわよねぇ。」と言って号泣する。

もう、かれこれ45分ほど話し合いが続いてしまいました。
先生の方もお忙しい立場です。
「では、だいたいのお話は分かりましたので、こちらでも院内で話し合ってなるべくご家族の意向に添える様に調整を致します。ただ、いきなりな話でもあるので、最速でもお父様の退院は来週半ばになると思います。週明けの月曜日に、ゼロ親等であるお母様のお考えをまとめて頂いて、お母様から改めてGOサインが出たところで全て月曜に手続きをスタートさせるように致します。それで良いですか?」とソーシャルワーカーの女性が宣言して話し合いが散会となりました。

先生が今回の話し合いを受けての話し合いの確認書を作成して
母のサインを貰う必要があるので少々お待ちください、と言うので
また父のベッドまで行って待つ。

待っている間に入れ替わり立ち代り、看護師さん達が様子を見にいらして話していってくださる。看護師さん達の意見はほぼ全員私の意見を支持してくださっている様なニュアンスだった。もちろん「はっきり言えないのだけど」とか語尾などは濁しながらなのだけど亡くなるための病院と言うニュアンスの施設なので、看護師さん達は日々うちの父の様な患者さん達を沢山看取ってらっしゃる。

皆さん、やはり点滴なしの患者さんの安らかなお迎えに何度も立ち会っていらっしゃる由。

改めて、最期までやり切ろう、と言う力と覚悟が漲ってきた。

週明けからがいよいよ天王山です。
どうか祈りを!

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ちょっと弱音。

紆余曲折を経て
いよいよ明日、父が自宅へ帰ってきます。
主導権を握ってしまったのは私です。
ソーシャルワーカーの方から再三
「今回はお嬢さんの強い意向でお話がスタートしました。もし、ご自宅にお母様一人だったら絶対に賛成できない処置です。お父様がご自宅へ帰った以上、事情が変わりましたのでまだ預かってください、と言う様な対応は出来ません。娘さんが日にちが来たので本国に帰ります、後はお母様が看ます、と言うことはお父様の状態では絶対に無理です。そう言う無責任なことが起きることだけは絶対に避けなければなりません。もし、もしも、お父様が予想に反して数ヶ月単位で長引いても最期まで日本に居られますか?」
と最後の最後に確認の電話が入りました。
週末、考えて自分なりに胎もくくったので、
「最後まで責任を持ちます」と宣言しました。

明日、父が自宅へ帰って来たら24時間体制に入ります。
そうなったら息子ちゃんの気分転換に外へ連れ出すことも適わなくなると思われます。年上の従兄達が映画などの連れて行ってくれる約束がありますが
まあ、とりあえず、と言うことで昨日の夕方から息子ちゃんを連れて出掛けました。行くあても適当だったので入館時間が間に合いそうなもので六本木近くでやっているスヌーピー博物館へ行きました。今まで熱心にスヌーピーを読んできたわけではありませんでしたが四コマ漫画状のスヌーピーのエピソードを改めて息子ちゃんと読んでみると殊の外面白く、またスヌーピーが我が家の愛犬君にそっくりでそんなこんなで意外に楽しく見学が出来ました。その後でミッドタウンへ行ってウロウロして、夕飯を食べて帰って来ました。

家に帰ると父の見舞い帰りの母が居ました。
「今日はお祖父ちゃんがとっても元気で脚を動かしている様子もあった。」と言います。
「もしかしてお祖父ちゃん、本当に家に帰って来たら元気になっちゃう様な気がしてきた。」
と、嬉しそうな様子の母。

本来なら良いニュースなのに
胸の中にドヨンとしたものが立ち上ってきます。

今回、自宅で父を看取りたい、と言う思いは
私の中で如何ともしがたい衝動としてありました。
これは父が望むことで私が意を汲んで推し進めなければ、と言う強い思いがありました。今、安定した状態で日々が過ぎていて自宅へ搬送してからは自宅で『出来るだけ患者本人の苦痛を取り除く』ことのみに集中して最小限の処置のみにする、と話し合いが出来ています。在宅医療施設からいらっしゃる主治医の先生とも訪問看護の看護師さんともカンファレンスが済んでいます。私は点滴も外して貰いたい、と熱望していましたが流れ的に、入浴介護サービスを依頼して、入浴時までは点滴を付けておいて入浴時に外して、新たな点滴は刺さない、と言う流れになりました。風呂好きだった父には「点滴より入浴です」と言いました。

在宅医療の主治医の先生とは母も長い付き合いです。
元々は、この1年の入退院が無ければ、この先生と自宅でそのまま看取りをしていく予定でした。
1年前にうっかりコケた父が骨折して、
現場で慌てた母がそのままタクシーで病院へ連れて行ってしまったために、
そのまま家に帰ることが出来なくなってしまった、と言う…。

母と先生との間では看取りの方向で大まかなコンセンサスは既に有ったようです。その先生が、針で刺す点滴ではなく、肌に貼る形でゆっくり輸液を身体へ通す皮下点滴と言うものがあるのでやってみたい、とおっしゃる。点滴を完全に無くしてしまうと、もって数日、と言う時間だけれども皮下点滴なら患者さんの苦痛はなく、水分は補給出来る、とおっしゃる。

父に苦痛がないのであれば、皮下点滴ならいいかも、と言う話になりました。

父の退院
入浴サービス
点滴除去
皮下点滴開始

父の残された時間がいかほどか
誰にも分かりません。

父は意識が無い様子ながら
家に帰れる、と言うことが分かった気がします。
昨日、母が見て顔つきがはっきりしてきたり、脚を動かす様子をしたり
「希望」が父に力を与えてるのではないか、と言う話をしていました。

そんな、段取りが思うまま進められて
本来なら、少し明るい展望なはずなのに
この重苦しいドヨンとしたものはなにか?

「父の看取りにどれくらの時間が掛かるのか読めなくなってしまった…。」

当初
チチキトク、と言う報で
チケット代の算段も相当無理をして飛んできました。

死に目に間に合わないかもしれないけど、葬式まで参加して
初七日済んだら帰るつもりで2週間のチケットを取ってきました。

トルコで私が責任を取らなければならない仕事も万障繰り合わせて調整して貰いその期間に限っては特別な配慮を各所でして貰っています。

息子ちゃんの夏休みもそろそろ終わります。
夏休み明け前に、そろそろ受験学年に近づくので1週間の補習授業もあります。

その前にも、地元の行事で参加したかったものがあったので以前からお金が入金してあるものがあります。それは物品購入を含むもので、それ自体が自宅へ届いてしまいますが本来はそれを貧しい家庭に配って歩く予定にしていたものです。自宅で受け取って配り歩く作業を、私が居なかったら誰かにお願いしておかないとなりません。大変な作業なので義父母へ丸投げしたくありません。そうでなくても、動物達や植木や畑や借家人さん達への対応なども全部丸投げです。
このまま
看取りの時間がどこまで延びるか分かりません。
もし、最悪息子ちゃん学校が始まる時期までズレ込んだ場合はどうしたらいいのでしょう?

まず、飛行機の戻り便の延長をしたら…。

私は何も悪いことしていないし
正しい選択をしている自信があります。

その一方で父が「長引かなければいいな」と思っていると言うことが
周囲にも伝わっているでしょうし自覚もしています。

父の最期の穏やかな時間と自宅での看取りに関して
母と思いを重ねておかないと、一番大事な部分の土台が崩れてしまいます。
そこに齟齬はないのか?自分の中で迷いも出てきます。

お父さんの看取りが1日単位で長引けば
私の失うものも、日増しに大きくなっていくことも本当のことなんです。

兄貴や弟が生活の延長線上で関わっていけるのと違い
私は下手すれば、家庭も仕事も一度清算しても仕方ない、と言う
自分勝手ですが、そんな胎をくくって今回の父の退院へ向き合っています。

自宅へ引き取ってから
父が思いのほか元気な様子を見せれば他の家族も「やっぱり高度の点滴も延長しようよ。」と方針の変更を検討し出すかもしれません。その時に、私は何と言うのだろうか。

====

父が退院してきて
翌日に訪問看護のドクターが来て高度点滴を抜きました。
一本だけ水分補給の皮下点滴を5時間して、それも夕刻前には終わったので
私自身の手で抜きました。

毎日微熱程度の発熱があります。水枕と濡れタオルとわきの下のアイスノンで対応しています。2-3時間おきに痰を吸引していますが、点滴が終わって水分が減ってくれば痰も出なくなってくるでしょう。
今、身体に針が入っていない状態で、今の父の身体的苦痛は吸引と発熱だけかと思います。吸引がしなくてよくなれば、あとは、本人が気持ちよい程度に身体を冷やし続けてあげれば良いのかな、と思います。

今夜は父の退院祝いを父の看護部屋でやろう、と言っています。
準備などがしっかり出来るわけではないので、全部店屋物。
ピザとお寿司と、ま、あとはサラダとから揚げでもあればいいか、と言っています。娘息子三人その連れ合い二人、孫5人とりあえずバイト終わりで遅く合流する子もいつつ全員顔見世出来るはず。

父は意識があるのか無いのか判断出来ませんが
きっと耳は聞こえていると信じているので
分かっているものとして話しかけています。

孫たち子共たちが集まって賑々しくしていたら分からないなりに、雰囲気は感じてくれるかも、と期待しています。自分が食べられない人の前で飲食するのは如何なものか、と当初、兄貴と弟も躊躇してましたが
私がラインで
「もう内臓も受け付けない状態だと、よく、見ただけでお腹いっぱいになっちゃうって事あるでしょう?きっとそんな感じだよ、前に並べてやって目で楽しんで貰うわ。もうね、『プレ陰膳』だわね。」と書き送ったら

兄貴からも弟からもラインで「プレって…(;^ω^)」と言う
動揺しつつも笑顔の反応が返ってきました。

段々、いろいろ、皆の心で受け入える準備が整ってきました。

今日は、自宅入浴サービスの方がいらしてお風呂に入れてくれます。
ドクターから入浴の許可を頂く際に「この状態ですから入浴中の急変も有り得ます。」と言われましたが「風呂好きの父なので、入浴中に気持ちよく逝ったら大往生です。」と言いました。本当にそう思います。

ひとっ風呂浴びてサッパリして夜は一家勢ぞろいで宴会です。
スポンジにつけてビールで唇を湿らせてやろうかな?

明日どうなるか分からない毎日なので
息子ちゃんのことも含めて、一切プランなし。
一日区切りで思いついたことだけをしています。

====

明日、通夜、明後日、葬儀、です。
それが終わって日曜の飛行機で戻ります。

終わってみたら
何も失っておりませんでした。

私が居ないとマズイだろ、と思っていたトルコでの現場も本日無事終わっており重い仕事で義父母には丸投げ出来ん!と心配してた用事にはギリギリの日程で間に合い、日本からわざわざ私に会いに来てくれる予定だった友人の渡航には居合わせられることになり。

あんなにザワザワしてたのが嘘の様な晴れ渡りっぷりです。

+++以下は今朝FBに書いた、最期の様子など+++

昨日の朝亡くなって
怒涛の葬儀準備。
喪主は兄貴なので私は母のサポート役でさほど忙しくはありません。
来客対応程度。
忙中閑あり。
私が帰国して十日。
無理にお願いして退院して三日。
点滴も外して貰って二日。
前日には在宅入浴サービスで入浴。
入浴中はあくびも出て気持ち良さ気な様子。
ひとっ風呂浴びてサッパリして、夕飯は孫子揃って寿司とピザ取って宴会。
飲み食い出来ないながらも、口腔用スポンジでビールとワインで口ん中を湿してやる。目が輝いていて、意識がある感じで分かっている様でした。
ワイワイガヤガヤ、あんまり五月蝿くするとウルサイって怒られちゃうかなー、と言いながら皆で大騒ぎ。

から~の、翌朝。
段々冷たくなる中、脈が段々弱まる中
母や孫子全員に手を取られて、皆に声掛けられながら
眠る様に逝きました。

入浴中は、兄貴が「生き返った?」と声掛けて看護婦さんに失笑されたり
「極楽極楽」と言ってやって「あ、まだ早かった?」なんて言ってみたり。
入浴後に浴衣を着させてやるときに看護婦さんがウッカリ左前にしちゃマズイから、と言って冗談言ってみてり本人から裏拳でツッコミが入りそうな最後の数日で耳は聞こえていたと思うので、冗談好きだった父もさぞや面白がっていたのではないかと思います。

自宅で大往生。

長年そばで看てきた母も、何も思い残すことはない、と言ってますので、
それが何より一番かな、と思います。

誰もが「こんな風に逝きたいな」と思う様な最期でした。
病院の主治医の先生、ソーシャルワーカーの先生
長年担当してくださったケアマネージャー
長年看て下さった訪問看護の主治医の先生、看護師さん
全ての関係者が、こんなに真面目に真剣に父の最期の最善とは何か、と言うことを家族と一緒になって何度も集まって話し合って、そしてサポートしてくれました。こんな風に「看取り」と言うものを誠意持って対応して貰えるとは正直思っておりませんでした。
制度やシステムで面倒くさい事になったら自分ひとりで父を担いで帰って来ちゃえ、ぐらいの勢いでおりましたので、今終わってみたら、全ての周囲の方へ感謝しかありません。

ありがたいことだと思います。
天を仰いで感謝しています。


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