今のそのままの自分でいていい ――11/9アセクシュアルシンポジウム(@大阪大学)に参加して


 11月9日(土)に大阪大学で開かれたシンポジウム「アセクシュアルから考える親密性――人の多様性、関係の多様性――」に参加した。
 アセクシュアル――日本では“無性愛”と訳されるが、そういう言葉があることは性的マイノリティについて関心を持つようになってから知ってはいた。その定義についてもある程度知ってはいるつもりだったが、その曖昧さや英語圏のAsexualと日本語のアセクシュアルの違いなど、本シンポジウムで改めて学ぶことができた。

 表題の言葉「今のそのままの自分でいていい」――これはシンポジウムで登壇していたアセクシュアル当事者のなかけんさんから頂いた言葉だ。この言葉に自分は救われた、と言うと大げさかもしれないが、それに限りなく近い感覚で、嬉しかった。

 自分のSOGI(性的指向(Sexual Orientation)と性自認(Gender Identity))について説明しようとした時、まず性自認は「男性」のシスジェンダーであると特に違和感なく答えることが出来る。しかし性的指向については、ずっとヘテロセクシュアル(異性愛者)だと思っていた。アニメや漫画など創作物のキャラクターでより魅力的に感じるのは女性キャラであったから。けれど、実際に異性を恋愛的に好きになったことは生まれてから一度も無かった。誰かと交際したことも無い。告白されたことは何度かあったが、全て断ってきた。その人を恋愛的に好きだと思っていなかったから。さらに言えば、「恋愛」や「好き」とは何なのか、実感として理解できなかったから。

 それは「経験が無いから」と言われればそれまでで、自分でもそう思っていた。けれどアセクシュアルという言葉を知ってから、その「自認」に疑問という綻びが生まれた。

 日本でアセクシュアルというと「他者に(恒常的に)恋愛感情や性的欲求を抱かない」等の意味で用いられる(英語圏のコミュニティでは性的に惹かれること(Sexual attraction)と恋愛的に惹かれること(Romantic attraction)は分けて考えられるため、日本のアセクシュアルはAsexual+Aromanticに近い)が、本やインターネットでその解説記事を読んだり当事者の話を聞くと、一般的な「恋バナ」より共感することがとても多く、自分にも身に覚えのあることばかりだった。シンポジウムでも当事者の方のお話に頷くことが多く、これまで自分が思っていても話せなかったことを代弁してもらっているような気がして、涙が溢れそうになることすらあった。
 一方で自分と違うところもあった。例えば自分の場合、性嫌悪を感じたことはほとんど無く、性的欲求も無いとは言えない(他人に性的に惹かれたことは無いが)。そのため、「自分はアセクシュアルだ」と言い切ることが出来なかった。また交際経験が無いことも確信を妨げる一因となった。今回聞いた当事者の方のお話では二人とも告白をされて交際したが、相手からの恋愛的・性的要求に応じることが出来なかった経験があった。

 「アセクシュアルは死ぬまで自認できない」と言われることがあるという。“無い”ことの証明はほとんど不可能に近い、悪魔の証明である。経験が無い、したことが無い以上、確証を持つことが出来ない。もしかしたらまだ出会っていないだけ、経験していないだけでいずれは恋愛的に好きになることも、他人に性的に惹かれるようになることもあるかもしれない。この先どうなるのかなんて分からない。

 一度だけ、恋愛を「しよう」としたことがある。その人とはそれまでも親しくしていて、一緒に食事に行ったり飲みに行ったりしてそれを自分は楽しいと感じていた。しかし環境の変化でその人と疎遠になりかけた時、繋がりを保つために自分がしたのは「告白」だった。恋人関係になればたとえ環境が変わっても連絡を取ることができる、そのための手段だった。しかしその時――「告白」する瞬間も――自分がその人のことを「好き」だったのかというと、自分でも断言することは出来ない。「好き」に「なろう」としていた、という方がよりしっくりくる。結局、その人とは実際に恋人関係になることも無く、間もなくして疎遠となり今では連絡も途絶えることになったのだが、他人はこれを「失恋」と呼ぶのかもしれない。「『好きが分からない』と言っているのは、失恋の痛みを和らげるための逃避に過ぎない」のだ、と。そうかもしれない。無意識の内にはそういう部分もあったのかもしれない。しかし自分の「意識」として「なろう」とするということは本当は「そう」ではなかったのだと思うのである。

 自分はアセクシュアルかもしれない、けれど自分でそう言い切ることも出来ない。アセクシュアルという概念を知り、「カテゴライズされることの安心感」という言葉が当事者の方のお話に出てきたけれど、カテゴリーに当てはまらない孤独感、不安感はたとえ実生活に影響がそれほど無かったとしても、ずっと纏わり付いて拭い去ることが出来なかった。
 型にはまらない自分
 ありのままの自分
 セクシュアルマイノリティについて学んでいると何度もたどり着く結論だ。その大切さは頭でなら理解できる。自分もそう思えばこの悩みからも解放される。分かっている。口で言うのは簡単だ。でも、考え方を変えるなんてことは、そう簡単に出来るものではない。頭で分かっていても、頭の中を変えることは容易くない。難儀なことに。

 実を言うならシンポジウムに参加したのも、アセクシュアルについて知りたいという以上に、自分の悩みを解決する糸口を見つけたいという思いもあったのかもしれない。
 シンポジウム、その後の懇談会と、登壇者の方や他の参加者の貴重な話を聞けて有意義な時間を過ごせたと思う一方、自分の本当に聞きたかったことはいつまでも聞けずにいた。そして懇談会も予定の時間を過ぎてついに終わりを迎え、解散となった時、それまでずっと近くで話を聞いていながら自分からは話しかけられずにいたアセクシュアル当事者の一人であるなかけんさんに意を決して話しかけた。とうに会の時間も過ぎていて、他の知り合いの人がいたにもかかわらず、拙い話に真剣に耳を傾けてくださり、そしてこの言葉をくれた。

 それは、初めて聞いた言葉では無いけれど、初めて自分に向けられた言葉だった。
 悩みが無くなったわけではない。相変わらず自分の性的指向を一言で言い表すことは出来ない。でも、それでいいのだ、と。

 そもそも自分の性的指向について真面目に話す機会なんてほとんど無い。大抵他人は自分をヘテロセクシュアルだと思い、恋人は欲しいものだという前提で、将来的には結婚するという価値観を持って、話をしてくる。けれどそれは世間話の一つに過ぎず、その日の天気の話と同じくらい生産性の無い、会話のための会話だ。それにいちいち真面目に相手する必要は無い(ストレスは感じるけれど)。もし真面目に話すことがあれば、その時はたとえ長ったらしくなってもややこしくなっても、言葉を尽くして説明すればいい。たとえ理解されるのが難しくても、それが嘘偽りの無い自分なのだから。

 自分の持つ違和感、モヤモヤを言葉に出来ないのは非常に不安だ。言語化することによって初めてそれが何なのか見えてくる。

 自分はアセクシュアルだ、とは言い切れない。だが、アセクシュアルに近い――少なくともその要素を持っている、とは言える。今のそのままの自分で、自分を語る言葉を探す。これからも、自問自答しながら。


以下、シンポジウム当日の感想


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?