哀しみについて

あいも変わらず睡眠状態は一向に良くはならず、感情との折り合いが上手くいかなくてこんな時間になってしまった。

一人でいると夜よく泣いてしまうことがあるのだけど、大概の原因は哀しみとの関係が上手くいかないことによることが多い。

哀しみ、悲しみとも書くけど、悲しみの方はなんだかかなしいという感情しかないようで、哀しみにはそんな感情と少し諦めにも似たやるせなさのような、絶望のような何かが混じっているようで、好きだ。

かなしいことに変わりはない。でも、泣いてしまうほどかなしい時、もうどうにも事実が変えられないものだと知っていてなお、かなしい感情でいっぱいになる。泣きながらも諦めが待ち構えているのだと、知ってはいる。知ってはいても、泣くことを止められるわけもない。

だってどうしようもなく、つらい。変えられない事実だということがさらに追い打ちをかけてくる。ダブルコンボ。ウルトラスーパークリーンヒット。


 自分に対する周りの評価はこれまで総じて、強そう、一人でも生きていけそう、だったし、きっとたぶんこれからもそうなのだろう。人は誰しも見かけ通りの人間じゃない、というのが私の持論だけど、他人から見える自分は、悉く見かけ通りだと思われているようで、笑える。少しも笑えないけど。
 自分の感情にすら嘘をつき続けて早15年。遅いようで早くて、自分の本心にすら鈍くなったのは、功を奏したとでも言うべきだろうか。けれど、自分以外の人は私が被っている強そうな人という皮を私だと、信じてくれているというのは、ほっとすると同時に、少し、きつい。
 自分が本当は、どうしようもなく弱い人間なのだと、こんな時に思い知らされる。傷つきたくないがために他人を遠ざける皮を被ってきたくせに、一人で居続けることに耐えられなくなってくる。
 見かけ通りの人間じゃないと気付いてほしい、一人では無理だと気付いてほしい、誰か一人にでいいから愛されたい。

傷つくことが酷く嫌なくせに、孤独に耐えられなくなりそうで嫌だ。

 他人に興味が無いと言われることが多々ある。興味を持たないようにしているからだ。他人に興味を持てばその人と親しくなり、その人を大切に思ってしまう。そしたら、いつか必ずやってくる喪失に耐えられない。また心臓を突き刺されるような痛みと哀しみを覚えてしまう。
 あんな、泣いても泣いても終わりが来ない痛みを伴う哀しみを、もう、増やしたくない。もう7年経ってもなお、たった一つの喪失に、心臓にナイフを突き立てることを数え切れないほど繰り返している。あんな喉をかきむしりたくなるほどの哀しみを、もう体験したくはない。

狂おしいほどの愛を知っている。
代償として、狂おしいほどの哀しみも知った。

 正直なところ、家から一歩も出ずに、これから先誰一人とも知り合うことなく、既に大切になってしまった人たちとの別れが来ることを一人で耐えていたいのが本音。
 それと同じくらい、死ぬまでに誰か一人でいいから、自分の皮の下を見抜いて本当の自分を愛してほしい、というのも本音。
 けれど、臆病である自分は臆病であることすら隠してしまうだろうから、このまま皮の外側が自分だと認識されたまま死んでしまうのだろう。

そうなってほしいのも本当、予想を裏切られたいのも本当。自分の感情なのに、なにひとつままならなくて嫌になる。

いつかは哀しみと折り合いがつくのだろうか。つくような気は正直、あまりしない。7年前の哀しみをまだ後生大事に抱えていて手放せないのに、訪れることが確定している哀しみがやってきたら、どうなってしまうのだろう。
地獄に落ちた方が幾分かマシだと思ってしまうかもしれない。

これからのことはなにひとつわからないけど、鶯が鳴いているので起きることにする。結局一睡もできなかった。

生き地獄にようこそ!

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