「何者」を読んだらSNSの使い方について考えさせられた話

SNSと若者の関係をこれほどうまく描いた作品はないと思う。

たった140字で他人のことがわかるわけがない、という先輩の一言が主人公にささるシーンがあったが、私たちは実際のところ、他人どころか自分のこともわかると思っているのかもしれない。というのは、SNSに投稿するために行動する人もいるからだ。

では、はたしてそれが悪いことだと言い切れるだろうか?

人間の行動の良し悪しを考えるのは簡単なことではないが、写真だけ撮られて捨てられてゆく食べ物などもすでに問題となっており、これは避けることのできない議題である。

では、そもそもなぜ現実での社会基準よりもSNSという枠組みの中での基準にそこまでとらわれてしまうのか。いや、インスタ女子たちにとって、インスタはツールの一つではなく、そちらの方が現実に近いのかもしれない。つまり、インスタという世界そのものが独自の文化をもっており、学校の代わりのようなものだ、という仮説である。例えば、テストが返ってきたときにやたらと平均点や他人の点を知りたがるやつがいる。それはインスタでいえば、他人のいいね!の数と自分のを比べているやつと同じだ。

確かに、インスタという一つのバーチャル・リアリティを手に入れたことで、居場所ができたり、救われた人もたくさんいると思う。しかし、インスタ他SNSは現実世界のオルタナティブとして完全に機能しているだろうか。

「何者」で、主人公が思いを寄せる瑞月が、少し複雑な家庭の問題を電車で打ち明け、頑張らなきゃ、と決意を見せるシーンがある。主人公はその言葉と、Twitter上で頑張ってますアピールをする友達の言葉を比べ、重みに違いに言及している。

私はこの主人公の気持ちに賛同する。本来電車でするような話ではないが、とっさに出たのだ。そういう瞬間が、SNSにあるだろうか。私たちはSNS上ではきちんと用意された、「見られること」を前提にした自分自身を投影する。それは、本当の自分だろうか?

もちろん、Twitter上の自分だって自分の一部だし、SNSを使うことに意味はないと言っているわけではない。むしろ、文化的世界と経済機会という意味では世界は少し豊かになったといっていい。ただ、今のSNSは拡張現実として考えるには不十分すぎるし、もっと質の高い仮想世界が将来うまれたとしても、そこは天国には絶対になりえない。なぜなら、それは元あった私たちの世界と同じだからだ。

昔は携帯どころかゲームもない、言語さえなかった時期があった。そのころ私たちは「人間」だったといえるだろうか?

私たちは音楽や絵、言葉など、他人に何かを伝える、自分を表現するためのツールとして言語を開発してきた。そして、その使い手となったものは同士となり文化を形成し、「人間」となったのではないだろうか。

そのツールの延長にSNSがあるとすると、文化を形成したのはインスタそのものではなく「インスタの使い手」たちだ。彼らは今までの言語では表現できなかったことをSNS上で表現し、インフルエンサーとまで呼ばれるようになった。

なにが言いたいかというと、SNSは本当の自分を見つけてくれはしない、ということだ。あなた自身が本当の自分を知っているからこそ、その一部をSNSを使って表現できるのである。

これを誤解してSNSに時間を費やし続けると、人によく見られようと猫を被った自分の虚栄像に自分自身が騙されて、本当の自分はどんどん遠ざかっていくのかもしれない。