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信濃国の片隅、兎田から始まった物語

今年の大河ドラマ「どうする家康」によって再び徳川家康や家臣団、英傑たちの物語に注目が集まりますね。
やがて私たちの地元である松本のお殿様になる松本藩初代藩主・石川数正も大いに活躍することでしょう!

でも他にもこの松本の地には徳川家そして江戸幕府と縁が濃い場所があるんです。
里山辺にある広沢寺と千鹿頭神社の間にポツンとある「兎田」がそれです。

市街地から離れた山裾の細い道にあり、石碑と立看板が無ければ誰も気づかないでしょうが、この場所で室町時代にあったとされる「ある出来事」が後に多くの人々の人生に影響するのです。

ここからは私も歴史には詳しくないので検索で得た情報になります。

当時この地は信濃国林郷と呼ばれ治めていたのは林光政。
その光政の邸にある年の年末、つてを頼りに世良田有親・親氏の親子が現れます。
関東で起きた永享の乱で敗者となり、将軍足利義教に迫害され領地を失った世良田氏親子は各地を流転している最中。
かつての縁で親子を匿ったものの、光政邸も裕福ではなく客人をもてなす余裕もない。
そこで弓を持って凍える外へ狩りに出て、ようやく野兎を得て汁をこしらえ振舞ったそうです。

現代よりも簡素な屋敷で、衣服で、過ごさねばならない真冬。
ましてお互い決して裕福ではない境遇の最中に啜る温かな吸い物は、きっと心まで沁み渡ったのでしょうね。

信濃を後にした世良田氏親子は三河へとたどり着きそこから運が開け有力土豪となり、恩のあった林光政を呼び寄せ家臣とし、やがて松平氏・得川氏と姓を変えながら勢力を増していき、世良田親氏から数えて九代目の家康の代でご存知の通り、ついに天下を取り幕府を開くまでに栄えます。

さてここまでのストーリー、調べていく中で実は結構諸説あったり、存在もあやふやだという指摘が多くされています。

でもいつの歴史ってそういうもの。
天下人となった徳川家康が「そうだったんじゃ」と語ればそれに沿ったストーリーが出来上がるんです。

いつの時代もなによりも大事なのは歴史を踏まえての「ここから」です。

幕府を開いた家康は林氏を祖先の恩人として厚遇します。
要職や広大な領地を与えるのではなく、名誉で。

松平氏の開祖と定めた世良田氏親子をもてなした林光政との兎田の古事を儀式とし、林氏からは兎肉を献上させ吸い物に仕立て、正月並み居る諸侯の中で一番目に杯を受けるのが慣わしと定め、林の家紋は「一文字候」とされました。
最高の客分扱いってところでしょうかね。

武力に長けた者が偉いのではないぞ、政に長けた者が目立つのでもない、我が徳川家に尽くしたものに序列を与えるのだ。
というのを九代も前の家系の伝聞を元に大物も含んだ家臣団の前で示したのです。
誰もひっくり返せないですよね、こりゃ。
(素人の感想です。悪しからず)

ちなみにその兎汁は現代でも岡崎市の神社で正月の行事に使われているそうですよ。
興味が湧いた方は試してみては?

その後の徳川幕府・江戸時代の大きな流れについては皆さんよーくご存知だと思うのですが、林氏のその後は幕末を迎える頃に他の名家とは違う運命を辿ります。


そもそも私が今回話している「兎田」について知ったのは2019年にNHKで放送されていた歴史秘話ヒストリアのある大名の話を何気なく観ていたら突然画面から松本市という単語が聞こえてきてびっくりしてからなんです。


幕末期に現在の木更津市にあった上総国請西藩で藩主となった若き大名、林忠崇。
その時20歳だったそうです。
その文武両道に長けた利発さは評判が良く、林氏と徳川家との縁もあり「やがては幕府の閣老に」と言われるほど。
しかし藩主となって僅か四ヶ月後、幕府は大政奉還…時代は大きくうねり始め揺らぎます。

優勢となった新政府と旧勢力になった全国の各藩の間で最後の抗争が始まり、徳川家とも縁深い請西藩の林忠崇の元にも官軍と戦おうとする勢力が呼びかけます。
忠崇と家臣たちが加わったのは剣客を揃えた「遊撃隊」
藩の代表である藩主自ら撃って出ただけではなく、出撃の時には脱藩し藩邸に火をつけて決意を示したそうです。
(後にご自身では「あれはやりすぎだったかも」と語られたそうですが笑)

その当時の理由としては藩といっても僅か一万石のギリギリの藩で「後々地元の民に迷惑が及んではいけない」との想いから藩主自らから脱藩して退路を絶ったと見られています。
それ程までに徳川への忠義の心があったのでしょうね。

しかし各地を転戦しながら劣勢の命懸けの戦いをしていた最中、新政府が徳川家に駿河など七十万石を与えられ家が続く事が伝えられると忠崇は「勝敗が決定した以上戦いを続けることは私戦になる」と離脱。

大義としての徳川家への忠義は果たされましたが、戻るべき藩は取り潰しになっており、蟄居が解けた明治5年からは農業や役人、豪商の番頭など様々な仕事に携わり生計を立てていたそうです。しかしどれも元殿様のやる事じゃないですよねぇ笑

その間もかつての家臣などから家格再興の願いが政府に出されおり、ようやくそれが叶ったのは明治二十六年のこと。翌年には従五位が授けられ名誉は回復されましたがその時はもう四十七歳となっていたそうです。

その後、祖先と徳川家との縁を象徴する里山辺の兎田にも訪問し
「信州祖先光政公の狩せし兎田を見て
 見るにつけ聞くにつけても忍ふかな しなのの山の兎田のさと」
という言葉を残しています

全てはここから始まった。

とまあ、ここまででも波瀾万丈な人生なのですがその後明治も大正も生き抜き、なんと昭和まで得意な絵を描き、請われれば剣術を教えて暮らしていたそうです。

「最後の大名」として、取材を受けて記憶を語った際には「琴となり下駄となるのも桐の運」とご自身の人生を振り返った句を詠まれたそうです。
同じ桐でも琴として大切に扱われるのか、下駄として人に踏みつけられるのかは運次第だ、と。
なんとも凄味と重味のある言葉ですよね。

そんな忠崇がついに亡くなったのは昭和十六年のこと。享年九十四歳。
辞世の句を尋ねられた際には「明治元年にもうやった」と答えられたそうです。
時間のスケールが長過ぎです。
その句は「真心のあるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ」
最後の大名、最後の侍らしい言葉です。

以下参考にしたリンク

https://kazusa.jpn.org/b/archives/7702


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