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最近のこと

今は修士課程の院生としてイギリスにいる。ここ最近は天気が良い。町で見かける人々の大半は既に夏の装いで、肌寒い朝方でもそうした格好で歩いているのを見ると、環境に合わせて服を変えるというより、装いを変えることで自分にとっての環境も変える、といったようなライフスタイルがこちらの人々にはあるのかもしれない、と思う。去年の九月の下旬に渡航したので、間もなく九ヶ月が経とうとしている。あっという間だった、というのは、思い返してみると自分でも感じることだが、そうした回想の仕方が結果的に隠すもの、そしてそのまま吟味されることなく、忘れ去られてしまいそうなものが何となく気に掛かる。

今年の一月頃から四月頃にかけて、心身がひどく落ち込み、ろくに大学院の課題に取り組めない日々が続いた。選んだ科目との相性の悪さも手伝って、どんな論文を読んでも、各センテンスやパラグラフが一向に意味のまとまりとして頭に入ってこなかった。時間をかけるほどに理解の程度は落ちていったが、授業についていくためには読まなければならなかったし、ほとんど何も理解できないことによって生じた焦燥や自己嫌悪、不安、閉塞感が、煮詰まったジャムみたいにどろどろになって頭の中いっぱいに溜まり、ラップトップの前に座ったまま動けなくなった。大抵、身体にのしかかる疲労が胸を焼くような感覚に変質したあたりで腰を上げるきっかけを掴み、図書館から寮に戻って、自分の部屋か冷蔵庫にあるものを片っ端から手に取って食べた。子どもの頃からあまりニキビができない体質だったが、顔のあちこちに赤い点が浮き出るようになった。毎朝鏡に映る自分の顔を見ると、胸の奥で臓器がぎゅっと収縮するような感覚がした。それが何なのかまともに考える余裕もないまま、大きくなり過ぎた何かに毎日半分くらい押し潰されながら過ごした。

仲良くなった友達と連絡を取るなかで、ようやくテキストでの会話における自分の身体性のようなものを把握した。前の恋人とも共通言語は英語だったのだが、彼女と付き合っていた時は、テキストの圧倒的な過剰性と、極めて限定的にしか伝達されない意味との間の両義性をどう扱えばいいのか分からず、うまく自分を開くことができなかった。僕らの関係は、結果として、彼女から自殺を仄めかすメッセージを受け取り、僕がそれを思い止まらせようとした後で終わった。関係の終わりに向かうにつれて、彼女のテキストにおける態度は加速度的に冷たくなっていったが、僕はそれにふれる方法を知らなかった。確か最後には "I think we should break up" と告げられた。主語が僕を含んでいたことも、別れるべきだという言い方も、そしてそうした物言いにもかかわらず極めて一方的な提案だったことも、僕には理解できなかった。それでも、遂にこうなったか、と思った。いずれそうなることはどこかで予見していた。それでも何もできなかった。
 その友達との頻繁なメッセージを通じて、テキスト空間において自分を覆っていた膜が破れ、幾分身軽な身のこなしが可能になった。いちいち "Hi(相手の名前)" をつけなくてもいいんだ、文法的には間違った文章もその人との関係次第でどうにでもなるんだ、というように、不透明性の回避に躍起になってそれまで執着していたことがより広い文脈に回収され、見出した新たな意味が、指先を通して自らの血肉になった。とはいえ、誰とでも心地のいいコミュニケーションが取れるわけでは全くない。しばらく好きだった人からの連絡は途絶えたし、知り合ったばかりの人のテキストにおける身の置き方を把握するのには、必要以上に慎重にならざるを得ない。いつも緊張して仕方がない。

昨日、しばらく会っていなかった友達と会った。彼女は間もなく家族のいる国に帰るので、面と向かって話せるのは昨日が最後だった。まとまらない気持ちをどうにかしようとした結果だと思うが、辛いことも、どうでもいいようなことも一緒くたに話して、またいつか、どこかで会おうと言い合って別れた。また会いたいと思っていることをいろいろな言い方で伝えようとしていた気がする。彼女はどうだっただろう、と考える。どう伝わっただろうか。

課題と修論をやらなければならないので、この辺りで終わりとする。

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