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これも挨拶の力かな、と思った話。

 こんにちは、スミレです。
 来週の卒業式が近づくにつれてソワソワしております。落ち着くためにも、全く別のことを書いて落ち着こうかな、と思います。

 以前この記事に書いた通り、挨拶ってすごいんだなぁと思っている私。

 ですが最近、追加したいエピソードが出来まして。今回はそれについて書いていきます。

 私、10か11歳の時からギター教室に通っています。
 先生が1人、生徒が1〜2人のクラスで、各々のレベルに合わせて個別指導してくれる、というシステムになっています。

 少しの間クラスメイトとして横でレッスンしていた小学生の子と、送り迎えに来るお母さんとは、まさしく「よっ友」状態でした。
 待合室で「こんばんは〜」、帰り際に「さようなら〜」、それだけ。会話らしい会話なんてひとつもしていません。
 私が人見知りモードになって、大変に無愛想なことになっていたと思います。

 その親子が、お引っ越しするということで、ギター教室を辞めることになりました。
 最終回になる日、親子は、お世話になった先生に感謝の手紙と贈り物を渡していました。先生、めっちゃ喜んでいました。

 ほっこりな場面に居合わせた私は、帰り支度に動きながら、「私も辞める時が来たら何か用意したいな」と考えていました。
 どんなチョイスなら先生も喜んでくれるかな、感謝の手紙にはどんなことを書こうかな、感謝といえば答辞の練習もしなきゃな……などなど、関連ワードの織り成す思考の海にダイブしかけた時、それを引き止める声がしました。

小学生の子
「よかったらコレどうぞ」


「エッ、あ、ありがとうございます」

 渡されたのは、なんと、何らかの物品が入った包みと手紙。封筒に貼られたシールがまたセンスのいいことで。

 予想外すぎて。
 だってまさか、私にも用意してくれていたなんて夢にも思わなかったから。
 嬉しさよりも、焦りが湧いてしまいまして。

 待って、私、何も用意してない。
 今日が最終回って知らなかった。
 いや知ってても、「よっ友」の好みなんて把握していないから、用意は諦めたかもしれない。
 でも海外まで行くって大変なことに、私からは何も無しなんて流石にナイわ。

 貰ったら返したくなるのが人間の性ってどこかで聴いたんですけれど、私も例に漏れません。応援したい気持ちがあっても、咄嗟に言葉にすることが苦手なのが私です。
 顔にも声にも出さず、プチパニック状態でした。

 後から遅れて湧いてきた嬉しさと、変わらず居座る焦りの2つを抱えながら帰り支度も済ませ、いよいよ別れの時。
 今まで散々、話すことの苦手さを克服しようともがいていた経験が活きたのか、最後の最後になってようやく、私から言葉をかけられました。

 「あ、あの、頑張ってください」。それだけ。
 親子は嬉しそうに「ありがとうございます!」と言ってくれました。
 お互い笑顔で別れを迎えることができました。

 ……いや、いやいや。ちょっと待ってよ、それは少なくないか私よ。
 頑張ってくださいって、もうちょいどうにかならなかったのか。
 海外に行っても、とか、これからもギターを、とか、付け足せそうなことはあったじゃないか。その一言ぐらい添えておけばよかった……。

 と、しばらく自己嫌悪に陥っていた私です。
 今は、手紙の内容と贈り物のお花のチェーンブックマーカーが嬉しすぎてメンタルケアが完了しております。
 自分から声を出せたのも、成長の結果だから、よく頑張ったさ。

 数日経ってから思い返すと、やっぱり不思議なんです。
 私と親子との関係って、本当に「よっ友」でしかなかったから。いや、友というには少し堅苦しかったような気もします。
 それなのに、かたや文と物で、かたや声ひとつで。別れ際にこんな一幕が生まれた。

 たかが挨拶、されど挨拶……と再認識させられた1週間でした。

親子へ
 私、書くのは得意なんです。だから、あなたたちと挨拶を交わし続けた日々が心に残り続けているということをここに書きました。
 結局声にはできなかったけれど、あなたたちの未来にたくさんの幸福があることを心から願っています。

 ここまで読んでくださりありがとうございます。

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