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Ⅰ ちいのいち Kagoshima

2017年5月
 風が吹くと、春になった。つい先週はコートが必要だったのに、今は電車も飛行機の中もクーラーをつけるくらいだ。飛行機を降りると、歩行速度は皆ゆっくりなのが可笑しく、出発前とは違ってなんとなく私もゆったり歩くのだった。
搭乗口前の椅子は蜜柑を思わせるオレンジ色や黄色だ。有名なデザイナーが作ったものらしい。それを知ったのは大学進学とともに家を出た後だった。それから、鹿児島の楽しみの一つに「空港の椅子に座ること」が加わった。

 東京も、故郷の鹿児島も、さほど変わりのない気温だった。
 「鹿児島も夜は寒いんだね。」
なんともない会話ができるのは、家族の中で母だけだった。

 近所の川沿いで、毎年恒例の春の木市をやっている。子どものときから、なんてことはないその木市に、母と行くのが好きだった。「きいち。」かわいいな。東京では聞かない言葉。「ちいのいち」逆から読んでも「ちいのいち」。口を突いて出ていた。

小説を書きなよ、と言ってくれていた彼に、「題名だけ決まったよ」と報告した。新しいことが始まる感じとか、行って戻ってきても一緒、みたいなストーリーにしてもいいかも。好きな人のことを書こうかな。鳥取とか、ウガンダとか、章ごとに場所を移ってもいいし。

ーー読みたいな。面白そう。まずは書いてみることがスタートだよ。日常をなるべく素朴に素直に書いていけばそれが一番いいものになるよ。

 ーー日常をなるべく素朴に素直にって、恋恋風塵みたいだね。私にとってはなんでもないものでも、人から見たら新鮮なのかもしれないね。鹿児島の街並みとか。

ーーそうなの、そうなのよ!読ませて、ちょっとずつでも、こつこつ。ちいのいち、ちいのに、ちいのさん、と連載小説にすればええやん。

そんなことを話すのが、なにもなく過ぎていく毎日の中で、1番楽しい瞬間だった。

2007 — 2010年
 ちいちゃんは、違うクラスの子だった。ガールズバンドでギターを弾いていた。美人な子だな、くらいの認識しかない。私は応援団に入っていた。そのおかげで、よく別のクラスの人からも話しかけてもらえた。ちいちゃんは、私と廊下ですれ違うとき、「天使~!」と声をかけてくれていた。私はなんと返せばいいのかわからず、いつも苦笑いで会釈をして通り過ぎていた。

 初めて喋ったのは秋の文化祭のときだった。ちいちゃんのクラスの展示を見に行ったときに、「一緒に写真を撮ろう」と声をかけてくれた。私はそのときですら上手く返答することができなかった。インスタントカメラで撮ったそのときの写真を、今でもはっきりと思い出すことができる。

 高校2年生になり、ちいちゃんと同じクラスになった。4月早々に応援団の昼練で、クラスの人とお昼を食べるタイミングが出遅れてしまった。クラスに馴染めるのかわからなかった。5月に鶴丸高校VS甲南高校の交流戦が終わった後、昼休みを不安な気持ちで迎えていた。教室では、仲の良い人たち同士がグループを作り、机を寄せ合ってお弁当を食べている。ちいちゃんが「おいで、一緒に食べよ~!」と声をかけてくれた。16歳当時、そんなことが私の生きる世界で大きな出来事だったことが、胸が苦しくなるくらい愛おしい。
 ちいちゃんは不思議な人だった。ちいちゃんがいると、周りの人たちは自然と仲良くなることができた。魔法のようだった。その頃から私は、みんなの中心にいる人や、誰とでも仲良くなれる人を好きになっていたような気がする。

 クラスの担任の先生は、生物の授業中に下ネタを挟むことが多かった。思春期真っ只中の私は、それがひどく苦痛だった。掃除時間、物理選択のちいちゃんに毎日愚痴をこぼしていた。どれほど続いたときだっただろうか。この十数分の掃除の時間に、ちいちゃんともっと楽しく時間を過ごしたい、という気持ちが溢れて止まらなくなった。彼女と一緒に笑い合える、楽しい時間にしたかった。文句ばかりの私を見せたくなかった。それから私は、担任の先生のネタで、授業中唯一笑う生徒になっていた。ちいちゃんは、私の世界の見方を180度変えた人だった。私の周りから、一人、二人と笑う人が増えていった。私の生物の成績ばかりが良くなっていった。

 高校卒業とともに、実家を出た。一人暮らしがしたくてたまらなかった。鹿児島は小さな世界だった。実家は窮屈で上手く息ができなかった。後になって、『あなたは何も悪くない』と、もし、あのとき、大人の誰か一人でも私に言ってくれていたとしたら、私はどんな人生を歩いていただろうと思った。家に居られずに、何ヶ月か母の実家から学校へ通った時期もあった。反抗期は長く、何年にも亘った。私は傷ついている、ということを伝えたいがためだったような気がする。
 家の中で、犬(プリンちゃん)だけが、私と心を通わせ、100%私の味方になってくれていた。ちいちゃんをプリンちゃんに会わせたかった。プリンちゃんの話をする度に、「鞄に入れて連れてきて~!」と言われていた。プリンちゃんは、いとこの蹴ったサッカーボールが身体に当たり、立てなくなって何週間か入院したことがあった。獣医さんからは「何があってもおかしくありません」と言われていた。病院へ様子を見に行ったとき、元気なく横たわるプリンちゃんに涙が止まらなくなった。プリンちゃんは泣いている私に気がつくと目を大きく見開いて、顔を上げ私を見た。私が泣いているから心配しているんだね。こんなときでも私を励ましてくれるんだね。彼女と心が通ったと感じた瞬間だった。

 高校の卒業式の後、当時お付き合いしていた人と、お互い、母親に口に出して伝えることを約束していた。
 「今まで育ててくれて、ありがとう」
 声を上げて泣き出した母のことを、私は一生忘れないだろう。

 一人暮らしを始めて、慣れない日々の家事や、お金を稼ぐことの大変さに、母への考え方が段々と変わっていった。帰省するときは、家族4人分の家事に2日で心が折れた。大学に進学してから、「なんでも好きなことをしなさい」と母は私に言った。大学院への進学や留学のときには、母が独身時代に貯めていたお金を出してくれた。金銭面の心配をすることなく大学院まで通わせてくれた母に、私のことを大事に思ってくれていたことを知った。

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