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詩が書けたことに感謝 - 1

- 初めて 彼を 拝見し -


私はソチオリンピック(2014年)で
羽生さんを 初めて見た時に ファンになりました。

おそらく多くの方が
羽生選手が このオリンピック舞台に
彗星のごとく現れ、
(ショートプログラム) パリの散歩道や
(フリープログラム) ロミオとジュリエットの
舞を披露した時  魅せられてしまった
(いわゆる ソチ落ちしてしまった)
のではないでしょうか。
私もしっかりその一人でした。

もっと正確に言えば
その羽生選手の 誕生日を見たとき、
12月7日となっており
彼と ほぼ同世代の息子が 
同じ誕生日だと知った時でした

えっ?  てなりました
見慣れた 馴染みのある月日
すごく遠くて 偉大な存在なのに 
何だろうこの親近感は
しかも血液型も 息子も同じ。

国民的英雄の彼と こんな共通点があるなんて
とても光栄でした。
それからです…
さらに 彼へのお熱が 増してきたのは

ソチ後 Facebookに載せた記事てす


-  詩 (彼のことを)書かせて貰いたくなった経緯  -


それ以来、彼のことをやっている特集などを
番組欄で見つけると 必ず見ては 録画したり
他の大会の演技も  鑑賞しては
癒しと感動をもらっていました。

私は 幼い頃、実は フィギュアの 少女漫画を見て
スケートに憧れ  習いたかったのですが、
近くにリンクがなかったため 諦め
でもやはりどうしても踊りたくて、
代わりにジャズダンスを習っていました。

なので、自分の若い頃は フィギュアでは
同世代の 伊藤みどりさんに憧れていました。
そして 息子世代の年齢になって、
今は みんな大好き羽生くんファンです。

そんな私ですが たまに
趣味で詩を書いたりしています
ただの素人の域で  恥ずかしい限りですが
これも  たまにですが
詩の投稿サイトに載せたりしています。

昨年 ('21年)の春
今年は オリンピックの年だなと思い
急に  アスリートの想いをのせた詩を
書いてみたくなりました。

誰を思い浮かべて書こう…
書きたくなる意欲をそそる人

そうなると  やはり私の中では
気持ちを そそらせてくれる人は
羽生くん しか思い浮かびません。

というか
彼のドラマチックな半生は 
もう うっすらと想像しただけで
色んな思いが いっぱい わきそうでした。

それに  他のオリンピック選手は
恥ずかしながら 名前程度しか知らず

その選手の歩いてきた道のりを
1つのストーリーとして想像できる人は
やはり私の中では  羽生くんだけでした。

さて  かと言って 彼のことを書くとなると
気合いが入ります。

大きい…  とにかく存在が大きすぎる
彼にふさわしい言葉って何だろう
簡単には出てきそうもない。

別に 作詞のプロでもないのに
ましてや 仕事でもないのに
彼のことを思うだけで、
自分の中では  最高のものを書きたいと
勝手に 訳の分からない使命感が
燃え始めました。

と同時に  彼には  やはり周りの人をも
その気にさせてしまう強いパワー 
オーラのようなものが
あるのだなとも 感じました。

できれば歌詞にしたい
素人には 無理かもしれないけれど…

その辺は あまり意識しないで
心から言いたい言葉が 出るのを待とう

けど  できれば 私なりの中で
それ相当の言葉で 彼を飾りたい
中途半端な言葉で  彼を語りたくない

ジャンプが ピシッと決まって 
最後の 決めのポーズを取った時のような
感動のフィナーレで 彼を飾りたい

上手く書こうと思わないで
気持ちひとつで 書きたい

はっきりと彼のビジョンが 見えた時
彼の精神世界に
少しでも触れることができた時
その時に  出る言葉で書きたい

そう思ってみた時
まずは 自分の知り得る
彼の歴史、奇跡を
一つずつ大切に  脳裏に描き直してみたい

一晩かけて ゆっくりと集中して
思い出してみたいと思いました。

それらを全て 思い返した上で、
どんな思いが 巡り
どんな言葉が 出て
どんな詩が 書けるか
その時点で 考えてみたいと思いました。

ここからは ひと晩 脳裏に
思い浮かべた その記憶です。

私が 詩を書くまでに
知った羽生くんのこと
( ソチ後 自分で 彼のことを調べて
知り得たものも含めてですが )

一瞬 一瞬  走馬灯のように
思い浮かべた記憶を 言葉にすると
大変長くなりましたが、
彼の歴史に 少し興味のある方は
どうぞお付き合い下さい。

これ以降は
羽生結弦選手を 語るにあたり
あつかましくも「彼」と
称することを お許しください。

思い間違いで 覚えている記憶も
あるかもしれません…
その点、熱烈なファンの方には
お詫び申し上げます🙏

私の 羽生くんについての情報は
博薄かも知れませんが
そんな私でも 羽生くんを尊敬し
慕わせて貰っています

なので  こんな私ですが…
ファンの 1人で いさせて貰えたなら
有難いです。

では  詩を書くにあたり
ゆっくりと 頭の中で 思い浮かべ直したことを
並べてみました。


- 頭の中で 彼の歴史を振り返ってみて -


4歳の時に お姉さんの影響でスケートを始め
小学生の時から頭角を現し
様々な大会で 賞を取ったこと

常に勝ち続けた プルシェンコ選手
が大好きで、
リュックには
プルシェンコ氏に サインをもらい
大切にしていたこと
髪型も 真似るほど憧れ、
彼を目指していたこと

また、彼は喘息というハンディがあり
当時 それを乗り越え
自分の夢、
オリンピックで金を 目指すような
選手にまで なれるかと
不安も抱えていたこと。

そして 16歳  つらかった東北震災
1 被災者でもあった彼は 避難所で過ごし、
スケートの拠点も失った。
生活するので 精一杯の現状に
自分は スケートをやっている場合じゃない
スケートを やっていていいのか 
自問自答する彼

けど  通っていた東北高校の野球部が
春の選抜甲子園に出、
懸命に戦う姿に打たれ
スケーターとして前に進むことを決めた彼

その後 全国でのアイスショーや
募金活動  メッセージの発信  などを積極的に行い
自分にできる精一杯のことをし
復興支援に 頑張っていたこと

そして、
その2011年  ドイツのシニアの国際大会で
初優勝を飾ってからは、
震災後も メキメキと頭角を発揮しだした彼

同時  傷ついた彼を支えた歌は
同郷  仙台出身のアーティスト
Hi-Fi-CAMP が歌った 「R」という曲
やはり同郷の グループの歌は
ひとしお 彼の心に響いたんだろうなと
その曲を聴いてみて ウルッときたこと

" 今  誰かを助けることが 巡り巡って
大切な君を守る  そんな時が来るかもね "

特に このフレーズに  ジンときた

そして  思い出すだけでも 心おどる…

私の目に 強く焼きついた 
あまりにも有名な あのソチでのオリンピック
ショートプログラム「パリの散歩道」

長いスラリとした足
おちごさんを 美男子にしたような端正な容貌

その身体で 繰り広げられる
かっこいい演技 (プログラム )

振り付けも 抜群にカッコよく
それでいて  あの彼が踊るから
また とびきり妖艶で、

テレビ画面のこちらで 見ている私さえも
かっこいいポーズが 決まる度
ワォー! と 喝采を送ってしまったこと

それまで彼のことを知らなかった私は
「何 ?   この子は何者?」 と 
トリコになってしまった。
いわゆる ソチ落ち

多分 これを見た多くの世界中の人たちが
私と同じような気持ちになったに
違いないことは
その テレビから伝わる熱気からも 確信できた。

「うわぁー  日本にこんな子がいたなんて」と
感動していたところ  隣にいた息子が
「これは日本  金とるな」 と ささやいたことも
懐かしい思い出だった。

その金メダルを 獲った年
11月に 行われた中国杯

これも あまりにも有名な
フリー直前の 練習中に起きた
他の選手との 衝突事故
流血
額から流れる血

今でなら 安心して思い返せることだけど
ただ「生きていてくれてよかった」と
当時は テレビ画面の前で
彼の演技が終わるまで ヒヤヒヤし通しだった。

衝突後に 映った 彼の血だらけの顔
頭は大丈夫なのか ?
テレビのアナウンサーもそれを心配している

なんて悲惨なんだ
あの流血を見て
ドクターストップが かかって
試合には出ないで!と思った。

会場の空気も一気に  心配のムード
しばらくすると なんと
ウォームアップに 再び姿を現した彼

頭は包帯が 巻かれているけれど
ジャンプを 飛んで見せる

私はもう 彼の演技の順番が来て 滑り始めた時
画面をまともに見れなかった

フリープログラムは「オペラ座の怪人」

彼が滑っている最中、半目を開き
見ていたけれど、
演技中ずっと「大丈夫ですように」
と画面に向かい  つぶやき続けた

自分が途中で つぶやきを辞めたら
彼が意識を失い 倒れてしまうような気がして
ずっと独り言。
周りの家族に
「演技に集中できないから やめて」と
うるさがられた。

結果  彼は何度もジャンプを 転倒したものの
無事 最後まで 意識を失わず 滑り切ってくれた
結果は こんな状況下で  涙の総合2位

良かった  とにかく 生きててくれてよかった
それでも「後遺症も 大丈夫ですように」と
願いながら
早く病院で 治療してほしいと思った

今だから安心して 録画も見れるものの
あの時は 気が気でなかった
とにかく 頭に大きな後遺症がなくて 良かった

そして その1ヶ月後
私は 見ていなかったのだけれど
スペインでの GPF(グランプリファイナル)で
怪我から立ち上がり  何と…
優勝したという情報を知り

出場するだけでも 大変なことなのに
優勝するなんてと驚いた。

彼は  怪我をするたびに
強くなって行く

つまずくたびに 何かを学び
次に控え  全力でコンディションを整える

その集中力と 陰での努力に
お見事と 言うしかなかった

ただ  この後 同じ12月に 彼は
「尿膜管後遺症 」
という病気を患い手術をされていた

このことを 私は恥ずかしながら
詩を書く前

平昌オリンピック後  記者会見での
彼の発言で
「怪我と病気と そういったものに苦しみながら…」
と言われていたその病気  って何だろう…と
気になり
喘息 ? と思っていたが、

調べた結果
これなのかと知り 痛々しかった。

けれど 彼は絶えず  次の目標が あったからこそ
凡人では 考えられない力で
乗り越えられてきたのかなと…
あの平昌後の 会見の発言を
さらに 深く噛みしめた


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