今の氣持ち(令和二年十月四日)
今は昔、およそ八年前、私が高校二年生の頃に書いた詞に以下のやうなものがあります。
”誰かを愛することが生きる意味であり、誰かに愛されることが生きる喜びである“
此れは今見返しても、ナルホドなあ〜、と思ひますが、實際はだうでせうか。生きる意味とか目的なんて、本當にあるのでせうか。
最近仲が良くなつた(と私は認識してゐる)女の娘(以下、Rとします)がをります。Rは某ガールズバーで私を接客した人です。なので時々、其の店にゆくやうになりました。
然しながら、其の店はカラオケ附きの店でして、それでなくてもやかましく、私はさういふ場が嫌ひですから、Rも非常に氣にするやうです。
「騒がしくてごめんね」
つてよく云はれます。Rにとつて私はたゞの客かもしれません。お金を落としてくれる人。其れ以上は思つてゐないけれど、でも時々來てくれる丁度宜いカモ、みたいな感じ? 私も別に其れ以上は期待してゐないし、宜いんですけれども。
然し、私が仲良くなつたと感じられるのは、Rが本心から私を氣に入つてくれてゐると感じられるからであり、私も其れで滿足してゐるからなのでせう。
そんなRと話をしてゐた時、感じたことがあります。
「毎日仕事ばかりで、大變なんだ〜」
と云つてゐました。幾つかの仕事を掛け持ちしてゐるやうです。生きる爲に仕方なくといふ感じ。趣味も特に有る譯でもなく、たまの休日は寢て過ごすとか。
本人には云へないけれど、何が樂しくて生きてゐるんだらう、と思つてしまひました(かなり失禮ですよね)。すいません。人其々の考へがあるはずですから、私がとやかく云ふべきではありません。
でも思ふに、實際のところ人生に意味なんて無い人が殆どでせう。さういふ日々の暮らしの中で、でも辛いことは澤山あつて、宜いことはまるで無く、しかも人生に意味の無い、そんな 日々を送る…。そんな感じなので、賢い人程死にたくなるのでせう。
私は中學一年の時に其れを感じ、絶望しました。死にたい、でも死ねない! 地獄のやうな世界です。生まれてしまつたから仕方なく生きてゐるに過ぎなくて、此の地獄のやうな日々は死ぬる瞬間を待つ間の時間稼ぎでしかない、みたいなね。
そんなRが私に云ひました。
「すみちゃんが今作つてゐる音樂が完成したら、是非とも聴かせてほしいなあ〜」
つて。うーん、一年かかつてもまだ完成してゐないな、つて云つたけれど。
思ひ返せば、結構多くの人が私に云つてくれてゐたなつて思ふんです。昔、バンドをやつてゐましたが、結構な反響があつたと思ひます(さう思へるのは今だからこそ、かもしれませんが)。
此の間のことですが或る人に、もつと積極的に音樂をするべきだと云はれました。
「いやいや、私ごときが新曲を作つたところで誰も聴かないよ」
つて云つたら、
「そんなことない、私が聴いてゐるから」
つて云つてくれました。
別の或る人は、
「御前の演奏を他の多くの人に聴かせたいんだ!」
つて。
他にも似た逸話は多數。
少々自慢つぽいですが、事實です。さういふ反應に對し私はとても感謝してゐるし、同時に
「今迄のことは間違つてゐなかつたんだな」
つて思ひます。多くの人が私の音樂に期待してゐるといふことが特に最近になつて解るやうになりました。さういふ期待にはなるべく應へたいですね。
云つてみれば、此れも所謂愛すること、愛されることの一つだと思ふんです。何故か。彼らは私といふ人間を氣に入つてくれてゐて、私の作る音樂も其の一部なのです。生きる意味や喜びの一部になり得ますよね。當然ですよね。
人は獨りでは生きられないのだから、どうしても誰かと關はらなければなりません。其の關はり方がどうであれ、其處には愛が必要だと思ひます。愛のかたちも樣々。
以前の私は、周圍と距離を作りたがる性格だつたみたい(今も?)で、自分から人々と離れてゆかうとしてゐました。其れで家に引き籠つて、獨りで悶々と自問したりしてね。こんなことをしてゐたら腐つてしまひますよ。反省したんです。
最近、私は寛容になつたやうに思ひます。人の話をきちんと聞けるやうにもなりました。周圍の人々を受け入れて、氣に入つた人には其れを解り易く傳へられたら宜い。さうやつて受け入れてみると、相手も私を受け入れてくれます。
人其々、考へは違ふでせうが、おそらく根底には愛の問題があると思ひます。困つてゐる人は考へてみてください。
完
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