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家について 前篇

 人の人生に於ける“家”の重要性は云ふまでもありません。衣食住と云ふぐらいです。
 然し乍ら、私自身が自分の家に滿足出來たことは殆どありませんでした。そんな私の“居住地遍歴”を、適當に綴つてゆかうと思ひます。

 私の父は銀行員です。なので頻繁に轉勤がありまして、昔は各地(とは云つても、父の會社は茨城縣の某地方銀行ですので、殆どは茨城縣内、關東から出たことはありません)を轉々としたものでした。

 私の記臆のなかで最も古いものは、我孫子市での日々です。父は取手市の職場へ通つてゐました。
 其處での家は、父の會社の社宅でした。非常に古く、ボロでした。
 私は幼稚薗兒にもならない歳でした。社宅には歳の近い子供達が多く、社宅の前の公薗で一緒に遊びました。親同士も仲が良く(少なくとも當時の私にはさう見へました)、互ひの家に招いたりして樂しき日々でした。
 然し乍ら、原因は忘れましたが、此の家は環境的に劣惡だつたやうで、私や母は咳が止まらなくなりました。體調が惡くなるやうな居住空間には住むべきではありません。(我々が引越して去つた數年後、大きな雹が降つて更にボロくなつたさうです)

 其の後、岩瀬町(現桜川市)といふところへ引越しました。私は幼稚園兒でした。約三年間住みました。
 其處は加波山といふ山の麓で、大變な田舎でした。我孫子での暮らしに慣れてゐた母は非常にショックを受けたそうです。然し、長い間苦しんでゐた咳はパッタリと止まつてしまいました。
 當時の家は、二階建てのアパートでした。面白いのは一世帶向けのアパートだつた點です。同じ建物が周圍に數軒、並んで建つてゐました。珍しくないでせうか。そして所謂メゾネットでした。家の前を「さくら川」といふ小川が流れてゐました(日本中にありさうな名前ですよね)。
 私の記臆にある情景は、或る午後の日、西日が差込む二階の部屋で(何故か蒲團が敷きつ放しでしたが)、母に折り紙を教へてもらつてゐる、あの美しき情景です。とても穏やかな時間でした。
 近所に玲奈ちやんといふ女の子が住んでゐて、よく遊びました。玲奈ちやんの家は戸建ての立派な家でした。玲奈ちやんのことは好きだつたけれども、廣くてきれいな家に住んでゐることに關しては僻んでゐました。

 私が小學校に入學する年に、水戸市へ引越しました。最初は水戸の三和といふところに住みました。赤塚驛が近かつたです。約一年間、住みました。
 三和での家は三和フラットといふ集合住宅でしたが、何種類かの棟がありまして、殘念乍ら一番ボロかつた棟でした(多分、家賃が安かつた)。
 お隣に住んでゐた家族が子供五人の大家族でした。ノブ君といふ同い歳の子がをりました。登校班が同じで、すぐに仲良くなりました。
 建物が變な形をしてゐたのでせうか。風呂場が中庭を挟んで向かいあつてゐて、しかも窓が附いてゐました。なので、タイミングが合ふと隣の家も風呂に入つてゐることが分かりました。よく中庭越しに水鐡炮を擊ちあつては怒られてゐました。
 殘念だつたのは、家から學校までの距離が遠いことでした。或る日、私は車に轢かれてしまい足を骨折しました。登校中に鬼ごつこを始め、道に飛び出した所爲でした(距離は關係無いですね)。

 後に分かつたことですが、見川中學區(三和と見川)は水戸市内で最も治安の惡い場所でした。さういふ空気感のある街だつたかもしれません。

 其の後、父が水戸の柳町といふところにある某マンションを購入し、引越しました。此處が現在までの私の實家です(以降、轉勤がある度に父は單身赴任をしてゐます)。大學入學まで住みました。
 同じ水戸市内でも學校は變はりました。柳町は水戸驛南の下町で、王政復古以前は水戸城下の町民の街として榮えてゐた場所です。すぐ近くにジャスコ(通稱:下市のジャスコ)と商店街がありました。ちなみに此の水戸三中學區は市内で最も學力の低い場所でした。
 小學生の頃は、此の家が好きでした。私の家は十階建ての六階に在り景色が良く、エレベーターが有り、そこそこ綺麗で、トイレはウォシュレット附でした。周圍の友達は比較的古い家に住んでゐる人が多かつたので、よく自慢をしてゐました。

 當時、學年で二番目に高い成績を誇つた私でした(一番だつた奴は、後に京都大學へ入學したらしい)。でも勉強は嫌いで、友達と遊んでばかりいました。勉強しないでも當時は出來たのです。然し兩親はそんな私の將來を案じ、私立の中學校を受驗させました。私は水戸三中に進學したかつたのですが、思ひに反して合格してしまいました。何年も塾に通ひ、やつと合格した人ばかりなのに驚きました(私は二カ月位、家で澀々やらされただけでしたので、信じられませんでした)。
 私立の學校でしたので、醫者の子だの社長の子だの、所謂ボンボンばかりでした。當然、彼等の家も立派なものが多かつたです。或る年、千波湖の花火大會を友達の家で觀ました。水戸驛前の一等地に在るとても素敵なマンションで、私の家よりも壓倒的に廣くて豪華でした。とても樂しかつたけれども、且つ、自分を場違ひな人間にも感じてゐました。自分の家も嫌ひになりました。
 入學當初は180人中44番だつた成績も下降の一途を辿り、やがて150番代で落ち着くやうになりました。高校に進學しても變はりませんでした。成績が下がつた理由としては、其れ迄は與へられてゐなかつた自分の部屋を與へられたことがあると思ひます。其處で勉強をする振りをして、實際はサボつてゐたからです。

 大學に入學が決まつたタイミングで、私は此の家を出ました。

後篇に續く

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