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怒りというもの。


私は怒りを覚えることがあまりない。

なぜなら、対人関係で何かあっても、ああ、人って弱いなあと思うからだ。
なので、今まで職場でもトラブルは発生せず、上司や同僚や部下が私に対して切れることはなく、穏便に過ごしてくることができた。

もちろん、時には理不尽な状況に置かれ、その事態の収拾を迫られ、飲み込みづらいことを飲み込んできたことも多々ある。

しかし、その場合でも、その人なりに守りたいものがあっての主張であり、それを受け入れることが人付き合いであろうと思うので、間違った主張であっても、例えば、明らかに黒いものを白と言っているとしても、私は白であることに同意する。

それでいいのだと思っている。

黒だと主張していることが、後から白だと分かった時に起きる事態を想定しておけばよく、その時、起きるトラブルを最小限にとどめ、対処方法を考えておけばいいのだ。

そうして会社生活を30年以上過ごしてきた。

最近、トラブルがあった。
それは、仕入先のミスによるもので、どう対処すれば最も良い落としどころであろうかと交渉を重ね、最善を尽くした結果、うちのボスにとっては一番嬉しい内容で片づけることができた。

決裂させないことが大事であった。
取引というのはそういうものだと思っている。
どちらかが一方的な負担を負っては、やがて破綻となり、その時にしっかりと方向性を決めておかないと取引の未来はない。
せっかく築き上げてきた信頼と信用、それをご破算にしてしまうことが最も損失となるのだ。

その為には、真摯に向き合い、誠意を尽くす、それしかない。

大事なのは、エンドユーザーである。

そこを守ることさえしっかりとできていれば、それが目指す道となる。
それにより双方痛み分けで済ませることができた。

私の作業量は半端なく増えることになったが、お客様のことを思えば、業務内容を見直し、効率化を考え、体制を作ろうと乗り切れる。
それでいいのだと思う。
怒って文句を言っていても建設的なことにはならないし、時間の無駄でしかない。

プライベートにおいてもそうだ。
怒るよりも諦めてしまう。

……ああ。そういうことでしたか、では、それまでのご縁ということで。

お誘いしても断られたり、返事がなかったりということはよくある。
そこを追いかけてもご迷惑なだけであり、お誘いしたこと自体が有難迷惑で、ご縁がなかったのだと諦める。
だが、お誘いをするということは、一緒に過ごしたいという思いがあるから誘うわけで、その思いというのは成就できないまま浮き上がる。
しかし、それをいつまでも持っていても良いことはない。
だから、諦めることが大事なのだ。
そこからまた新しい出会いがある。

過去において、相方とは散々喧嘩をしてきた。
言い過ぎていることをわかっていて、それでも言わなければならなかった。
これで関係が終わったとしてもいい、という覚悟を持って言うのだった。
私をどれほど傷つけているのかわからないのならば、わかるほどの痛い言葉を投げるしかない。
自らも自分の言葉に傷つきながら言う。
相手を殴る時は自分の拳も同じくらい痛い、それと同じである。
しかし、それでも言わなければならない言葉というのは、言うべきなのだ。
そうでないと人生の中で後悔する。

そういう思いを何度もしてきた。

言わないことが美徳である、やり過ごすことが大人の振る舞いだと。
しかし、それで過ごしてしまうと、後々、自分が自分を攻撃することとなる。

本音をぶつけあい、傷つけあい、それでも望む未来が同じであるならば、一蓮托生。
そうでなければ未来はないのである。
そこまで本音をぶつける相手はそうそう人生の中で巡りあえるものではない。だから、私は人に対して怒りを覚えることがないのである。

そんな私が怒っている姿を見せる時がある。

それは誰かを守りたい時である。


#エッセイ
#コラム
#怒りというもの

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