本音のぶつけ合い
ある人の、パートナーと喧嘩をして仲直りした、という記事を見つけて、偶然にもうちもその日、朝まで喧嘩をしてたなあとくすりと笑ってしまった。
うちのその時の言い合いは、概念の違い、だった。
「守る」
この概念。
これが二人とも譲れないのだ。
私は、常日頃から相方に言っていることは、思いが行いになる、ということで、
守れない、という状況に陥ってしまうのは、根本的に、守りたい、という思いがないから、守るための行動を起こさず招いた結果だと私は主張した。
すると、相方は、確かに思いが行動につながるというのはそうだと思う。けど、物事には完璧はない、だから、結果として守りきれなかったとしても、守りたいという思いがなかったことにはならない、と言う。
「あなたの欠点は色んなことに100パーセントを求めすぎるところだ」などグサリと加えながら。
「100パーセントなんか求めてないわよ」
「いや、ゼロか百しかない考え方だ」
「何事もやってみなければわからないでしょ。最初からダメあり想定だと結果もダメになるのよ」
「ベストを尽くしての99点も認めないのは傲慢だ」
と、まあ、勝手にやってろという内容の言い合いを延々と続けるわけで、酔いに任せて、互いにグサグサ刺し合う。普通ならばそんな欠点の指摘合いなど絶縁状態になるだろう。
自分の主義主張を訴える時、人は闘争心を剥き出しにする。それは、
自分を認めてほしいからだ。
自分を、許容して、受容してほしい。
そう望むからだろう。
これを言ったら機嫌が悪くなるから言わない…。
パートナーに対してそう思うと後から後悔することとなる。
不満を我慢するということは、問題の先送りでしかなく、忍耐が習慣化すると自分を誤魔化すことを覚えてしまう。
不満を不満だと思わないよう自分に暗示をかけ、波風を立てないよう表面的なところで過ごそうと訓練する。その訓練している自分に誇りを持ち、心を封印していくこととなる。
だが、それは、自分に嘘をついていることに他ならなく、打算的な自分を自分が慰めることになる。
その結果、
生きている、のではなく、過ごしている、ということになってしまう。
本音を心の奥底にしまい、綺麗な部分だけを見せて過ごしても生きていることにはならない。
「霜降りが半額よ!」
「やったね!」
どんなに喧嘩をしても、喧嘩モードは1日持たない。
時には衝突し、そんな互いを受け入れながら、共に生きていく。
それでいいのだと思う。
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