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幼少期に自分でかけた呪いを解いた話 ~解像度が低い外の世界へ目を向ける

前回の記事で書いた呪い(下記)は、構造を認識してから1か月で解けた。

解けたとは、「私が決めた呪いというのは本当に無駄なことであったしもうやらなくていい」と心底納得できたということだ。
(1カ月で済んだのは数年以上にわたる自己分析等が土台にあってのことで、呪いを解くのってそんなに早いの?!?!とビビらないでほしい)

思えば昨年立ち上げたベンチャー企業から、CEO辞任・株売却までして遠ざかることになったのも、呪い解脱後に出てくる「本来の自分がやりたいこと」と違っていたという事実からの前哨戦なのだろう。「起業」が違うのか「スタートアップ」が違うのか選んだ領域・産業が違うのか、あるいは以前記事に書いた通り経営路線(経営戦略)の違いだけなのかは未だ不明である。

解けたのはいいのだが、ここへきてそこそこ困っている。「いい大学へ行っていい会社に就職し、都会でハイセンスな暮らしをする」みたいな低解像度を低解像度なりにクリアして、クリアしても満たされない・幸せになれないことは分かっていた。つまり呪いで決めた「いい大学へ行っていい会社に就職し、都会でハイセンスな暮らしをする」以外のことをしないとどうも私は充実しないし幸せになれないのだ。では以外のこととは何かというと、コスパが悪いからと捨て去ったことや、俎上にも上げたことがないようなアクティビティがそれにあたる。その中に「私が成す・成し遂げると幸せに感じる事項」があるのだ。

ちょっと厳しい。なぜなら 以外のこと は多すぎる。

話は変わるが、映画「オッペンハイマー」を見た。理論物理学者…に限らず、本物の研究者がどういう人間関係を構築するのかは、大学の修士の学生くらいまでだと分からないのだが、前述のベンチャー企業関連で一度海外の学会に連れて行ってもらい、雰囲気を把握できたことがあった。彼らは論文を読み合う中であり、学会で議論を交わす中の、本当に知り合いであり、ともすると友達のように見えた。なのであの映画のあの雰囲気、誰の名前を出しても皆が理解する感じ、プロジェクトアサインの仕方がまるで社内の人の指名のごとく、というのは現実的なんだと思う。
しかし、修士の学生だと分からないと前述した通り、こんな「社会」が形成されてそれが仕事の大きな部分を占めるなんて、学生時代の私は知らなかった。研究者という職への解像度が低かったのだ。私は専攻の教授陣に博士課程に進むものだとなぜか思い込まれていたのだが、私自身は一度も博士課程は検討したことがない。研究者の「社会」が狭そうに感じたからだ。しかしいざ修了(卒業)して就職してみた身としては、民間企業の1会社員がアクセスできる「社会」と、研究者の「社会」だと、後者の方が広いように思う。

このように、解像度が低くて選べなかったことがたくさんある。

以外のことすべて は不可能としても、ちょっとでも気になることは色々やってみないと分からないなと思っている。

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